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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.60

雪の中、血相を変えた千代太が走り込んできた。――西條奈加「隠居おてだま」#15-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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 雪は昼から小降りになったが、すでに子供のすねに達するほどに積もった。
 それでも子供たちは律儀にやってきて、おわさのこしらえた弁当を、善三が配っている。
「今日は塾は休みとするから、このまま帰りなさい。また雪がひどくなるやもしれんからな、道草なぞせずまっすぐ帰るのだぞ」
 徳兵衛が達し、はあい、と子供たちが声をそろえる。
「あれ、千代太は? 千代太がいねえぞ」
「本当だ、あいつが来てねえなんて……風邪でも引いたか?」
 勘七と瓢吉が気づく前から、徳兵衛も気になっていた。あの千代太が諦めるはずもない。病か怪我くらいしか思い浮かばず、内心では案じていた。
「おれ、帰りに嶋屋に寄って、ようすを見てくるよ。なつのことを頼めるか?」
「おう、任せとけ。千代太に会えたら、よろしく言ってくれ」
 ふたりのあいだで話がまとまり、徳兵衛に暇を告げたときだった。
「おじいさま! おじいさま!」
 千代太が庭に走り込んできた。雪まみれで、血相を変えている。
「おじいさま、大変なの! どうしよう、おじいさま!」
 小さな白い顔は、不安と怯えで青ざめて見える。よほどの事態が起きたようだ。これまでの戒めが頭からとんで、強い口調で孫に問うていた。
「どうした、千代太、何があった?」
「おばあさまが……嶋屋を出ていってしまったの!」
「お登勢が、嶋屋を……? どういうことだ、千代太?」
「父さま宛の文には、嶋屋での役目を終えたから、家を出てひとりで暮らすと書いてあったって」
「……つまりは、あれも隠居家を得たということか?」
「でも、どこにいらっしゃるか、誰にもわからないの! つきほどして落ち着いたら、また知らせるとだけ……」
 着物を数枚と身の回りの品だけを携えて、お登勢はひっそりと嶋屋を出ていった。
 文を読んだかぎりでは、実家に戻るつもりはなく、どこぞの長屋にひと間を借りて、暮らしていく心積もりでいるようだ。
「三月もすれば、知らせが入るのだろう? あれはしっかり者だからな、放っておいてもよいのではないか?」
「駄目だよ! だっておばあさまはこのところ、気落ちなすっていたもの」
「気落ち、だと? あのお登勢が?」
「おじいさまを怒らせてしまったことを、ずいぶんとすまながっていて……きっとずうっと気に病んでらしたんだ。おばあさまは顔には出さないけど、肩が落ちていて、背筋もぴんとしてなくて……だから、坊にはわかっていたのに……」
 口許がしわしわと歪み、ほろほろと涙をこぼす。
「おじいさまに次いで、おばあさまにも会えなくなったらどうしよう……坊は寂しくてならないよ……」
 涙にくれる千代太をなだめてくれたのは、勘七だった。
「泣くな、千代太、この前のじさまのときのように、おれたちが探しにいってやるからよ」
「ほんと? 勘ちゃん」
 ああ、と勘七は、力強く請け合う。
「じさま、お登勢師匠の行先に、心当たりはねえのか?」
「……まったくない」
「まったく、亭主ってのは、どこも使えねえな。だから女房に、愛想をつかされちまうんだ」
 瓢吉に容赦なくこき下ろされても、返す言葉がない。
「おわささんなら、何か知ってるかもしれねえ。千代太、おまえがきいてこい。お登勢師匠の友達でも知り合いでもいい、片っ端からあげてもらえ。おれたちで手分けして、回ってみるからよ」
「うん、わかった、きいてくる!」
「おーい、おまえらふたりは、ちびたちを家まで送り届けてくれ。頼んだぞ」
