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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.51

明日、秋治が隠居家を訪ねてくるらしい。――西條奈加「隠居おてだま」#13-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 徳兵衛が嶋屋の内に留まったのは、わずか半時ほどだった。
 糸の卸値が決まれば、他に用はない。さっさと嶋屋を辞去して、帰途についた。
「しかし、吉郎兵衛のようすは妙だったな……明日の都合ばかりを気にして」
 昨日、柏屋から戻ってみると、秋治からふみが届いていた。相談事があるから、明日のひるまえに訪ねたいとの由だった。ちょうどこちらからも、顔合わせを打診するつもりでいたから折が良い。使いの小僧に、承知を告げた。
 その話をすると、何故だか吉郎兵衛の顔が強張った。
 秋治は嶋屋を通して、ろくに組紐を求めにきた。もちろん吉郎兵衛も承知している。互いに知らぬ間柄ではないが、さして親しくはないはずだ。妙にも思えたが、気の小さい長男のことだ。また些末なことを案じているのだろうと、すぐに気掛りを払った。
「おや、嶋屋さんではございませんか」
 嶋屋を出て早々、往来で声をかけられた。
 前に会ったときよりも白髪は増えていたが、人懐こい笑顔は変わらない。
「これはかめさん。いや、お久しゅうございますな」
「互いに隠居の身の上ですからな、無沙汰もお互いさまですよ」
 がも町を東南の方角に抜けると、巣鴨なか町や巣鴨はら町など、巣鴨とつく町がいくつもある。亀井屋は、巣鴨原町にある糸問屋で、いわば同業仲間であった。
「ここで会ったのも、ご縁ですな。実は今日、『かんえつかい』の集まりがありましてな」
 いぬいとは、北西の方角をさす。江戸の北西に店をもつ糸問屋は、「いぬいの会」という仲間を作り、商い事などを相談していた。互いを屋号で呼ぶのは、そのためだ。
 幕府が定めた株仲間ほど強固なものではないが、産地ごとの糸の出来や値段の相場など、糸商いには欠かせぬ話も多い。徳兵衛もまた嶋屋の主人であった頃は、この乾の会にまめに顔を出し、いまは吉郎兵衛が加わっていた。
「ほう、乾越会ですか」
 と相槌を打ちながら、こちらには足を向けたことが一度もない。乾越会とは字のとおり、乾の会を越えた者、つまりはかつての仲間が隠居後に作った会である。
「はい、いたばし宿しゆくで。私は行き掛けに、巣鴨町の見知りの家に寄ったのですが、これからで板橋宿に向かうところでしてな。よろしければご一緒しませんか」
「いや、わしは不調法者でしてな、商いより他は面白みもありません。行ったところで皆さんのお邪魔になるのが関の山ですから」
 遠回しに断ったが、実のところはまったく興味がない。商売に何ら関わりなく、年寄りばかりが集まったところで、さして面白くもなかろう。人との慣れ合いが苦手な徳兵衛にとっては、平たく言えば、時と金の無駄遣いとしか思えなかった。
「そう言わず、一度くらいお運びくださいまし。芸者を呼ぶような派手な催しではなく、料理屋でひるの膳を囲みながら、昔語りに花を咲かせるだけですし」
 年寄りの昔話ほど、無駄なものはない。仲間内で過去を自慢しあって、何になろう──。内心ではげんなりしたが、亀井屋は存外食い下がる。
「この前も、嶋屋さんの話が出ましてな。一度もいらしていないのは、嶋屋さんだけですから。このまま互いに顔を合わせることなく、どちらかが先立ってしまうのはあまりに寂しいと」
 その言葉ばかりは、妙に胸に刺さった。老い先がどれほどあるのか、一年か二年か、はたまた十年か誰にもわからない。
「己の葬式前に、一度くらい会いたいものだと、まるさんなぞはそんな冗談を口にしておりました」
 丸喜屋は乾の会でも最高齢で、すでに七十を越えている。向こうが隠居して以来だから、軽く十年以上は顔を合わせていない。面倒見のいい人で、徳兵衛が乾の会に入り立ての頃は、何くれとなく声をかけてくれた。
 急に焦りに似た申し訳なさが募り、亀井屋の熱心にほだされた感もある。
「丸喜屋さんや皆さんに、無沙汰を通したのはこちらの不徳。遅まきながら、お邪魔させていただきます」と、応じていた。
 道の先の辻で駕籠を拾い、二丁仕立てで板橋宿に向かった。
「駕籠代と昼餉でいくらになろうか。帰りは駕籠を使わず、歩くとするか」
 板橋宿に着く頃には、駕籠に揺られながら、頭の中でそろばんはじいていた。

▶#13-4へつづく


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