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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.47

母の家でのひと時は楽しかった。だからこそ、置いてきた父が思い出される――。――西條奈加「隠居おてだま」#12-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「うへえ! 気持ちがいいなあ。本当に真ん前が海なんだな」
 瓢吉が、うん、と伸びをする。霜月の末だけに水は冷たかったが、よく晴れていて風もさほど強くない。波打ち際で足を水に浸したり、砂山を作って棒倒しに興じたり、ひとしきり遊んだ。
「瓢ちゃんと逸ちゃんが来てくれたら、毎日遊べるね」
 楽しそうな顔を向けられて、瓢吉は思わず下を向いた。おこまは敏感に気づいて、瓢吉のとなりに腰を下ろす。
 逸郎は見つけた蟹に夢中になっていて、砂浜に寝そべって棒でつついていた。
「うちが、気に入らなかった?」
「そんなことねえよ! おじさんもいい人だし、おこま姉ちゃんも親切だし」
「もしかして……お母さんのこと、恨んでる?」
 自分で思う以上に驚いて、おこまをふり返った。
「お母さんがね、気にしてたんだ。二年半も会いにいかずに、ほったらかしにしちまったって。恨まれても仕方がないって」
 離縁の元凶は父であり、母を恨んでなぞいない。昨日、がもで会った折、母にもそう伝えた。なのにどうしてだか、おこまに真っ直ぐに切り込まれると、こたえに詰まった。
「お母さんが会いにいかなかったのは、前のご亭主を、瓢ちゃんたちのお父さんを許せなかったからだって」
 両親は、惚れ合って一緒になった。だからこそ浮気はこたえ、相手の女のために湯水のように金を注ぎ込むさまは、母をいたく傷つけた。
 母の心の傷は、思う以上に深かった。巣鴨に足を向けることすらできなくて、やがて見合いで兼八に嫁ぎ、夫婦の暮らしが落ち着いてきてようやく、捨てて逃げてきた過去と向き合う勇気がわいたのだ。
「女同士だからね、お母さん、話してくれたんだ。あたしもね、死んだおっかさんには言えなかったことも、案外ぺろりとお母さんにはしゃべっちまうの。不思議だよね」
「そういや、おこま姉ちゃんの親は、どうして離縁したんだ? おじさんは真面目そうで、浮気なぞしそうもねえし」
「うちはね、おばあちゃんがきつい人で。おっかさんが気苦労のあげくに倒れちまって、おとっつぁんは実家に返すことにしたんだって」
「なるほど……姑とのいざこざか」
「そのおばあちゃんが亡くなって、およね母さんと一緒になったんだよ」
 何気ないようすで語ったが、おこまが大人びているのは、相応の苦労を重ねてきたためかもしれない。祖母と母の不仲、両親の離縁と母の再縁。その母も亡くしてしまった。
 おこまの歳を見かけより引き上げたのは、きっと細竹の節のように折々に溜めこんだ寂しさだ。心許なく不安で、自分だけ置いていかれたような悲しさだ。その気持ちが、瓢吉にも手にとるようにわかる。瓢吉もまた、同じ思いをしてきたからだ。
「母ちゃんのことは、恨んでない……恨まねえように、してきた。きっ腹を抱えて、そんな暇もなかったしな」
 できるだけ正直に、いまの自分の気持ちを告げた。
「ただ、一緒に暮らせねえのは、別のわけなんだ。母ちゃんも、おじさんも姉ちゃんも関わりなくて……」
 懸命に説こうとしたが、心の中にわだかまった思いを言葉にするのは、いたく難しかった。母がいないところで、瓢吉は己の足場を築いてきた。一切を捨てて母のもとに行くのは、何か釈然としない。女の意地ならぬ、男の意地だ。
「そっか……瓢ちゃんは、巣鴨にいるお仲間や、参詣商いを捨て難いんだね」
 おぼつかない説きようを、おこまはそのように理解した。
「捨て難いといや、もうひとつあって……馬鹿親父を、放っておけねんだ。いまはな」
 相手のお志保が去った経緯を、かいつまんで語った。
「どうしようもない親父だが、いちばん弱ってるときにうつちやるのは、卑怯に思えてよ。子供や年寄りや病人と同じだろ? 首でもくくられたら、それこそ寝覚めが悪いしよ」
 母やおこまとのひと時は、掛け値なく楽しかった。だからこそ、ひとり家で海鼠になっている父が、しきりに思い出された。
 父親としては落第だが、世の中にはもっとひどい親がいる。仲間の境遇から、瓢吉は学んだ。杵六はたしかにろくでなしだが、子供を叩いたり足蹴にしたり、暴言を吐いたり傷つけたりはしない。そういう大人は世の中にいくらでもいて、父はまだましな方だ。甲乙丙に見立てれば、丙の上といったところか。
「わかってるよ。馬鹿だって言いてえんだろ。たしかに親父譲りの大馬鹿者だ」
「それを言うなら、お人好しでしょ」
 妙なところが、父に似ていた。嬉しくもないはずが、おこまににっこりされると、不思議と悪い気はしなかった。
「それでな、おこま姉ちゃんに頼みがあんだ。逸郎だけは、ここで養ってもらえねえか」
「兄弟、離れ離れになるというの?」
「逸はまだ小さいから、母ちゃんと暮らすのがいちばんだ。あいつは甘ったれだからな、おれの代わりに構ってやってほしいんだ」
「もちろん、喜んで面倒見るよ。でも、逸ちゃんが承知しないんじゃ……あんなにお兄ちゃんを慕ってるのに」
 その折に、「兄ちゃん!」と呼ぶ、逸郎の声がした。
「ほら、蟹が釣れたよ!」
 逸郎が握る枝の先に、蟹がぶら下がっている。いっぱいの笑顔が胸に刺さり、泣けそうになった。
「逸には、おれから話すよ。相当にごねるだろうが、それが筋ってもんだからな」
 おこまを先に帰して、瓢吉は弟を手招きした。

▶#12-4へつづく


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