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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.59

意固地を通すのもそろそろ止めようと思った頃、隠居家を訪ねてきたのは。――西條奈加「隠居おてだま」#15-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「ご隠居さま、少しよろしいですか? ご相談がありまして」
 子供たちが家路につくと、入れ替わりに職人頭のおはちが居間を訪れた。腕に糸の束をいくつも携えていたが、徳兵衛の顔を見るなり遠慮を口にする。
「お疲れのごようすですし、明日にいたしましょうか?」
「いや、構わん。明日も子供らが押し寄せてくるのは変わらんしな……話とは、糸のことか?」
 はい、と五束の糸を畳に並べる。嶋屋との取引をやめたために、新たな仕入先が必要となった。不幸中の幸いとでも言おうか、糸問屋の隠居が集まるかんえつかいと関わりができた。先日の催しに出席していた顔ぶれの中から、商いが手堅く、品質も悪くない五軒を見繕い、糸見本を届けてくれまいかと文を送った。会で親しく口を利いた、まるかめも入っていたが、いまの主人とは面識がない。
 本来なら自ら出掛けて相談するのが筋であろうが、どうして嶋屋に頼まないのかとの疑問に、いちいち応えるのも鬱陶しい。年明けから職人を増やし、組紐商いをこれまでより大きくする。仕入先を嶋屋に限らず、一、二軒増やしたいとの建前を文にはしたためた。
 面と向かって噓をつくのははばかられるが、真実まことを明かすなぞ論外だ。文という中途半端な方法を取らざるを得なかった。
 求めに応じて、見本の糸が三々五々届き、五軒分が揃ったのは数日前だ。それをおはちに託し、糸の質や色、そして組加減などを吟味させた。
「で、どうであった?」
「はい、ご隠居さまのお見立てどおり、『たちばな』の品がいちばんよろしいかと」
「やはりそうか……」
 徳兵衛が渋い顔で、顎に手をやる。橘屋は、品は良いのだが値も高いのだ。交渉しだいで多少下げることもできようが、嶋屋の卸値には遠くおよばない。一方で、値を合わせれば質が落ちる。この相反する板挟みは、如何いかんともしがたい。
「仕方ない。ひとまず橘屋から卸してもらって、急場を凌ごう。元祖を名乗る以上、質は落とせぬからな。たしか年内で、糸の材が尽きるのであったな?」
「色によっては切れたものもありますが、季も替わりますし、色目を工夫すれば、半月からひと月ほどはどうにかなるかと……」
 冬のあいだは、春に向けての品を組んでいた。紅梅色や桜色をあしらった、春らしい組紐を手掛けたが、年明けからは夏に似合いの涼しい色合いに切り替わる。とはいえ、大胆な色模様がおはちの身上だけに、糸色の種類が減るのは芳しくない。
「足りない糸のみ、ひと月分を仕入れて、そのあいだに別の仕入先を探さねば。多少遠くはなるが、ほんごういしかわうえまで足を延ばしてみるか……上野なら長門屋が詳しいかもしれんな。世話になるばかりで右衛もんさんには心苦しいが、ひとつ頼ってみるか」
 徳兵衛が手を引いた帯留商いは、長門屋佳右衛門に託すしかない。
 上野の長門屋に足を運び、佳右衛門にだけは経緯を正直に明かした。
「身内のいざこざで、まったくお恥ずかしい限りですが……」
「いや、お話はよくわかりました。職人とのやりとりは、お引き受けいたします。ただ、本当によろしいのですか?」
 佳右衛門が案じ顔を向けたのは、安い同情からではない。身内の縁を断てば、五十六屋の商売にも大きな障りとなる。世情に通じた佳右衛門には、先々のかんなんが見えていたに違いない。
「ご隠居さま、さいなことでも構いません。何かあった折には、この長門屋と私を思い出していただきたい。きっとお役に立ってみせます」
 これほど心強い後ろ盾はなく、いまとなってはよけいに有難みが身にしみる。
「思えば、長門屋と縁ができたのは、おはちのおかげであったな。改めて礼を言うぞ」
「そんなもったいない……あたしは何もしちゃいませんし」
 おはちはたいそう恐縮したが、ふと真顔になって畳に手をついた。
「あたしの方こそ、お礼を申し上げないと……今度のことで、よくわかりました。ご隠居様が、どれほど仕入れの糸に、心配りをなすっていたか」
