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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.57

嶋屋と縁を切り、徳兵衛はずっと隠居家に籠もっている。――西條奈加「隠居おてだま」#15-1

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

前回までのあらすじ

徳兵衛の末娘・お楽が職人の秋治の子を身籠もって五月を過ぎた頃。親の許しも得ずに子をなしたと徳兵衛に知れれば勘当は必至と、ひた隠しにしてきた嶋屋の面々だったが、用事のついでに板橋宿を訪ねてきた徳兵衛に露見してしまった。徳兵衛は嶋屋一同が揃って自分を欺いていたことを知り、お楽を勘当するのではなく自らが嶋屋と縁を切る、妻のお登勢とも離縁だと冷たく言い渡す。

「もう泣くなよ、。目ん玉が溶けて流れちまうぞ」
「……おじい、さばにあやばった、けど……ゆるじで、もらえなぐでえ……」
 しゃがみ込んで膝に顔をうずめる千代太の頭越しに、かんしちひようきちが困り顔を見合わせる。
 とくしまからの勘当を申し出たのは、一昨日の晩だった。
 昨日一日、千代太は手習いにも行かず、布団の中で泣きどおしだった。今朝になってもやはり、塩をふったナメクジのようなありさまで、見かねてねえやのおきのが、仲良しの勘七を連れてきた。
「じさまの短気は、いつものことじゃねえか。あれから二日経ったから、そろそろ勘気も解けたかもしれねえぞ。謝りに行ってみたらどうだ? おれも一緒に行くからよ」
 千代太としては、なけなしの勇気をふりしぼって、勘七とともに隠居家に謝罪におもむいたのだが、かえって裏目に出た。
「千代太が行っても顔すら出さねえし、二度と隠居家の敷居をまたぐなと、おわささんを通して達される始末だ」と、勘七が説く。
「で、王子権現ここに連れてきたってわけか」
 瓢吉たちは常のとおり、参詣商いの最中だった。ひとまず商売は仲間に任せ、瓢吉は涙にくれる千代太を慰め、勘七から事情をきいていた。
「こいつをひとりにしておけねえし、瓢や皆がいれば、いい知恵が浮かぶかもしれねえだろ? なにせ『千代太屋』の看板に関わるからな」
「看板って、どういうことだよ?」
「千代太屋も『ろく』も『まめじゆく』も、じさまが肝だ。このままじゃ先行きが案じられるだろ? だからじさまに確かめたんだ。おれだけは目通りを許されたからよ」
 徳兵衛が縁を切ったのは、嶋屋の者たちだけだ。勘七に会うことを承知して、商いや手習いはこれまでどおり続けると、そのように達した。
「ただし、ひとつだけ断りがついた。参詣商いからも屋号からも、千代太を外せと」
「千代太屋じゃなくなるってことか? じゃあ、名なしになっちまうのか?」
「いや、おれたちふたりの名から、新たな屋号を立てると……『かんぴよう』だ」
「……ご隠居は、名付けの才ばかりはねえようだな」
 はああ、と互いに、梅雨の最中のようなため息を重ね合う。千代太が顔を上げ、湿っぽさがさらに増す。
「もうみんなと商いもできない……豆塾にも通えない……楽しいことが一切なくなっちまって……坊はもう、生きてけないよ」
「千代太を外すなんて、そんな薄情な真似、するわけがねえだろ」
 大げさな訴えに、勘七はなだめるように千代太の頭に手を置いて、瓢吉は脇を肘で小突く。
「そうだぞ。現に千代太がいねえと、商いに障りが出るからな」
「でも、おじいさまが……」
「表向きは、しばらくつき合ってやるさ。商い事はこれまでどおり、三人で相談しようぜ」
「だな。なにせ年寄りが意固地を張ると、ガキよりもよほど面倒だからな」
 徳兵衛とはそれなりに長いつきあいだ。へそを曲げた折のあつかいも心得ている。
「待てばの日和ありって、前にお師匠に習ったろ? いまは待つしかねえが、そのうち懐炉みてえにあつたまってくるかもしれねえしな」
「勘ちゃん、それ、ちょっと違うと思うけど……」
は寝て待てってことだろ? 待ってこそ、お宝に化けるってもんだ」
「瓢ちゃん、それも何か違うような……」
 ことわざには疎くとも、励まそうとするふたりの気持ちは真っ直ぐに届いて、千代太の心を和ませた。同時に、気持ちが落ち着くと、肝心なことが見えてくる。
「坊はおじいさまに会えなくて、寂しくてならないけれど……おじいさまはもっと、お寂しいかもしれないね」
 千代太がいちばん初めに隠居家を訪ねたのは、祖父がひとりきりになって、可哀そうだと案じたからだ。やみに他人を哀れむのは良くないと、当の祖父からいましめられていたが、あの頃と似た思いが生じた。
「ちょっと、ためしてみようかな……きっと、よけいにお怒りを買うだろうけど、これ以上悪くなることはないし……」
 ぶつぶつと呟きながら思案にふける。涙の跡はすでに乾いていた。
 泣き虫でひ弱な千代太には、思いもかけない武器がある。諦めの悪いしつこさだ。
「何かわからねえが、つき合ってやるか」
「おうよ、おれたちは千代太屋だからな!」
 目配せひとつで話が決まり、瓢吉は腕をふり上げた。

