menu
menu

連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.55

ようやく帰ってきた徳兵衛は、いつもの徳兵衛ではなかった。――西條奈加「隠居おてだま」#14-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 皆が出ていくと、留守居役を引き受けたお登勢は、囲炉裏にまきをくべた。
「帰ってきたら、火が恋しいでしょうからね」
 足した数本の薪が、ほどよく燃えた頃、入口障子が開いた。囲炉裏の火に照らされて、夫の姿が浮かび上がる。
「まあ、おまえさま! たいそう案じていたのですよ。いままでどちらに……?」
 腰を浮かせて迎え入れたが、徳兵衛は返事もせず、障子戸を後ろ手に閉めた。
「さぞかし寒かったでしょう。さ、どうぞ火にあたってくださいまし。こんな晩は、火鉢では足りませんからね。この家に囲炉裏があって、ようございました」
 夫が無事に帰ってきた嬉しさに、いつになくじようぜつになった。しかし徳兵衛は、戸の前に突っ立ったままだ。不機嫌には慣れていたが、ようすが違う。
「おまえさま、どうしました? もしや、具合が悪いのですか?」
「板橋宿に行った」
 唐突に、そう言った。うつむき加減のまま、目玉だけが上を向き、お登勢を睨む。
「お楽に、会った」
 その一言で、一切が吞み込めた。お楽の一件が、最悪の状況で、夫に露見してしまった。こうなっては、詫びるより他に手立てはない。
「申し訳ございません……すべては私の浅はかが招いたこと。お詫びのしようもございません」
 板間に手を突いて頭を下げたが、詫びの文句は虚しく空回りする。まるで氷のよろいに、紙の矢を射ているようなものだ。徳兵衛にはひとつも刺さらず、すべてが足許に落ちる。
 それでもお登勢は娘のために、紙の矢を射続ける。
「お楽の不届きは許されません。重々承知しておりますが、私たちにとってはたったひとりの娘です。身重のあの子を放り出すなぞとてもできず……何とか身近に置いて世話をしたいと……」
「秋治とお楽の仲は、いつからだ?」
 氷の鎧が厚みを増したように、低い声はくぐもってきこえる。
「……かれこれ、半年ほど前になろうかと」
「おまえがそれを知ったのは?」
「九月の初めですから……三月近く前に」
 白洲で吟味を受けるように、問われるままにお登勢は短くこたえる。
「では、三月近くものあいだ、わしを欺いておったのだな? おまえばかりではあるまい、きちもおそのも、政二郎も絡んでおるか? それに、千代太もだ」
 こたえられず、お登勢はうなだれる。
「わしをひとり蚊帳の外に置いて、悦に入っていたというわけか」
「おまえさま、決してそのような……!」
「もういい……すべてわかった」
 ずっと土間に立っていた徳兵衛が、履物を脱いで板間に上がった。囲炉裏の間の床を踏みしめて、いない者のようにお登勢の脇をすり抜ける。
 隣座敷の敷居をまたぐより前に、徳兵衛の背中にすがるように懇願した。
「後生です、おまえさま……どうかお楽を、許してあげてくださいまし」
「許すも何も、決めるのは吉郎兵衛だ。お楽のことは、好きにするがよかろう。隠居の身には関わりない」
 好きにしろと言いながら、やはり声は冷たいままだ。どう応じていいものか、お登勢はしばし戸惑った。背中を向けた夫が、沈黙を埋めるように続ける。
「いや、隠居の身も、今日限りだ」
「おまえさま、それはどういう……?」
「わしは、嶋屋とは縁を切る」
「まさか、そんな……」
「お登勢、おまえとも離縁する」
 いつもの感情任せの態度であれば、かわす手もあった。熱しやすく冷めやすい気性は、ある意味御しやすい。その傲慢が、この結果を生んだ。まとった鎧ばかりでなく、徳兵衛の心は、芯まで凍ってしまった。
「おまえへの離縁状は、明日にでも届けさせる。それまでにわしへの離縁状を書いておくよう、吉郎兵衛に伝えなさい」
 いわばお楽ではなく、己を嶋屋から勘当しろと、徳兵衛は申し渡した。
 何事にも動じないと、周囲は勘違いしているが、お登勢とて人間だ。悩みを抱き迷いもするが、単に顔に出ないだけだ。
 夫から言い渡された離縁の沙汰は、お登勢を激しく動揺させた。
 何か言わなければ──。気持ちははやるのに、唇が開かない。
 沈黙が続くごとに、ふたりのあいだの年月が、少しずつ凍りつくようだ。
 と、そこへ、提灯をかざした助け船が入った。
「ただいま! いわべんてんの方角を探したけど、見つからなくて……なんだ、じさま、帰ってたのか!」
 戸口に背を向けて板間に立つ徳兵衛の姿に、勘七が安堵の声をあげる。
 提灯を手にした勘七と、年若い組紐職人のおうね、そして千代太の組が戻ってきた。寒風にさらされて、子供たちの頰は真っ赤になっている。
「よかったあ、おじいさま、何事もなく帰ってらして」
「やれやれ、こちとら、とんだ無駄足だぜ」
「無駄足でも構わね。無事で何よりだっぺ」
 子供たちは無邪気に喜び合う。千代太は真っ先に土間から上がり、突っ立ったままの祖父の傍へ行く。
「お帰りが遅いから、心配しました。わ、お手がこんなに冷たい。一緒に火にあたりましょ」
 祖父の手を握り囲炉裏端へ誘ったが、徳兵衛は孫の手を乱暴にふり払う。
「……おじいさま?」
「千代太、二度とここへは来るな。わしの前に、顔を出すな」
 わけがわからないのだろう。千代太はきょとんと、祖父を仰ぐ。
「おじいさま、どうして? どうして千代太は、来ちゃいけないの?」
「わしは嶋屋とは縁を切った。よって嶋屋のせがれのおまえとも、縁を断つ」
「それって、おじいさまともう会えないってこと? そんなの嫌だよ! おじいさま、おじいさま!」
 孫の千代太ですら、硬く凍りついた徳兵衛の気持ちは溶かせなかった。
 大泣きする孫をなだめながら、お登勢は途方に暮れていた。

▶#14-4へつづく


MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2022年10月号

9月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2022年10月号

9月6日 発売

怪と幽

最新号
Vol.011

8月31日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP