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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.58

毎日詫びに来ていた子供たちが、ある日趣向を変えて――。――西條奈加「隠居おてだま」#15-2

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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 おわさが座敷を去ってから、徳兵衛はしばしぽつねんと座っていた。
 静かな隠居家に、糸玉の音だけが響く。木玉が奏でる音に、ゆっくりと耳を傾けたのはいつ以来だろうか。
 毎日、いま時分は、豆塾の子供たちの声が騒々しい。組紐の仕事場にした西の座敷からも、しゃべりに興じる女たちの笑い声が響いて、おわさが大鍋で煮た、甘い煮豆の残り香がただよい、墨の匂いと相まって妙に芳醇に鼻に届く。
 そのすべてが、ぱったりと途絶えた。寂しいというより、不思議な心地がする。この感じは、覚えがある。隠居暮らしを始めた頃に、戻ったようだ。徳兵衛が抜けても、嶋屋も世間も変わりなく、何ら困ることもない。
「あれから一年半……あの頃に戻っただけだ」
 声に出すと、何やらよけいに侘しい。大柄な女中がいなくなると寒々しさが増し、火鉢で両手をあぶっても、指先は冷たいままだ。
 隣座敷との境のふすまを、何となくながめた。冬場だけに閉ざしてあるが、徳兵衛の頭には、襖が開け放たれた晩夏のもようが映る。
 長年の夢だった隠居暮らしが性に合わず、いまと似たような侘しさを抱えていた。
 襖の陰から何かが覗き、すぐに引っ込んだ。見間違いかと目を凝らすと、ふたたびそろりと覗く。ぼうに結わえた頭、短い眉に、丸く大きな目──。孫の千代太だった。
 以来、誰よりも繁々と隠居家に通ってきたのは、この孫だ。なのにその出入りを、徳兵衛は自ら拒んだ。詫びにきた孫を、けんもほろろに追い返したのは、つい数日前のことだ。
 後悔というより情けなさにさいなまれた。どうしていつもいつも、同じ結果を招くのか。
 おらくあきは己をあざむき、そして嶋屋もまた、妻や息子や孫までも、一家総出で徳兵衛ひとりを騙しにかかった。徳兵衛に非はなく、一方的に向こうが悪い。──そのはずが、じくたる思いに囚われる。
 結局、己の頑固が、狭量が招いたことだと、徳兵衛とてわかっている。
 自分を孤独へと、追いやり追い詰めるのは、常に徳兵衛自身であった。
 そんなことをうつうつと考えていると、ただ寒々しさが増す。火をおこそうと、火箸で炭をつついたときだった。
「ごきげんよう、おじいさま! 千代太です!」
 突然の声にぎょっとして、思わず周囲を見回したが、姿はどこにもない。
「また、お詫びにあがりました!」
 らしくない気合いのこもった声は、閉め切った襖越しに外から響いてくる。
「二度と敷居をまたいではならないと言われたから、外からお声掛けすることにしました。ごめんなさい、おじいさま! どうか坊をお許しください!」
 うっかり失念していたが、孫のしつこさ、諦めの悪さは筋金入りだ。そしてそれを支えているのは、見掛けによらぬ打たれ強さだ。毎回、大泣きするくせに、しぶとく立ち上がり、また向かってくる。傷ついた素振りを顔には出さず、その実、一度の拒絶でぽっきりと折れてしまう徳兵衛には、計り知れない強靱さだ。
 ふっと指先が、ぬくもるような心地がした。
「おい、うんともすんとも返ってこねえぞ。いねえんじゃねえか?」
 声を潜めているようだが、地声が大きいから筒抜けだ。瓢吉の声だった。
かわやにでも行ってんのかな?」
「たとえ厠にしても、声はきこえるはずだぞ」と、勘七の声が続く。
 ふたりは千代太につき添ってきたようで、勘七の声がそれを説く。
「じさま! おれたちは、嶋屋のいさかいには関わりない。だからどちらにも偏らず、じさまとも千代太とも、いままでどおりつき合うことにした! そいつを承知してくれ!」
