離れて暮らす母と久しぶりに会うことになった。なにか大事な話があるらしい。――西條奈加「隠居おてだま」#11-2
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
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山門から鳥居を抜けて、ゆるい坂道を一気に駆け下りる。
足がぐんぐん前に出て、左右の景色はとぶように過ぎてゆく。金魚の糞さえいなければ、こんなにも速く走ることができる。すでに弟の声も届かず、爽快な気分だ。
ここには
その前に、
「ごめん、遅くなって。逸の奴がついてくると言ってきかなくて、ふり払うのに往生してな」
「まあまあ、冬なのにこんなに汗をかいて。風邪をひいちゃいけないからね、これで汗をお拭き」
差し出された手拭いを、素直に受けとる。顔の汗を拭うと、ふわりと甘い匂いがした。何やら懐かしい、母の匂いだ。
「久しぶりだね、瓢吉。ちょっと会わないうちに、また背丈が伸びたんじゃないかい?」
母の笑顔がまぶしくて、瓢吉は目を
父の
杵と
非はすべて、父にある。父は稼いだ金を、そっくり色街に
離縁となれば、男子は父方に、女子は母方に引き取られるのが世の
瓢吉と逸郎の兄弟も、父の手許に残された。母と別れてからも、父の悪癖は相変わらずで、稼ぎはすべて色街に吸いとられる。自分たちの食い
ここに来るよう指図したのは、父の杵六だった。
「瓢吉、明日、およねと会ってこい」
「母ちゃんと?」
「おまえに話があるんだとよ。逸郎は連れていくな……ちょいと込み入った話だからな」
晩はたいてい色街に向かうのに、昨晩はめずらしく家にいて、さらに異なことに
今日の昼四ツ、庚申塚の前でと、父は背中を向けたまま告げた。
話って、何だろう──。母の顔を思い浮かべるだけで、なかなか寝付かれず、今朝は半時ほど寝坊した。王子権現で商いするあいだも、妙にそわそわして落ち着かなかった。
子供たちの不自由な暮らしを見かねて、お金を渡すつもりだろうか。いや、先々のことかもしれない。瓢吉も十になったのだから、そろそろ身のふり方を考えろ、か。男子は大方、十二、三で手習所を終えて、奉公したり職人修業を始めるものだ。
あれこれ考えあぐねて、最後はいつも、同じ
『母ちゃんと一緒に、暮らさないかい?』
両手を広げ、満面の笑みを浮かべた母がいる──。妄想はいつもここで終わるのだが、いかんいかんと慌てて
その辺の
鍵は、逸郎だ。弟を連れてくるなと言ったのは、当の逸郎のことを相談するためではないか?
『逸郎をね、引き取りたいんだ。あの子はまだ、小さいからね』
少しすまなそうな顔で、母がうつむく。そして、
『おまえには悪いけど、ふたりは無理なんだ……』
今朝、目が覚めたとき、悲しそうに告げる母の姿が浮かんだ。
ああ、そういうことか──。いたく腑に落ちて、胸の底からゆらゆらと湧いてきた悲しみに、急いで蓋をした。
弟がいなくとも、寂しくなんてない。勘七や
顔を洗いながら、弟の手を引いて王子権現に向かいながら、常のとおりふたりで参詣客を
「兄ちゃん!」と呼ばれるたびに、歳よりもあどけなく見える弟をながめるたびに、胸がしわしわして泣けそうになったが、どうにか
大丈夫だ。心構えはすでにできた。おれは兄貴として、弟の門出を笑顔で見送ってやるんだ。
「おまえとこうして会うのは、久しぶりだからね。そこらで団子でも食べようか」
固い決意を胸に秘め、笑顔の母にうなずいた。
▶#11-3へつづく