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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.52

隠居の集いなど、まったく興味のなかった徳兵衛だったが。――西條奈加「隠居おてだま」#13-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「これは嶋屋さんではありませんか。いや、お懐かしい。ようお越し下された」
 丸喜屋の隠居は、実に嬉しそうに迎えてくれたが、その姿に、徳兵衛は少なからず胸を打たれた。真っ白な髪は、まげも結えぬほど薄くなり、口許がしぼんで顔の輪郭が縮んで見える。老いというものを目の当たりにしたようで、驚きとともに悲しみを覚えた。
 それでも穏やかな眼差しや、気安い態度は変わらない。自席のとなりに徳兵衛を招き寄せ、いまのようすなぞをあれこれとたずねた。
「ほう、では隠居してから、別の商いを起こしなすったと」
「どうも遊びには不調法で、それより他に能がなく……嶋屋にくらべれば、それこそ遊びのような小商いですが」
「結構ではありませんか。どんな形であれ、世の中と繫がっていけるのは、生きる楽しみになりますからな」
 妙に穿うがってきこえたのか、丸喜屋の言いように、周囲の者が一様に首をうなずかせる。
「商いは私どもにとって、芯であり太い縁でもありましたからな。いきなり外されて、最初は戸惑いましたよ。何やら身内が、すかすかになったようでね」
「からだがいくつあっても足りないほどに忙しかったのに、打って変わって暇をつぶす材がない。あれは応えますな、己が用済みになったようで」
「商いで得た人の縁が、そっくり息子に移ってしまう。挨拶には来ても、相談はしませんからな。物寂しいというより、いっそ悔しくてね」
 徳兵衛は、意外な思いで皆の語りをきいていた。隠居したての頃は、徳兵衛もやはり同じ思いを抱えていた。皆も似たり寄ったりであったのかと、今更ながらに気づいた。
 所詮、隠居の愚痴に過ぎず、贅沢な悩みでもある。隠居が叶うのは恵まれた立場にいるほんの一握りで、死ぬまであくせく働かねばならない者たちも大勢いるからだ。
 しかし働くこと、仕事こそが、もっとも強固な世間とのよすがとなり、自分がこの世に存する証しとなり得ると、昔気質かたぎの男ならまずそう考える。一方で女は、職のあるなしにかかわらず、身内、親類、ご近所と、さまざまな縁を築く。
「隠居の後は、女の方がよほど達者ですな。うちの女房なぞ清々したと言わんばかりに、急にそとが増えましてな。やれ遊山だ湯治だと、遊び歩いておりますよ」
「そうそう、うちもです。私がともに行こうとしても、まったく相手にされず。女同士や孫たちと出掛けるからこそ楽しいと、こうですよ」
「逆に身内に構い過ぎる向きもありましてな。うちじゃあ嫁と姑のいさかいが絶えず、私も息子もへきえきしておりますよ」
 嫁との諍いなぞ、お登勢には無縁だなと、妻の顔を思い浮かべた。嫁や奉公人からは、もとよりたいそう頼りにされて、いまはまめじゆくの指南役も務めている。顔に出さないだけにわかりづらいが、気持ちの上では豊かな老後と言えるのかもしれない。
「すっきりと役を退いて、まったく別の生きる縁を見つける──隠居とは、存外難しいものかもしれませんな」
 皆のこぼす他愛ない嘆きに耳を傾けながら、丸喜屋の隠居はそう口にした。徳兵衛がつい自嘲を漏らす。
「別の道を見出せず、商いを続ける私は、やはり不調法者ですな」
「いやいや、こう申しては何だが……嶋屋さんはもとは、商い事がお嫌いではなかったか?」
 思わず丸喜屋の隠居をふり向いた。柔和な老顔を、まじまじと見詰める。
「少なくとも商いを、楽しんではおられなかった。しつけながら、そのようにお見受けしましてな」
「そうかも、しれません……先代からいやおうなしにたたき込まれて、どこか苦行のような心持ちでおりました」