「あと、看板のことだけどよ、勘瓢はどうかと思うぞ!」
 勘七の申しようは頼もしく、瓢吉の物言いに口許がゆるんだ。
 ひと言ぐらい、声をかければいいものを、やはり頑固の虫が喉にふたをする。
「おい、まさか……中で倒れているんじゃなかろうな?」
「そういや冬場は、年寄りの卒中が多いからな」
「えっ! どうしよう! すぐにおわさに知らせた方が……」
 子供たちの声に慌てて、ごほん、ととつに咳をする。
「あれ? ご隠居、いるのか?」
 また、ごっほんと、咳で返事をする。
「おじいさま、風邪を引いたの? もしかして具合が悪いの?」
「いや、返しのつもりじゃねえか。じさま、達者ならもういっぺん頼まあ」
 察しのよい勘七のおかげで、今度は威厳をもたせた咳で応じる。
「ほら、大丈夫だってよ」
「よかったあ、おじいさまが息災で」
 安堵の笑みを浮かべる、千代太の顔が見えるようだ。ときに鬱陶しいが、人を案じる気持ちばかりは本物だ。そういえば、とふと思い出した。
 千代太は己のこととなると、存外情けない。弥生塾の女師匠の一件が、良い例だ。怖い女師匠に馴染めず、そのうち腹痛を起こすようになり、午後の手習いをやめてしまった。
 あの頑迷なまでのしつこさは、他者のためにのみ発揮される。
「じゃあ、また来ますね、おじいさま。おじいさまが許してくださるまで、諦めずに通います」
 千代太の声がいとまを告げて、勘七と瓢吉も短い挨拶をして、三人が帰っていった。
 またひとり、座敷につくねんとすると、しばしの夢だったような思いにもかられる。
 諦めずに通う、と千代太は言った。それは己のためではなく他者の──つまりは徳兵衛のためか。逆に徳兵衛は、ここ数日、ひたすら自分の殻に閉じこもっていた。
 そこまで考えて、はっとした。怒りに気をとられて、肝心なことに気が回らなかった。
「おわさ! おい、おわさ!」
 らしくない大声で、女中を呼んだ。ほどなく女中が、ふたたび丸顔を覗かせた。
「どうなさいました、ご隠居さま?」
「豆塾を休むあいだ、子供らの飯を忘れておった。ここでの昼飯や煮豆で、食い繫いでいる子もおるからな。何日も食えぬままでは、からだに障る」
 おわさはびっくりした顔で、徳兵衛を見詰めた。
「ご隠居さまが、あの子たちのことをそこまで……」
「なんだ、その珍を見るような目は。わしとて鬼ではないわ」
「本当にご隠居さまは、お変わりになられましたねえ」
 子供を褒めるときのような眼差しを向けられて、具合が悪い上に何やら腹が立つ。
「明日からは前のとおり飯や煮豆を炊いて……そうだな、善三に境内まで運ばせるか。いや、明日と言わず今日の方がよいか。なにせ幾日もひるにありつけておらんしな……」
「それなら、ご心配にはおよびません。その……」
 おわさが目を伏せて、しばし言いよどむ。
「私もさっき、あの子らから初めてききましたが……。差し入れが届いているそうです……嶋屋から」
 申し訳なさそうに、上目遣いでおわさは告げた。
「なるほど、お登勢か……相変わらず手回しのいい」
 しやくには障ったが、子供たちがひもじい思いをせずに済んだという、安堵の方が大きかった。張り合うつもりはないが、豆塾は徳兵衛の差配のはんちゆうだ。明日からは、最前告げたとおり、おわさが仕度した飯を善三に運ばせるよう命じる。
 かしこまりました、とおわさは、福笑いのような満面の笑みで応じた。

ず商人の家に生まるるともがらは、幼少の時より手習い算盤肝要たるべきなり。そのほか家業余力ある折からは、学問して、家事治まり方大切にいたし……」
 翌日から善三が、握り飯や煮豆を王子権現の境内まで担いでいくようになり、午後になると、三人の子供たちが隠居家の庭先にやってきた。
 どちらも一日も欠かさず続けられ、三日目までは、謝罪をくり返していた千代太だが、四日目からは趣向を変えた。
「いつも詫び文句では、おじいさまが退屈なさると思って、今日は『しようばいおうらい』をおきかせします」
 以前は隠居家に来るたびに、嶋屋の内のあれこれを語っていた。いわばそれを禁じられての、苦肉の策かもしれない。