 千代太の懸念は、半ば当たっていた。
「ご隠居さま、今日お出掛けにならないんですか?」
 その言い草がかんに障ったのか、じろりと女中を睨む。
「おまえはそんなに、わしをこの家から追い出したいのか」
「とんでもない。昨日も一昨日も家に籠もりきりですから、たまには外に出ては如何いかがかと。老いは足腰からくると言いますし」
「真冬にうかうかと寒気にあたって風邪でもひけば、それこそ命取りになるわ! わしを殺す気か!」
 嶋屋と縁を切って五日ほど。徳兵衛はすこぶる機嫌が悪い。むっつり押し黙っているのが常で、たまにおわさがと怒鳴られる。
 あれほど忙しそうに立ち回り、毎日のように出歩いていたのに、居間からほとんど出てこない。書き物仕事が溜まっているとの建前を通していたが、古参のおわさは長のつき合いで察していた。
 徳兵衛の中で何かが切れて、つまりはがなくなったのだ。
 他人にも己にも厳しいだけに、すべきことはこなしている。五十六屋のためには、嶋屋の代わりとなる糸の仕入先を見つけ、お登勢に代わる豆塾の師匠も探さねばならない。それなりに繁多ではあるのだが、自ら足を運ぼうとせず、すべてふみのやりとりで済ませている。他人を信じず、こだわりの強さが身上なのに、あまりにらしくない。
「今日は冬晴れですし、風も穏やかです。それこそおうごんげんにでも、お参りしてはどうです? ご隠居さまの顔を見れば、子供たちも喜びましょうし」
 一瞬、悪くないと思えたのか、わずかに間があいたが理詰めで打ち消す。
「すでに昼を過ぎておるから、もう境内にはおらんだろ。参詣商いは昼までだからな」
「でもまだ、残っているかもしれませんよ。豆塾が休みだと、あの子たちは日暮れまで、居場所がありませんから」
「何だ、わしのせいだとでも言いたいのか」
「そんなことは一言も……。そうそう、新しい師匠は見つかりそうですか?」
「五日やそこらで見つかるものか。いま、わしのを頼って探してもらっておる」
 この家において、おわさが知らぬことはない。徳兵衛の伝手がすでに尽きていることを、ちゃんと見抜いている。
 徳兵衛がまず白羽の矢を立てたのは、お登勢の前に豆塾の師匠を務めた、狂言作者のししぎんろくである。しかしあいにくと銀麓は大坂にいて、春まで帰ってこないという。もくは外れ、他に目ぼしい当てもなく、師匠探しはとんしている──とおわさは見ている。
「『弥生やよいじゆく』の大先生に、ご相談しては如何です? お顔の広い方だと伺いましたから、指南役にお心当たりがあるかもしれません」
 名をきいたとたん、徳兵衛の眉間に不機嫌そうなしわが増した。弥生塾には、千代太が通っている。その塾長に頼れば、嶋屋の伝手を頼ったと同じこと。潔癖な徳兵衛には、それが耐えられない。
「豆塾の師範はわしが見繕う。よけいな差出口をするでない!」
 とうとうかんしやくを起し、こうなると意固地は増すばかりだ。おわさにもわかっていたが、尻がいつも以上に重く、ぐずぐずとその場に居続ける。
「まだ、何かあるのか? ……もしや、おまえとぜんぞうの給金の話か?」
「いえ、滅相もない!」
「だったら、もう用はない」
 居間から追い払われて、すごすごと廊下を退散する。
 家族や親族との縁を断つということは、たったひとりで世間に放り出され、頼る当てが皆無になるに等しい。それは世知辛さばかりでなく、残酷も秘めている。人は所詮、ひとりでは生きられない。困ったとき、窮した折に拠り所がなければ、直ちに身の危うさにさらされ、場合によっては命にもかかわる。
 もちろん徳兵衛には、この一年半に培った縁がある。五十六屋の職人たち、豆塾に通う子供たち、組紐商いを共に担うながかしわ。ただそれでも、還暦を過ぎた徳兵衛にとっては、たった一年半だ。残る六十年近い生涯で築いた、縁の根底にあるのは嶋屋に他ならない。懸命に見ないふりをしているが、不安や心細さは、当人が思う以上に深いはずだ。
「あたしと息子だけは、ずっとお傍におりますよと……そう言って差し上げたかったのに」
 がらんとした座敷を目にすると、わびしさが募った。豆塾に使われていたひと間だ。
 午後になると子供たちでいっぱいで、指南にあたるお登勢もいた。喧騒にもめげず、何事にも動じない姿は、おわさには何よりも心強く映った。
「こんなときにお登勢さまを頼れないなんて……あたしの方こそ心細くてならないよ」
 丸いからだがしぼむほど、長いため息を吐いた。

▶#15-2へつづく


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