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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.53

秋治の暮らす長屋から、なぜか娘の声がする。――西條奈加「隠居おてだま」#14-1

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

前回までのあらすじ

徳兵衛の末娘・お楽が職人の秋治の子を身籠もった。親の許しも得ずに子をなしたと徳兵衛に知れれば勘当は必至と、ひた隠しにしてきた嶋屋の面々だったが、五月いつつきを過ぎてお腹の大きさも目立つ頃となり、徳兵衛に打ち明ける機会を窺っていた。何も知らずに隠居仲間の会合に出向いた徳兵衛は、お楽を板橋宿の湯屋で見かけたという話を聞く。人違いだと一笑に付したが、ちらりと何かが頭をよぎって――。

「今日はお会いできてよかった。また気が向いたら、お運びください」
かんえつかい』は夕刻にかかる前にはお開きとなり、にこやかにいとまを告げて、まるの隠居はに乗った。とくも、次の駕籠を勧められたが遠慮する。
「ちといたばし宿しゆくに用向きがありましてな。駕籠はどうぞ他の方に」
「おや、板橋のどちらに?」と、かめがたずねる。
 徳兵衛を会に誘った亀井屋にたずねられ、ひら町だとこたえる。
「平尾町の、どちらですか?」
 亀井屋が重ねたのは、平尾町は三丁目まであるからだ。板橋宿はがもと同様、西から上・中・下に分かれており、いわゆる下宿を平尾町と呼ぶ。
「平尾町三丁目です。つき合いのあるかざりがおりましてな」
 帯留を作る、あきである。ながかしわの番頭が秋治に会いたいと乞い、一席設けることにした。秋治にはふみで知らせるつもりでいたが、せっかく板橋宿まで赴いたのだ。直に話して、日取りを決める方が早い。
「では、一丁目までご一緒します。私も娘の家に、立ち寄るつもりでおりましたから」
 他の者に別れを告げて、亀井屋とともに東に歩き出した。ほどなくしやく川に出て、緩やかな半円を描く板橋を渡る。
 板橋という名は古く、鎌倉の頃から存在するが、いまは上宿に架かるこの橋が地名の象徴とされている。橋のまわりには旅籠はたごや茶屋、料理屋がひしめいており、乾越会を催した料理屋も、この西詰にあった。
「板橋にいる娘夫婦は、どうももんちやくが絶えなくて。亭主になった男が、商売下手な上に、酒でしょっちゅう騒ぎを起こして。離縁も考えたのですが、娘が承知せず。どうしてあんな男にうつつを抜かすのか、親の目からするとさっぱりわかりませんよ」
 互いに娘をもつ身だけに、話は自ずとそちらに向く。
「私もやはり、娘の考えなぞさっぱりです。まあ、いつまでも家に置くわけにもいきませんから、そのうち相手を吟味して、嫁がせるつもりでおりますが」
「もちろん私も、そのつもりでいたのですよ。ところが私の知らぬ間に、店に出入りしていた小商人とねんごろになって、どんなに諭してもきき入れません。仕方なく認めましたが、案の定、苦労が多くて……」
 はああ、と亀井屋は、わざとらしいほど大きなため息をつく。
「もとは夫婦でぐろにおりましたが、何か起きるたびに出向くのがおつくうで……板橋宿にだなをもたせることにしたのです。近ければ、少しは目も届きますからね」
「それはお心の広い……私なら、問答無用で勘当を言い渡しますな」
 徳兵衛は、即座にこたえた。親や仲人を経ずに、当人同士が勝手にくっつくなど──ましてや仕事もままならず酒に溺れる亭主なぞもってのほかだ。
「私もね、許すつもりなぞなかったのですよ。ですが、孫にはかないませんな。これがまた可愛い子で、じいじ、じいじと慕ってくれる」
 とろけそうな顔で目尻を下げる。ぽん、との顔が浮かび、うっかりうなずきそうになった。
「孫というのは、どうしてああまで愛らしいのでしょうな。我ながら、不思議なほどですよ。孫のためと思えば、娘夫婦の厄介も我慢できますからな」
「孫当人が、厄介を背負ってくることもありますが……」
「何かおつしやいましたか、しまさん?」
「いや、何でも……」
 板橋宿の本陣は、中宿にある。本陣を過ぎてしばらく行くと、やがて平尾町にかかった。娘夫婦の家は、この近くにあるという。
「嶋屋さんの用向きは、三丁目でしたな。場所はおわかりなのですか?」
「訪ねるのは初めてですが、長屋の名もわかりますし、人にきけば辿り着きましょう」
「初めてでは不案内ですな。よろしければ、私もご一緒しましょうか」
 亀井屋は親切に申し出たが、脇道の奥から明るい声がとんだ。
「あっ、じいじだ! うわあい、遊びに来てくれたの?」
 ちょうど千代太と、同じくらいの歳だろうか。動きはよほど機敏で、嬉しそうに駆けてきて亀井屋にとびついた。
「じいじ、将棋指そうよ。今度こそじいじに勝とうと、うんと頑張ったんだよ」