 勘七の指図で、千代太はおわさのもとに駆けていき、瓢吉はとしかさの五、六人を残して、下の者たちには帰るよう促す。
 手際の良さは舌を巻くほどで、徳兵衛は内心で、己の不甲斐なさに悄然とした。
「おわさから、きいてきた! 十軒くらいになったよ。てる姉とうねちゃんも手伝ってくれるって」
「そりゃ、助かる。じゃあ、しめて九人だな。五組に分けて、二、三軒ずつまわるか」
「ほとんどががも町か……近いところを同じ組がまわることにしてと」
「終わったら、いったん嶋屋に集まろうか。その方が近いし、おきのに頼んで、甘酒をふるまってもらうよ」
 勘七と瓢吉が組分けして行先を決め、元気が出たのか、千代太の表情も明るくなった。
 雪の中に元気にとび出す子供たちを、縁側で見送った。
 子供たちの姿が見えなくなると、入れ違いにおわさがやってくる。
「ご隠居さま、よろしいですか。実は坊ちゃまには伝えなかったのですが、もうひとつ、心当たりがありまして……」
 日頃はずけずけと物を言うおわさが、具合が悪そうに言い淀む。
「何日か前、湯屋で会った女中仲間にきいたのですが……大おかみを、だんざかうえの辺りで見掛けたというのです」
「団子坂、だと?」
「覚えておられませんか? 団子坂に近い、けんてらちようれんを……」
 思わず、声が出そうになった。辛うじて吞み込んで、低く応えた。
「いや、覚えておる……」
「念のため、蓮卯寺に善三を行かせることにしました。もしかしたら、あそこの庵主さまなら、大おかみの落ち着き先をご存じかもしれませんし」
「ならば、わしも行こう」
 おわさは驚いたように主人を見上げたが、かしこまりました、とすぐに仕度を整えた。
 みのを要するほどの降りではなく、徳兵衛は笠をかぶり、下男を従えて家を出た。
「そういえば、あのときも雪であったな……」
 笠の下から、鉛色の空を仰いだ。あえて先を行く善三が、主人をふり返った。
「足許が悪いから、お気をつけくだせえ。この調子じゃ、団子坂へ着く頃には、日が暮れちまうかもしれやせんね」
「ならば、表通りに出たらを使う」
「ええっ! 駕籠ですかい? ご隠居さまが?」
 一文を惜しむ徳兵衛にとって、駕籠賃こそ無駄遣いだ。日頃はまず乗ることはせず、善三は目を白黒させる。
 妻に離縁状を突きつけたのは己の方だというのに、何をそんなに焦っているのだろう。自分でもわからないが、いまお登勢を見失えば、永遠に会えなくなる──。そんな気がしてならなかった。
「四軒寺町ですかい……この積もりようだから、さかを弾んでもらわねえと」
 駕籠かきの業突くな求めにも、ふたつ返事で応じたのは、時を惜しんだからだ。徳兵衛を乗せて駕籠が走り出し、善三はその後ろを駆けながらついてくる。
 巣鴨町を突っ切るようになかせんどうを東に抜けると、こまごめに達する。この辺りは武家地であり、大名の下屋敷や小役人の組屋敷が立ち並び、やがて道の先にはくさん権現が見えてくる。この辺りは分かれ道になっており、中山道と並行して走るいわつきどうに入るときちじようがあり、北東の方角に道を取り、団子坂を下るとせんに出る。
 この団子坂へと至る道の途中は、俗に四軒寺町と呼ばれ、四軒に留まらず多くの寺が林立し、寺町をなしていた。
「団子坂上に近い、蓮卯寺まで頼みまさ」
 おわさから場所をきいていたらしく、駕籠脇を走りながら、善三が駕籠舁に指図する。
 酒手を払って駕籠を帰し、蓮卯寺の山門を見上げた。
 ここに来たのは、何年ぶりになろうか。三十年までは経っていないが、二十七、八年前になるはずだ。
 徳兵衛が訪れたのは、たった一度きり。覚えていると女中に告げたが、おわさが寺の名を出すまで、すっかり記憶から抜け落ちていた。
 そのあいだもお登勢はずっと、この寺に心を残していたのだろうか。
「善三、この辺りで待っていてくれ。わしは境内を探してみる」
 下男と別れて、山門の内に入った。蓮卯寺は尼僧が営む小さな寺で、境内もさして広くはない。お登勢がいるとしたら、おそらく境内の裏手であろう。雪かきが済んでいるのは本堂へと通じる参道だけだが、脛下ほどに積もった雪の上に、人が通ったらしい跡がついている。足跡を追うように、裏手へとまわった。
