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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.44

母からの申し出を、参詣商いの仲間たちに打ち明けてみると――。――西條奈加「隠居おてだま」#11-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「逸、明日、母ちゃんちに遊びに行くぞ」
 晩になると、瓢吉は弟に切り出した。
「母ちゃんちに? どうして?」
「どうしてって、一度高輪に遊びに来いって誘われたんだよ。行くだろ?」
「兄ちゃんも行く?」
「そりゃ行くさ」
「だったら、おいらも行く」
 嬉しそうに笑み崩れる。まったく単純な奴だ。
 たとえ母がいても、兄弟にとっては他人の家だ。なさぬ仲の父や姉とうまくやっていけるのか、不安もある。それを除くために、高輪まで来てほしいと、およねは乞うた。要は、見合いのようなものだ。
「事をくつもりはないんだ。おまえたちがあたしらと暮らしたいって思ってくれるまで、いつまでも待つし、何遍だって通ってくれて構わない。親戚の家を訪ねるようなつもりでさ、遊びにきてほしいんだ」
 師走しわすに入ると互いにあわただしい。霜月のうちにと考えて、明日にした。その日は休むと、参詣商い仲間には、今日のうちに断りを入れた。
「そっかあ、お母さんちに遊びに行くんだね。うんと楽しんできてね」
 千代太は我が事のようににこにこし、勘七は道のりを心配する。
「高輪までとなると、歩いていくには結構遠いぞ。瓢はともかく、逸は大丈夫か?」
「歩くのはしませいどうまで。そっから舟になるそうだ」
「その日のうちに、帰ってこられるか? 何なら一日、二日、向こうに泊まっても構わねえぞ。そのくらいなら、おれがどうにか瓢の代わりを務めるからよ」
 それがだということは、まだ打ち明けないつもりでいた。決まったわけではないし、瓢吉自身にも実感が伴わなかったからだ。
 けれども、千代太のまぶしいほどの笑顔や、勘七の律義な瞳にぶつかると、ついしゃべってしまった。我ながらだらしないと思いつつ、胸中のあれこれを仕舞っておける性分ではないのだ。
 母からの申し出を伝えると、千代太の眉がみるみる下がった。
「だったらもしかして、高輪に行ったっきりになっちまうの? 瓢ちゃんとは、これでお別れなの? 嫌だよ、寂しいよ」
「そう話を急くな。見合いみてえなもんなんだから、ちゃんと巣鴨に帰ってくるよ」
「でも、でもお! 見合いだとしたら、そこで話が決まるかもしれないでしょ。どうしよう、瓢ちゃんがいないと『千代太屋』だってまわせないよ」
 仲間に頼みにされるのは、素直に嬉しかった。
 参詣商いは、千代太がとりまとめ役を引き受けて、その名を屋号にした。勘定は勘七が、そして境内での差配は、瓢吉が務めている。
「勘ちゃんも、黙ってないで何とか言ってよ!」
 それまでしばし考え込んでいた勘七が、顔を上げた。
「もし、お袋さんの一家に不足がねえなら……高輪に行くべきだと、おれは思う」
「勘ちゃん! どうしてそんなこと言うの」
「瓢や逸にとっては、その方がいい。ちゃんと世話してもらって、金の心配もなくて。本当はそれが、あたりまえのはずだろ?」
「そうだけど……わかってるけど……」
 おたなの坊ちゃんである千代太には、暮らしの苦労ばかりは察しようがない。
「うちもさ、親父が戻ったろ。ひと悶着はあったが、一応、もとのさやに収まった。いまになって思うんだ。なつのためには良かったなって」
「なっちゃんの……?」と、千代太が呟く。
 勘七には妹のなつが、千代太にもやはり幼い妹がいる。
「おれたちはまだいい。あと二、三年ほどで、身のふり方も決まってくるからな。でも妹や弟は、この先五年も六年も、いまの暮らしが続くんだ」
 逸郎の笑顔が、いっぱいに浮かんだ。泣き虫で甘えん坊で、甚だ面倒な弟だ。
 こいつさえいなければ、もっと速く、もっと遠くまで駆けていけるのに──。
 そう思ったことも、一度や二度ではない。
 それでも、瓢吉がこれまで足を止めなかったのは、逸郎がいたからだ。母がいなくなってから、石ころだらけの険しい坂道ばかりだった。息が切れ、座り込もうとするたびに、ふとふり返ると、嬉しそうについてくる逸郎の姿があった。
 小さな手が腰にかかり、その温もりが意外なほどに強い力で、瓢吉の尻を押した。
「逸郎は、おまえと離れるなんて、考えてもいねえだろ。だからふたりで、高輪に移れ」
 勘七は、まじめな顔でそう勧めた。その横で千代太は、膝の上で両手を握っていた。
「おじいさまから、きいたことがあるんだ。たとえ主人が倒れても、商売を続けていく。そのために、お店を皆で支えるんだって」
 隠居のとくは、孫の千代太に商いのいろはを教えている。教わったときには、ぴんとこなかったと千代太は明かす。
「でも、いまわかった。瓢ちゃんがいなくなっても、皆のために参詣商いは続けなくちゃならない。そのために千代太屋はあるんだ」
 うん、と勘七が、力強くうなずく。
「だから瓢ちゃん、後のことは心配しないで。逸ちゃんとお母さんと、達者に暮らしてね」
「いや、千代太、おまえ大泣きじゃねえか。そんな顔で言われても……」
「瓢だって、泣いてるじゃねえか。おまえらほんとに涙もろいな」
 瓢吉と千代太の涙腺は、いたってゆるい。滅多に泣かない勘七は、まるで今生の別れのように涙をこぼすふたりに、辛抱強くつき合ってくれた。
 ただ、別れを惜しんだのは、決して大げさではない。
 ふたりの許しを得たことで、瓢吉の腹は、八分ほど固まっていた。
 水を差したのは、その晩遅くに帰ってきた父親だった。