『商売往来』は時代や版元によって、さまざまな版が出されているが、内容は似たようなものが多い。「およそ商売とりあつかうもん」から始まり、そこから先は「とりやり日記・請状・請負・うりけん状・会所」というように、商売に用いる文字と語が延々と続く。
 千代太は実にすらすらと読みこなしているが、子供の頃の徳兵衛は苦手としていた。というのも、往来物は漢文で書かれているからだ。すべての字に仮名がふってはあるのだが、漢文特有の一、二、レといった返点に往生し、ちっとも頭に入らなかった。算盤の方が熱心だったのは、読み書きよりもましに思えたからだ。
 千代太の声に耳を傾けながら、そうか、こんなことが書いてあったのか、と半ば懐かしく思い返した。千代太が商売往来の音読を終えると、次に瓢吉が声をあげた。
「ご隠居、おれは九九を披露する。六六から先は難儀したけど、ようやく覚えたんだ」
 と、今度は九九の暗唱がはじまった。子供の九九など、身を入れてきく代物ではないはずが、これが思いのほかハラハラさせられる。
「六八・四十八、六九・五十四、七七・四十九……で、七八が……あれ? 五十四か?」
「瓢ちゃん、惜しい!」
「うわあ、またか! 六九から七七にとぶから、そこでこんぐらかっちまうんだ」
「おれも初手は大変だったが、九九は八算でも使えるからな。覚えておいて損はねえぞ」
 と、算術が得手で、瓢吉よりかなり進んでいる勘七も励ます。
 たとえば七三・二十一は、三七・二十一と同じであるから、この時代の九九では省かれる。つまり掛け算の九九は三十六通りしかなく、六九・五十四の次は、七七・四十九となる。一見わかりづらいが、割り算の九九たる八算や見一と組み合わせることで、二桁以上の割り算にも応用できる利点があった。瓢吉がどうにか九九を終えると、勘七はその応用を説く。
「十二で割るときは、二六・十二を思い出す。初めに二で割って、それから六で割ればいいんだ。百を十二で割るときは、まず二で割って五十、五十を六で割って八、余りは二。つまり百割る十二の答えは八、余り四だ」
「勘、おめえ、すげえな!」
「勘ちゃん、格好いい!」
 閉めた障子の向こうに、照れながらもちょっと得意げな、勘七の顔が見えるようだ。
 ちなみに百を十一で割るときは、二桁の割り算の九九である見一を使う。「けんいちとうさつきゆうのいち」とは、百割る十一は、答えが九、余り一という意味だ。
 よくできた、と言う代わりに、いつものとおり咳払いを返したが、ぶぁっくしょん、と大きなくさめでかき消された。
「大丈夫、瓢ちゃん?」
「はは、すまねえ、今日はことさら冷えるからよ」
「そういや、雪が降りそうだな。そろそろ帰るか」
「そうだね。おじいさま、今日はお暇します。また明日参ります」
 千代太が行儀よく挨拶し、三人分の足音が遠ざかると、徳兵衛は声を張り上げた。
「おわさ! おい、おわさ!」
「またそんな大声で。今日はどんなご用です?」
「勘七や瓢吉の身なりは? この寒空に、半時も外におるからな。薄着でもしておれば一大事だ」
「ご自身で障子を開けて、確かめてみてはいかがです?」
「それができんから、おまえにたずねておるのだ!」
 面倒くさいと言わんばかりに、おわさは顔をしかめる。
「ふたりとも、ちゃんと綿入れを着込んでおりますよ。それぞれ母親が、気を配っているようですね」
 古着だが、寸法は合っている。今年の冬のための着物であり、勘七は母のおはちから、瓢吉も離れて暮らす母親から届けられたと、おわさは仔細にまで通じていた。
「とはいえ、昨日も木枯らしが吹いていて、やはりつらそうであったからな。どうしたものか……」
「座敷に上げてやれば、よろしいのでは?」
「それはできん! ふたりはともかく、千代太にはいかんと申し渡したからな」
「厄介なご性分ですねえ……いっそ庭先に、火鉢でも置いてはどうですか?」
「おお、それは妙案だ! 明日からさっそく善三に、用意させなさい」
 半ば冗談であっただけに、おわさはあんぐりと口を開けた。
「ご隠居さま、火鉢より焚火の方が温まりやすよ。火の始末は、あっしがしやす」
 善三がそう申し出て、午後になると、隠居家の庭からは煙が立ち上るようになった。