 境内の外れに、子供の背丈ほどの石造りの塚がある。
 その前に膝をつき、手を合わせる姿がある。
「お登勢……」
 かすれた声は雪のせいか響きは浅かったが、お登勢は肩越しにゆっくりとふり返った。
「おまえさま……どうしてここに?」
 どのくらい、ここにいたのだろうか。髪にも肩にも背にも、うっすらと雪が積もっている。徳兵衛は近づいて、その雪をそっと払った。
「わしも、お参りしてよいか?」
 お登勢はうなずき、徳兵衛のために場所をあけた。石塚の前にふたり並んで、手を合わせる。この塚は、すい供養のための水子塚である。
 お楽が生まれる前、たしか吉郎兵衛は六歳、まさろうは四歳だった。お登勢は身籠もった三人目の子を流産した。子は五月ほどで、墓すら築かれることはなかったが、産婆の話では女の子であったという。
「子はまた授かろうし、気に病むことはない。おまえも早く忘れなさい」
 流産はめずらしくなく、すでにふたりの男子を儲けている。気落ちはしたものの、徳兵衛は長くは引きずらなかった。お登勢も加減がすぐれず、半月ほど寝付いたものの、床上げに至ってからは、前と変わらぬようすに見えた。
 ふた月ほど経った頃だろうか。最初に気づいたのは、吉郎兵衛だった。
「母さんが、どこにもいないんだ! このところ、時々姿が見えなくなって……母さんは、どこにいるの?」
 甘ったれの長男は、涙目で訴えた。まだ手習いには通っておらず、子守りの姉やもいるのだが、母の不在が多くなったことを敏感に察したようだ。
「母しゃん、どこ?」
 政二郎はただ、兄の真似をしているだけであったが、やはり不安そうに父を仰ぐ。
 しかし子供の訴えに、いちいち耳を貸すほど、徳兵衛は暇ではない。妻にも奥向きの仕事があり、挨拶回りや届け物など他出も多い。そのたぐいであろうと、気にもとめなかった。息子の話を思い出したのは、さらにひと月ほど後のことだった。
「この前、団子坂に植木を見繕いにいった帰りに、お内儀をお見掛けしましてな、四軒寺町の辺りです。私は駕籠に乗っていたので、お声掛けもせずに通り過ぎてしまいましたが」
 町内でさる商家の隠居に行き合った折、そんな話をされた。隠居は植木が趣味で、団子坂付近は植木屋が多かった。
 団子坂も四軒寺町も、まったく縁がない。不思議に思って、女中頭にたずねたが、心当たりはないと返された。しかしその脇で、若い新参女中が急にそわそわし出す。
「なんだ? 何か知っておるのか?」
「いえ、あたしは、ただ……」
「はっきりせんか!」
 主人に怒鳴りつけられて、十代半ばの若い女中は身をすくめる。いまとなっては肉付きもふてぶてしさも増して、当時の姿を思い出すことすら難しいが、その年の春から嶋屋に入ったおわさである。
「おかみさまが、はんざんなさった折から、ずいぶんと気落ちなさっておられたので……水子塚にお参りしてはとお勧めしました。そのお寺が、四軒寺町にあるんです。あたしの実家も、すぐ近くで……」
 しどろもどろになりながらも、おわさはそのように説いた。
「あれしきのことを、引きずるとも思えんが……」
「でも、言われてみればたしかに……ここふた月ほど、そとが長引くことが多くなりました。今日はご親戚のお宅に出掛けましたが……やはり少し遅うございますね」
 胸の中に、焦りに似た気持ちが生じ、女中頭も気遣わし気な顔をする。
「よろしければ、おわさに案内させて、私がその寺まで参りましょうか?」
「いや、わしが行く」
「旦那さまが、自ら出向かれるのですか?」
 いささか失礼なほどに、女中頭は意外そうな表情をあからさまにしたが、徳兵衛は構わず、おわさを連れて家を出た。
 待っていれば妻はいずれ戻るというのに、どうしてあんな気まぐれを起こしたか、いまでもわからない。ただ、無暗に足がいた。当時は徳兵衛も三十代半ばであり、若いおわさも難なくついてきて、四軒寺町に着くと蓮卯寺まで主人を案内した。
 いまとまったく同じに、石塚の前で妻の姿を見つけたときは、胸がいっぱいになった。
「参りに来るなら来ると、言えばよいではないか」
 つい叱りつける口調になったのは、安堵の裏腹である。
「すみません……私事で、ご迷惑かと。奉公人たちにも、言えませんでした」
「わしとて、あの子の父親だ。ともに参っても、ばちは当たるまい」
 不機嫌に告げると、ほんのわずかだが、お登勢は唇の片端を上げた。わかりづらいが、妻なりの笑顔である。並んでお参りを済ませてから、妻にたずねた。
「そんなに娘が欲しかったのか?」
「それもありますが……お産婆からきいたことが、心にかかって」
「何をきいたのだ?」
「一度、子が流れると、その後も続いたり、子が授かりづらくもなると……もしかしたら、あの子が私たちの、最後の子供であったのかもしれません」
 生まれてもいない子に、情を注いでも仕方がない。徳兵衛はむしろ、あえて目を逸らし、妻にも忘れるよう促した。だからお登勢は、悲嘆も不安も、身の内に沈めるしかなかった。
 腕に抱くことなく失った子をいたみ、もっと気をつけていればと悔やみ、さらには次の子を望めないかもしれないと憂いた。
 沈めても沈めても、悲しみは浮かんでくる。押しつぶされそうになったとき、おわさから、この蓮卯寺についてきかされて、わらにもすがる思いで訪れたに違いない。
「吉郎兵衛と政二郎だけで、わしは十分だ。どうしても娘が欲しければ、養子を迎えたらよかろう」
 甚だ伝わりづらいが、精一杯の励ましと心遣いであった。
 あの日もやはり、雪が降っていた。
 お楽が生まれたのは、それから六年後だった。

「未だにおまえが、蓮卯寺ここに通っておったとはな」
 おわさが口にするまで、かつにも忘れていたと、徳兵衛は正直に告げた。
「いえ、私も、迎えに来ていただいた頃から、だんだんと間遠になって……お楽が生まれてからは、すっかり足が遠のいておりました」
「ならば、どうして?」
「お楽が所帯をもって、ようやく肩の荷が下りたような心地がして……吉郎兵衛も政二郎も、すでに独り立ちしておりますし、私も母親の役を終えました。そうしたら急に、あの子のことが思い出されて」
 薄情は己も同じだと、お登勢はすまなそうに石塚に目をやった。
「千代太にきいたが、おまえも嶋屋を出たそうだな」
「はい、この近くに、長屋を借りました」
生活たつきの当てはあるのか?」
「お寺さまが多い土地だけに、造花の内職なぞは事欠かないようです」
「仮にも嶋屋の大内儀が、内職なぞせずとも……せめて吉郎兵衛から、隠居代をもらえばよかろう」
「それでは、詫びになりませんから……」
 お登勢は向きを変えると、徳兵衛に向かって深く頭を下げた。
「このたびのことは、私の浅はかが招いた不始末です。ご隠居さまにはお詫びの仕様もなく、せめてもの償いのつもりで、嶋屋を出ることにいたしました」
「詫び、だと?」
「はい。責めを負うべき私が、嶋屋で安穏としているわけにも参りません。私もこれからは、己の身ひとつで暮らしてゆきます。押しつけがましいのは承知の上ですが、なにとぞお許しくださいまし」
「許すというても、わしもすでに嶋屋を出た身であるし、おまえとも離縁を……」
 己の短気が、いまさらながら恨めしい。いまさら離縁状を引っ込めるわけにもいかず、さりとてこのまま別れるのも忍びない。
「えー、その、何だ、新居はもう片付いたのか?」
「はい、荷はわずかですし、鍋釜などはおいおい揃えていくつもりです」
「ならば、ちと寄らせてもらおうかの……そのう、茶飲み友達として……」
 お登勢はひどくびっくりしたが、両の目尻がゆっくりと解けてゆく。
「ぜひ、いらしてくださいまし。ああ、でも、茶も急須も土瓶もなくて……」
「そのくらい、引っ越し祝いに贈ってやるわい」
 勢いの失せた雪が、風花のように妻の肩にふわりと落ちた。

了 

※本作は単行本として小社より刊行予定です。


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