 商家に生まれついたのだから、自ずと課された役目なのだから、まっとうする以外、己を認めてもらえない──。脅迫めいた観念が、仕事一辺倒へと徳兵衛を追い立てていた。むろん、楽しむ余裕なぞどこにもなかった。
「ですがいまは、商いを楽しんでおられる。顔を見ればわかります」
「たしかに……皮肉なことですが、隠居して初めて、商いの面白さがわかったように思います」
 他人に告げたことのない素直な気持ちが、するりと口を衝いた。
「私は以前、人の一生をすごろくにたとえると、隠居で上がりだと考えておりました」
「ほう、双六ですか。それは面白い」と、丸喜屋が興を示す。
「ですが、いざ辿り着いてみると、その先も山あり谷ありでしてな。上がりどころか、また別の新たな双六を始めてしまったに等しい」
「その二枚目の双六に、思いのほか夢中になったというわけですな?」
「たぶん、おつしやるとおりです」
 認めながらも急に照れくさくなって、首の裏に手をやった。その姿に目を細め、丸喜屋は穏やかに続けた。
「私にとっては、隠居はお手玉ですな」
「お手玉とは、どのような?」
「主人であった頃は、奥向きは妻に任せきりで、商売だけに身を入れておればよかった。ですが隠居してまもなく、妻が先立ちましてな」
 告げられて、遅まきながら徳兵衛も思い出した。葬式には参列しなかったものの、香典を届けさせた覚えがある。
「身内の恥を晒すようですが、息子夫婦のあいだで諍いが生じたり、姪が駆落ち騒ぎを起こしたり、卒中で倒れた弟の面倒を見たりと、身内や親類のもんちやくが思いのほかに多くて。妻が亡くなってから、右往左往させられました」
「いや、よくわかります」と、徳兵衛も思わず大きくうなずいた。
 当代の吉郎兵衛が起こした一大事もあったものの、誰より徳兵衛を翻弄したのは孫のである。いたって邪気のないあの孫のために、尻を落ち着ける暇もないほどに、あたふたさせられた。
「私にとってはまるで、慣れぬお手玉を、三つも四つも手にしているかのように思えましてな」
「なるほど……言われてみれば、まさに」
「この歳まで長らえましたが、存外、安穏としてはいられぬものですな。身内の悶着というものは、途切れることがありませんから」
 ひとつ放り投げても、すぐにまたひとつ手に返ってくる。身内や周囲の悶着はまさに、お手玉に似ている。
「とはいえ、安穏と無縁であったからこそ、達者でいられたのやもしれません。過ぎてみれば、そんな気もいたします」
 安穏に身を置けば、たちまち腐り出す。それもまた、ひとつの真理だ。
「隠居お手玉も、悪くはないということですな」
 相槌を打った徳兵衛に、亀井屋が思い出したように話をふった。
「そういえば、嶋屋さんの末のお嬢さんは、この板橋に嫁いだのですか?」
「いえ、出戻ってから、未だに家に居ついておりますが」
「さようですか……ではやはり、娘の見間違いかもしれません。いえね、娘夫婦が最近、板橋宿のひら町に引っ越しましてね。つい先日、町内の湯屋で、お嬢さんをお見掛けしたというのです」
「お楽が、板橋の湯屋に?」
 亀井屋の娘は、お楽よりも五つ六つ上になり、娘同士は親しく口をきいたことはない。ただ、同じ茶の湯の師匠のもとに通っていたために、顔は見知っていたという。
「声をかけたところ、人違いだと返されたそうですが、やはり嶋屋のお嬢さんではないかと娘は申しておりまして。お腹が少しふくらんでいたから、嫁ぎ先がこの辺りかと思ったそうです」
「それは明らかに人違いですな。お楽は板橋宿には、縁もゆかりもありませんし……」
 一笑に付しながら、ちらと何かがよぎった。錺職人の秋治である。
 秋治はたしかに板橋宿に住まっているが、どうしてお楽の話で秋治を思い出したのか、自分でもよくわからない。ただ、妙に心にかかる。
 隠居お手玉も、悪くはない──。そう返したときは、まだごとのように考えていた。
 ずっしりと重いお手玉を、すでに握らされていることに、徳兵衛は気づいていなかった。

つづく


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