 そうかそうかと、だらしないほどに頰をゆるめる。亀井屋がどうして、この孫に甘いのかわかるようにも思えた。店を継いだ長男夫婦にも子供がいて、いわゆる内孫にあたるのだが、いっぱしの商家ではしつけが行き届いているために、祖父にとびつくなぞという、行儀の悪いことはまずしない。店の内では「じいじ」ではなく、「ご先代」としてあつかわれる。
 元来が人好きな亀井屋には、いささか寂しかったに違いない。だからこそ愛嬌があり、からだいっぱいに祖父への愛着を表すこの孫が、可愛くて仕方がないのだろう。
「お孫さんは、待ちかねておったようですからな。ここでお暇いたします」
 亀井屋とはそこで別れて、徳兵衛は先を急いだ。
「外孫か……」と、つい独り言がもれる。
 うらやましい気持ちもわいたが、いや、とすぐに頭をふった。親がまさろうとおらくでは、まったく期待がもてない。
 ほどなく三丁目に達し、表通りの小店で、長屋はどこかとたずねると、女房が愛想よく教えてくれた。言われたとおり、二丁目とのあいだの辻を北に曲がり半町ほど行くと、糊屋と火打鉄屋のあいだに長屋の木戸があった。木戸の上に、秋治の表札も出ている。ほっとして木戸をまたいだが、とたんに金切り声が響きわたった。
「ひどいじゃない! あたしのいない隙に、あんな女といちゃつくなんて」
「勘違いするな。おいまさんはゆうのおかずにと、煮物を届けてくれただけだ」
「煮物だなんて、あたしへの当てつけのつもり? どうせあたしは、沢庵すらまともに切れないわよ!」
 戸が開けっ放しなのか、夫婦喧嘩らしきいさかいは外まで筒抜けだ。
 裏長屋とは、こうも騒々しいものか。やれやれ、とため息が出た。女が沢庵も切れぬとは、親の顔が見てみたい。
「だいたい秋さんは鈍いのよ! あの女が何かと構い立てしてくるのは、秋さんに気があるからよ」
「うがち過ぎだよ、お楽。単なるご近所の親切じゃないか」
 かしましいやりとりに、知った名前がとび出して、どきりとした。
 ──お楽が、板橋の湯屋に?
 亀井屋の娘は、平尾町の湯屋で、お楽と似た女を見かけた。声をかけたが、人違いだと返された──。
 ──それは明らかに人違いですな。お楽は板橋宿には、縁もゆかりもありませんし。
 どうしてあのとき、秋治の顔がよぎったのか。自分でもわからない。ただ、湿った風が木々の葉を揺らすように、徳兵衛の中で不穏な音を立てたのだ。
 嵐の前触れを察しながら、その予感を打ち消した。
「ご近所を悪く言うものじゃないよ、お楽。嶋屋のようなおおだなで育ったおまえには、わかりづらいだろうが……」
「どうしてあたしが責められるの? もう、いい! あたしは実家に帰ります。秋さんはあの女と、この長屋で楽しく暮らせばいいわ」
 一軒の長屋から、女が出てきた。続いて男がとび出してきて引き止める。
「落ち着け、お楽! そんなに気をたかぶらせては、腹の子に障りかねない。五月を過ぎたといっても、大事にしないと……」
「まあ、ひどい! あたしより子供が大事なの?」
「馬鹿! どっちも大事に決まってるじゃないか」
 安っぽい痴話喧嘩なぞ、徳兵衛がもっともいとうものだ。なのに台風の目に引き寄せられでもするように、足がそちらへと向かう。
 女はこちらに背を向けて、その肩越しに男の顔を捉えた。その表情が、たちまち強張る。「ご隠居、さま……」
「お父さん……どうしてここに……」
 ふり向いたのは、紛れもなく娘のお楽であり、相手の男は秋治だった。
 おそらく頭の中では言い訳やら弁明やらが、竜巻のように渦巻いているのだろうが、そのぶん舌もからだも動かぬようだ。ふたりは互いの腕に手をかけたまま、石像のように固まっている。
 身の内に嵐が吹き荒れているのは、徳兵衛も同じだった。
 ──おじいさま、会ってほしい人がいるの。
 ──帯留という道具です。市中にはまだ、あまり出回っていませんが。
 ──お父さん、この帯留をどこで? ──職人てどんな人? 住まいはどこ?
 ろくの紐を帯留に使いたいと、秋治は嶋屋を通して徳兵衛のもとを訪ねてきた。千代太は案内役を務め、同じ日に、お楽が隠居家に顔を出し、帯留を気に入って、職人についてたずねた。
 あれは十月の初旬だったか中旬だったか……どちらにせよ、ふた月は経っていない。
 お楽が秋治の子を宿しているなら、その子がすでに五月に達しているなら、こたえはひとつしかない。
 このふたりは、いや、千代太を含めた嶋屋総出で、徳兵衛をたばかったのだ。
 徳兵衛の中の嵐が、勢いを増す。強い風がうなりをあげ、ひよういしつぶてのように皮膚をたたく。心はとうにずぶ濡れになっていた。
「ふたりとも、二度とわしの前に顔を出すな」
「お父さん、待って、話をきいて! あたしは嶋屋と縁を切りたくなくて、その一心で……」
「勘違いするな。縁を切るのは、おまえではない」
「お父さん……どういうこと? ねえ、お父さん!」
 お楽の声が追ってきたが、よくきこえない。
 徳兵衛の耳には、身の内で荒れ狂う嵐の音だけが響いていた。

▶#14-2へつづく


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