「水だーっ、水もってこい、瓢吉い!」
 籠職仲間に背負われた杵六は、へべれけで声を張り上げる。
「父ちゃん、酔ってんのか? 下戸のくせに、何やってんだよ」
 夜中にたたき起こされた上に、父親は正体不明になるほど酔っている。色街通いは慣れていても、こんなことは初めてだ。
 みずがめから汲んだ水をしやくごと吞み干すと、杵六はそのまま倒れるように寝てしまった。いったん目を覚ました逸郎も、眠気に勝てなかったのか、父親の横で寝息を立てる。
「まったく、なんてえ体たらくだ。これじゃあ、別れを惜しむ気にもなれねえや」
「別れってのは、何のことだい?」
 父を背負ってきたとよが、気づいたようにたずねる。
 同じ籠職人で、父とは若い頃からの遊び仲間でもある。といっても、所帯をもってからは色街にたまにつき合う程度で、女房と子供をちゃんと養っている。
 母のおよねとも顔馴染みで、離縁のいきさつも知っている。兄弟にとっても、よく顔を見せる気のおけないおじさんだ。瓢吉は母の申し出を、豊治に打ち明けた。
「そうか……まあ、おっかさんのもとで暮らす方が、おまえらにとってはいいんだろうな。だが、杵にはつらい話だな。別れがふたつも重なってはな……」
「ふたつって、何だよ?」
「いや、おれの口からは言えねえよ。子供に話すのもはばかられるしな」
 豊治はもったいをつけたが、瓢吉は急いで頭をめぐらせた。
「実は母ちゃんからも、きいてんだ。女の意地で離縁したと、母ちゃんは言っててな」
 微妙に脚色は入ったが、噓ではない。
「なんだ、おめえもそこそこ知ってたのか」
「細かいところまでは、よくわからねんだ。ほら、母ちゃんにはきけねえだろ?」
「そりゃあな、およねさんとしちゃ、勘弁ならねえもんな。単なる色街遊びならまだしも、たったひとりの女のために、身銭を切って通い続けたとあっちゃな」
 えっ、と発しそうになった声を、慌てて吞み込む。
「……父ちゃんはずっと、その女のために?」
「ああ、おさんていってな。杵の幼馴染だそうだ」
 まるで名がきこえたかのように、んごっ、と父親がいびきで応じた。

つづく


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