「兄ちゃん、お代わり! いっぱいよそってね」
「なつはもうやめておけ、晩飯が食えなくなるぞ」
「兄ちゃん、おいらもお代わり! でも、ぼうはいらねえ」
いつはまた、牛蒡だけ残して。好き嫌いすんなって言ったろ」
「ああ、ああ、こぼしちゃったんだね。泣かなくてもいいよ、汁はたんとあるからね」
 焚火は数日で、石組のかまどに替わり、里芋や人参や牛蒡をたっぷり入れた鍋がかけられた。竈のまわりに群がる十数人の子供たちの声が騒々しいが、とび抜けて大きな声は、何を隠そう徳兵衛である。
「いつまで騒いでおる! そろそろ始めるぞ。まずは最初の組から。ほれ、さっさと座らんか」
 居間から徳兵衛の声がとび、小さな子供たちは、慌てて焚火を離れる。五人が縁側に上がり、横に並んで正座した。
「では、挨拶から」
『お師匠さま、よろしくお願いいたします』
「よろしい。今日もいろはから始めるぞ。はじめ!」
『いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ……』
 五人がそろって、いろはを斉唱する。瓢吉が焚火の前で、こそりと呟いた。
「しかしご隠居自らが、指南役を買って出るとはな。どうりで今年は、雪がよく降るはずだ。どうせなら、家の中でやりゃあいいのにな」
「坊がお出入りを差し止められたから……皆にも迷惑をかけてごめんね」
「なに言ってる、この竈塾も、おまえの思案じゃねえか」と、勘七が返す。
 どうせ焚火をするなら、鍋をかけて煮炊きをしようと言い出したのは、千代太だった。善三が即席で組んだ石の竈に、おわさが具をたっぷり入れた土鍋を置く。千代太は当然のように境内の仲間を呼び寄せ、その日からふたたび隠居家は、いや、正しくは隠居家の庭は、一気に騒々しくなった。
 徳兵衛の咳払いなぞ、届くはずもない。二日ばかりはこらえていたが、そもそも口を出さずにはいられない性分だ。とうとう障子戸を開け放ち、子供たちを一喝した。
「おまえたち、少しは静かにせんか! うるさくて書き物もできんわ!」
 千代太は決して狙ったわけではないのだが、まさに天の岩戸さながらだ。そして驚いたことに、徳兵衛にとって予想外のことが起きた。
 笑顔で真っ先に駆けつけてきたのは、勘七の妹のなつだった。
「あっ、じさまだ! じさま、じさま、じさまあ!」
「ご隠居だあ! いままで何してたんだよ。ちっとも顔見せねえでさ」
「豆塾、どうしてお休みなの? あたい楽しみにしてたのに」
 子供らの世話はお登勢やおわさに任せ、徳兵衛自身はろくに構ってやったことがない。なのにどうして、こんなにも嬉しそうに再会を喜ぶのか。馴染んでいるのは猫さながらに、隠居家の方かもしれない。それでもその家の主として、子供たちは徳兵衛に親しんでいる。
 意外であり不思議でもあったが、親族と別れた身には心強さが伴った。
 次の師匠が見つかるまでとの建前で、しのぎの指南役を務めることにしたのは、礼のつもりもあったからだ。とはいえ、お登勢にくらべれば師匠としてだいぶ見劣りすると、自分の力量をわきまえてもいる。加えて狭いひと間で、十数人の子供らに囲まれるのも勘弁だ。この竈塾くらいが、徳兵衛にはちょうどいい。
「よかった……おじいさまが、前と変わらぬくらい達者なごようすになって」
「いや、よかねえだろ。相変わらず千代太とだけは、口を利いてくれねえし」
「そればかりはしょうがないよ、瓢ちゃん。坊は嶋屋の身内なんだから」
「大晦日まで、あと五日か……正月までには、仲直りさせてやりてえがな」
「大丈夫だよ、勘ちゃん。嶋屋では祝えなくても、元旦には皆が隠居家に集まってくれるのでしょ?」
「おう、母ちゃんたち組場の者も、隠居家ここで正月祝いをするそうだ」
「だったら、おじいさまも、賑やかにお正月を過ごせるね……本当によかった」
 言葉どおりではないことを、ふたりは知っていた。
 笑顔を作りながらも、千代太の短い眉は、八の字に下がっていたからだ。

▶#15-3へつづく


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