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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.48

気が付かなかった弟の心の傷に触れ、瓢吉は決意を固める。――西條奈加「隠居おてだま」#12-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「嫌だ! おいらは兄ちゃんと一緒にいる! 兄ちゃんと一緒に巣鴨に帰る」
 案の定、逸郎はがんとして承知しなかった。まあ、はなからわかっていたことだ。
「ここにいれば、毎日、母ちゃんの旨い飯が食えるんだぞ。好物の団子だって、食い放題だぞ」
「団子なんていらない。兄ちゃんがいい」
「おこま姉ちゃんのことは、逸も好きだろ? 兄ちゃんの代わりに、姉ちゃんができるんだ」
「おいらは、兄ちゃんがいい!」
 駄々をこねる子供には、理屈が通用しない。弟や仲間のちびたちのおかげで、身にしみてわかっている。
「なあ、逸郎、おまえ、母ちゃんと暮らしたいと思わねえか?」
「思わねえ」
 即座に返されて、にわかに戸惑った。こんなふうにはっきりと、ものを言うのはめずらしい。
「もしかして、逸、母ちゃんが嫌いなのか?」
「嫌いじゃねえ。でも怖い」
「……怖い? 母ちゃんは、怖くねえだろ。逸に優しくしてくれるだろ?」
「だって母ちゃんは……のっぺらぼうだから」
 母が妖怪だと言われても、話が繫がらない。首をかしげつつも、辛抱強く弟にたずねる。
「母ちゃんには、ちゃんと顔があるだろ? のっぺらぼうなんぞじゃねえだろ?」
「だっておいら、母ちゃんの顔を忘れちまって……母ちゃんを思い出そうとしても、のっぺらぼうしか出てこなくて……」
 ふいに、今朝のやりとりが頭に浮かんだ。
 ──おいら何でも、すぐ忘れちまうんだ。
 あれは、母のことだったのか──。痛みのような切なさに襲われた。弟が、これほど傷ついていたとは、迂闊にも気づいていなかった。
 母が去ったとき、弟はまだ四つだった。忘れても無理はない歳頃で、深くは考えなかった。母への思慕を長く引きずっていた瓢吉にしてみれば、むしろうらやましくすらあった。
 だが、そうではなかった。小さいからこそ深手を負い、消えない傷となったのだ。
「母ちゃんが家に来るようになって、今日も一日、一緒にいて……目の前にいるときは、母ちゃんてわかるんだ。でも、後で思い返そうとしても、やっぱり母ちゃんの顔だけ、のっぺらぼうのままで……」
 逸郎の口が横に歪み、大粒の涙がこぼれた。
「兄ちゃんと離れたら、兄ちゃんもきっとのっぺらぼうになっちまう……おいら、兄ちゃんだけは、のっぺらぼうにしたくねえんだ……兄ちゃんだけは、忘れたくねえんだよお」
 わんわんと泣き続ける弟を、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。
「わかった、わかったから、もう泣くな……兄ちゃんが悪かった。おまえとはずうっと一緒だ。一緒に巣鴨で暮らそうな」
 海風が、少し強くなってきた。弟の肩から顔を上げると、砂浜の向こうに佇む、母の姿が見えた。

「よかったあ、瓢ちゃんと逸ちゃんが巣鴨で暮らすことになって」
 翌日、瓢吉は、高輪での出来事を、かんしちに語った。
「だが、お袋さんはがっかりしたろ。息子ふたりに袖にされて」
「まあな。でも、母ちゃんもわかってくれたし、兼八さんやおこま姉ちゃんもいるしな」
「お母さんとは、また会えるよ。これからも、高輪に遊びに行くんでしょ?」
「うん、道も覚えたし、そのうちな。あ、そうだ! 今度はおまえたちも一緒に行かねえか? 帆掛け船は、すんげえ気持ちいいぞ」
「うわあ、乗ってみたい! 次に行くときは、ぜひ誘ってね」
 千代太は期待をふくらませたが、勘七は現実の懸案が気になるようだ。
「あとは、親父さんだな。相手がいなくなったんなら、さすがに色街から足が遠のくんじゃねえか?」
「いやあ、なにせあの親父だからな。そのうちまた別の通い先を見つけて、もとの木阿弥になりそうな気もするな」
「いまのうちに、おじいさまに釘を刺していただこうか? きっといつにも増してたっぷりと、お説教してくださるよ」
「お、そいつはいいな。親父には、何よりの薬になりそうだ」
 隠居家の囲炉裏端で、三人で笑いこける。ここが自分の居場所なのだと、そう思えることが心地よかった。
 この家の女中のおわさが、魚板を叩いておやつだと告げる。外で遊んでいた逸郎も、小さい仲間たちと一緒に戸口からとび込んでくる。
「おさまが、卵を買ってくだすってね。今日のおやつは、で卵だよ」
 わあっと子供たちから歓声があがる。卵は値の張る代物で、かけそば一杯が十六文なのに、茹でた卵は一個二十文もする。子供たちにとっては滅多に食べられないご馳走であり、手習師匠を務めるお登勢の心配りであろう。
「兄ちゃん、すごいね、茹で卵だって!」
 真っ白でつるりとした卵が、のっぺらぼうを思い起こさせたが、幸い弟は頓着がなさそうだ。おわさから渡された卵を、嬉しそうに受けとる。
 のっぺらぼうの話は、母にも、仲間にも語っていない。
 どのくらい高輪に通えば、逸郎の中ののっぺらぼうは消えるだろうか。何年かかっても、いつか母の顔に、目鼻がついてほしいと瓢吉は祈った。
「兄ちゃん、殻が剝けないよお」
「どれ、貸してみろ。卵なんだから、割りゃあいいんじゃねえか?」
 板間にぶつけると割れ目ができて、わずかながら中身が覗いた。

つづく


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