何も知らない徳兵衛は充実した気持ちで商談を進めるが――。――西條奈加「隠居おてだま」#13-2
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
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「ほう、このたびもまた、目新しい意匠ですな」
徳兵衛が披露した帯留細工に、番頭が目を見張る。
三人が密談を交わしていた頃、徳兵衛は日本橋
柏屋は、歌舞伎役者が営む小間物屋だが、実で商いを廻しているのはふたりの番頭だ。
ことに二の番頭の
「海老に萩、兎に波、
同席する
「兎に波は、たしかそのような家紋があったかと。こうして細工として形になると、より面白みが増しますが」
「いっそ客の家紋を帯留とするのはどうです? 新たな商売に繫がりそうにも思えます」
「良い策ですが、そちらは別の錺師に任せては? 意匠の合わせようの妙味こそが、秋治の売りなのですから」
互いに思案を交わすごとに、商いの先行きが広がっていくようで実に楽しい。それぞれが培った商売魂に裏打ちされて、単なる夢物語では終わらず利に
「そういえば、かねがね気になっておりましたが、秋治ではいかにも名が軽い。もっと風雅な名にした方が、錺師としての重みが増すのでは?」
「それはよろしいですな。さっそく秋治と相談いたしましょう」
経兵衛の申しように、徳兵衛は即座に応じた。
「ならばいっそ、顔合わせのための席を設けてはいかがです? 職人とのやりとりは、ご隠居さま任せにしておりましたが、そろそろ当人に
佳右衛門の言い分ももっともだ。堺町の料理屋で一席設けることにして、秋治に伝えておくと徳兵衛は請け合った。経兵衛が、並んだ細工にほれぼれと見入る。
「曲がりのない律義な人柄ときいておりますが、細工の意匠には何がしかの色気がある。職人と細工は別物と承知してはいますが、実に不思議なものですな」
「言われてみれば、たしかに……」
うなずいた徳兵衛に、佳右衛門がたずねた。
「色気といえば、秋治はたしか独り者でしたな。いい交わした相手なぞは、いないのですか?」
「その辺りもとんと……。会うたときには、細工の話ばかりで」
「物堅いところは、ご隠居さまも同じですからな」
佳右衛門は笑顔で話を収めたが、徳兵衛は手にした帯留に目を落とした。
何だろう? 何かが目の前を
「では、角切紐の話に移りましょうか。まずは墨付を与える件ですが、先に申し上げた十五軒とは話がつきました。墨付料においても、こちらの言い値が通りまして、正月から一斉に売り出す段取りにいたしました」
佳右衛門の報告に気をとられ、覚えたもどかしさは遠のいていた。
「朝から嶋屋にお出掛けとは、おめずらしいですね」
翌朝、徳兵衛は、下男の
「うむ、年明けから組紐師の数が増えるからな、これまで以上に糸の仕入れが増える。改めて値の相談をすべきかと思うてな」
たとえ身内のあいだでも、商いにおいては筋を通さねば気が済まない性分だ。徳兵衛の言い値をそのまま承知した吉郎兵衛に、こんこんと説教したことすらある。
「おまえは嶋屋で、荷運び仕事があるのだろう? わしの帰りは気遣わんでよいぞ」
「へい、そういたしやす」と、善三は素直に返す。
隠居家に移った頃は、無口で不愛想に見えた善三だが、近頃ではよく話をするようになった。慣れはお互いさまだが、若い下男の方が徳兵衛に懐いたと言えなくもない。
嶋屋のような大所帯では、下男と親しく口を利く機会なぞ滅多になく、短気で小うるさい主人となればなおさらだ。しかし隠居してからは、徳兵衛も少しは鷹揚を覚え、また怒鳴るにも筋道立った理由があるのだと、間近で見ていて善三も学んだようだ。
こうして供をする折に、雑談なども交わすようになったが、もともと口数の多い男ではないから、徳兵衛としても邪魔にならない。
短い会話を終えると、善三は行儀よく口を閉じたが、小さな鼻歌がきこえてくる。
「このところ、ずいぶんと機嫌が良いな。何かいいことでもあったか?」
「え? いやあ、たいしたことではねえんですが……」
ちらりと後ろをふり返り、下男の顔をながめる。
「そのにやついた顔は、もしや女か?」
「い、いや、
大げさに否定しながらも、わかりやすくどぎまぎする。この手の話は不得手だけに、掘り下げるつもりはなかったが、歩きながら善三は遠慮がちに語り出した。
「実はこの前、こっぴどく振られちまいやして。と言っても、恋仲でも何でもねえ、勝手に岡惚れしていた人が、あっさりと嫁に行っちまいやしてね」
善三の想い人が、組紐場を手伝う子持ちのおむらであったことは、隠居家中に知れ渡っているのだが、徳兵衛の耳にだけは入っていない。噂のたぐいを伝えるのは、おわさの仕事なのだが、こと息子の話となれば
「まさか子持ち女に懸想していたなんて、きいたときには腰が抜けそうになりましたよ。二十歳そこそこで、わざわざ苦労を
お登勢を相手に、おわさはそんな愚痴もこぼしていたが、むろん徳兵衛は知る由もない。
おわさは亭主を亡くし、善三を女手ひとつで育てた。いわばおむらと同じ立場なのだが、ひとり息子に並の幸せを望むのは、実に親らしい身勝手かもしれない。
当の善三も、気持ちのけりがついたようで、さして湿っぽくない調子で語る。
「気落ちしたのは、振られちまったからじゃねえんです。おれは度胸がなくて、ただながめているだけでやした。それがてめえでも情けなくて」
「まあ、そうだな。手をこまねいているだけでは、商いの機もめぐってはこんからな」
何事も商売に置き換えて理解するのが、徳兵衛の癖である。
「恋ってのは、身を投げ出してこそ。我が身が可愛いうちは、恋なぞできねえ──。きっとそういうもんなんでしょうね」
「なるほど……道理で苦手なわけだ」
妙に合点がいって、小さく呟いた。たったひとりの相手のために身を投げ出すなぞ、徳兵衛にとっては怪談よりも恐ろしい。
「だが善三、袖にされてその浮かれようは、
「へへ、捨てる神あれば、拾う神ありってもんで」
「すでに他の女に、鞍替えしたというのか? さような身軽は、あまり感心せんな」
徳兵衛がたちまち不機嫌を
「いやいや、そんなつもりはありやせん。あっしにとっちゃ、思ってもみなかった相手で。未だに戸惑っている有様でやして」
まだほんの子供だと侮って、娘とは捉えていなかった。互いの不器用も手伝って、気持ちを確かめ合うような真似もしていないと、ばつが悪そうにぼそぼそと語る。
「それでもね、ご隠居さま。てめえの意気地のなさにがっくりしていた折に、おれを陰ながら見守ってくれる者がいた。そいつが何だか嬉しくて……それだけでさ」
もっとも興味のない色恋の話を、目下の奉公人からきかされる。どうして律義に耳を傾けているのか、我ながら呆れる思いがしたが、たまにはいいかと、そんな気になった。
しかし肝心なところは、釘を刺さねば済まないのが徳兵衛だ。
「その相手というのはまさか、隠居家の内におるのではなかろうな? わしは奉公人同士の色恋なぞ、認めぬぞ」
「え、ま、まさか! 滅相もない!」
全力で否定され、ならばよし、と田舎道を歩き出す。
鼻歌は途切れ、善三はしょんぼりと従った。
▶#13-3へつづく