「仮にも、糸問屋の主人であったのだ。粗末な材を宛がうわけにもいくまい」
「いいえ、橘屋の糸ですら、色目においては見劣りします。中にはご隠居さまが染屋に申しつけて、新たに染めさせた糸もありました。……あたしの意匠に合うよう、どんなに心を砕いてくださったか、いまさらながらに思い知りました」
 たしかに紐の材においては、できるかぎり心血を注いだ。
 質が良く、値も程よい糸を、徳兵衛自らが吟味して、色も染屋に細かく指図し、場合によっては新たに作らせた新色もある。値決めにおいても、損にはならないが、さしたるもうけも出ない、いわばぎりぎりの線を見極めてきちに承知させた。もっとも、徳兵衛と息子の力関係があってこそなせる業であり、身内なればこその破格とも言える。
 佳右衛門に言われるまでもなく、徳兵衛も頭ではわかってはいた。けれども、こうしておはちから謝辞を受けると、己の身勝手が何やら気恥ずかしい。
 徳兵衛の胸中を知ってか知らずか、おはちは言葉を継いだ。
「組紐にとどまらず、うちの人のことでもお世話になりました。私ら一家が、いまこうして四人で暮らしていけるのは、ご隠居さまのおかげです」
「よさんか、いまさらこそばゆいわ」
 商い事ならともかく、情絡みは苦手なたちだ。家族のもんちやくには関わりたくないというのが本音であり、亭主のえのきちの一件も、自分の手柄なぞとは思っていない。
「だからこそ、今度は私らが、何かして差し上げたい。亭主も勘七も、それになつまでもが、そのように……」
 一瞬、おはちの後ろに、一家の姿が浮かんだ。榎吉や勘七ならまだしも、幼いなつは、騒がしくわずらわしいだけの存在だった。なのに思いがけず、なつの笑顔が胸に張りついている。じさまと連呼しながら嬉しそうに駆けてきた、あの笑顔だ。
「私らは非力で、何もできないかもしれませんが……こうしてお傍にいることだけは、忘れないでくださいましね」
 何かを失くして、初めて存在の大きさに気づくこともある。
 身内を失うと、佳右衛門やおはち一家の真心が、ことさらにしみる。
 いわば他人が、これほど大きな拠り所になるとは──。疑り深く、容易に人を信用せず、何でも自分ひとりでこなそうとする──以前の徳兵衛なら、想像すらできなかった。
 しかしこの縁は、この恩恵は、元を辿ればそこに行き着く。
 毎日、訪ねてくれるのに、未だに口を利いていない。
「意固地を通すのは、今年いっぱいにするか……」
 孫に罪はなく、気持ちの上ではとっくに許している。それでも頑固の蓋は、おいそれとは開いてくれない。我ながら厄介な性分だと、徳兵衛はため息をついた。

「ずいぶんと積もりましたねえ。やむ気配もありませんし……」
 大晦日を明日に控え、あさの給仕をしながら、おわさがこぼす。
 夜半から降りはじめた雪は、朝になってもやまず、未だ盛んに降ってくる。
 居間から見える景色は、庭も田畑も一面、真綿を敷き詰めたように白一色で、その綿が少しずつ厚みを増していくようだ。
「今年いちばんの大雪になりそうですよ。今日はさすがに、竈塾はお休みにした方がようございますね」
 これまでにも五日に一度ほど、雪がひどい日や、木枯らしが唸りをあげて吹きすさんでいた日があった。こんな日は外に子供たちを長居させず、あらかじめおわさが屋内で煮炊きをし、弁当にして子供たちにもたせて帰した。
 今日もその方がよさそうだと徳兵衛は判じ、主人の朝餉が済むと、おわさは忙しそうに腰を上げた。
 女中がれた熱い茶を、ゆっくりと喫し、ほっと息をつく。外から声がかかったのは、その折だった。
「ご隠居さま、急にお訪ねしてすみません。かざりの秋治でございます」
 名を告げられたとたん、からだが強張った。
「こちらさまに顔向けできる立場にないことは、重々承知しています。詫びを申し上げることすら憚られる。己の不義理と不始末は、肝に銘じております」
 もしも長々しい詫びの文句を並べられたら、水をぶっかけて即刻追い返していたろう。
「本日は、別の件で参りました。あっしとお楽お嬢さん……いや、あえて申します。あっしと女房は、このたび嶋屋さんから勘当の沙汰を受けました」
 え、と思わず声がもれた。どういうことかと、頭が混乱する。
「帯留細工はこれまでどおり買いとってくださると、長門屋の旦那さまから伺いました。ご隠居さまの恩情のおかげで、暮らしも立ちます。店持ちのような贅沢はさせられませんが、女房のことは一生涯かけて大事にします」
 あれほど信用していた秋治に、見事にたばかられた。ここひと月近く、生真面目そうな顔を思い出すたびに、腹が立つ以上に胸が悲しみに塞がれた。いまさら耳を貸すいわれもない。
「あっしらふたりは嶋屋を出ます。二度と敷居はまたぎません。だからご隠居さま、どうか嶋屋にお戻りください! 旦那さまも大おかみも坊ちゃんも、それだけを願っています」
 徳兵衛と嶋屋の仲を、もとのさやに収める。それが秋治の詫びであり、恩返しということか。おそらくこの思案には、嶋屋の者たちは関わっていまい。徳兵衛の意固地は筋金入りだ。自ら放った言を翻すなど、天地が返ってもあり得ないと、よく承知している。
 秋治とお楽が、懸命に考えて出した結論か──。不思議と、悪い心地はしなかった。
 この男の人となりだけは、徳兵衛の眼鏡に狂いはなかった。わがままほんぼうで、しやが過ぎる娘だ。先日の長屋での諍いのように、あつかいに困ることもたびたびあろう。
 それでも秋治になら、お楽を任せられる──。
「娘を頼む」と、一言声をかけたかった。たった一言で、秋治も、そして己自身も救われる。しかしそこに、実に間合いよく邪魔が入った。
「お父さん、お願い、何とか言って! そこにいるのでしょ? お父さん!」
「お楽、ついてくるなと言ったろう。こんな雪の日に、転びでもしたらどうする」
「だって、秋治さんひとりに、押しつけるなんてできないもの」
 庭先で、またぞろ口喧嘩をはじめる。やれやれと、ため息がこぼれた。
「お父さん、出来の悪い娘でごめんなさい! 騙すような真似をして、ごめんなさい。あたしはお父さんをがっかりさせるばかりで、それだけは申し訳なく思っているの」
 娘の詫びは、思いがけないほど深く胸をえぐった。お楽は自分を、出来の悪い娘だと卑下する。その裏には、父への思いや恨みが張りついている。
 父から見放された、構ってもらえなかった、冷たくあしらわれた。認めてもらえず、親の言い分のみを押しつけられ、本当の娘の姿を見ようとすらしてもらえなかった。
 すべては、父親たる徳兵衛の怠惰が招いたことだ。
 くだらぬ大芝居も、嶋屋の者たちが総出で、お楽の不始末を隠し通そうとしたのも、娘や妹に憐れを感じ、守ろうとしたのであろう。
 子が親の思いどおりに育つはずもなく、それは傲慢以外の何物でもない。
 お楽のいわばは、徳兵衛への必死の訴えだった。
 ひたすら目をそむけ、ふり返ることすらしなかったが、いまここにある。
 お楽は己自身を、肯定できない。いや、長らくできないでいた──秋治に会うまでは。
「お父さん、あたし、もうすぐ親になるの。あたしが親になんて、なれるはずがないって、ずっとそう思ってた。でもね、秋治さんがとなりにいれば、できそうな気がしてくるの。秋治さんとなら、生まれてくる子を一緒に育てていけるって」
 空になった茶碗を、両手で膝の上に握ったままだった。その中に、ぽたりとしずくが落ちた。
「お父さん、あたしね、いまとっても幸せなの。だから最後に、親孝行させてほしいの。あたしたちが出るかわりに、嶋屋に戻ってちょうだいな」
「ご隠居さま、あっしからも、お願いいたします」
 頰を伝う涙は、軒の雨だれのように、顎から落ちて茶碗に添えた手を濡らす。
 ふたりの訴えはしばし続いたが、やがて諦めたように声が落ちた。
「やっぱりお父さんは、許してくれないのね……」
「仕方ない、今日は帰ろう。雪もひどくなってきたし、これ以上は腹の子に障りかねない」
 泣き顔を見せるわけにもいかず、内心でおろおろした。せめて声だけでも、かけてやりたい。急いで涙を拭い、小さな咳払いで喉を整える。
 しかし、何と言えばいいのか。「達者で暮らせ」か、「からだを大事にしろ」か。どちらも今生の別れのようで、何とも忍びない。躊躇ためらううちに、ふたりの足音が遠ざかる。
 徳兵衛はそっと、障子を開けた。一寸ほどの隙間から外を覗くと、思いのほか降りが激しく、視界は真っ白だ。雪の格子を立てたようで、その向こうにうっすらと、ふたりの後ろ姿が見える。
 互いに寄り添う後ろ姿が、涙でぼやけ、やがて消えた。

▶#15-4へつづく


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