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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.42

離れて暮らす母と久しぶりに会うことになった。なにか大事な話があるらしい。――西條奈加「隠居おてだま」#11-2

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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 山門から鳥居を抜けて、ゆるい坂道を一気に駆け下りる。
 足がぐんぐん前に出て、左右の景色はとぶように過ぎてゆく。金魚の糞さえいなければ、こんなにも速く走ることができる。すでに弟の声も届かず、爽快な気分だ。
 おとなしがわを渡ると、こんごうの境内にかかり、さらにうねうねとした道を辿る。やがてなかせんどうに出て、がもちよういたばし宿しゆくの境にあたり、この辺には茶屋が多い。
 ここにはこうしんづかがあって、街道沿いに置かれた、道の守り神のようなものだ。丸い塚の上に、大きな一枚岩が鎮座して、金剛さまが彫られている。
 その前に、たたずんでいる姿があった。
「ごめん、遅くなって。逸の奴がついてくると言ってきかなくて、ふり払うのに往生してな」
「まあまあ、冬なのにこんなに汗をかいて。風邪をひいちゃいけないからね、これで汗をお拭き」
 差し出された手拭いを、素直に受けとる。顔の汗を拭うと、ふわりと甘い匂いがした。何やら懐かしい、母の匂いだ。
「久しぶりだね、瓢吉。ちょっと会わないうちに、また背丈が伸びたんじゃないかい?」
 母の笑顔がまぶしくて、瓢吉は目をらした。母に会うのは、未だに慣れない。
 父のきねろくと母のは、三年ほど前に離縁した。
 杵とよね、名を並べれば相性が良さそうなのに、うまくいかなかった。
 非はすべて、父にある。父は稼いだ金を、そっくり色街にぎ込むような男だ。愛想をつかした母は、父と離縁して、他の男と所帯をもった。
 離縁となれば、男子は父方に、女子は母方に引き取られるのが世のならいだ。
 瓢吉と逸郎の兄弟も、父の手許に残された。母と別れてからも、父の悪癖は相変わらずで、稼ぎはすべて色街に吸いとられる。自分たちの食いを稼ぐため、参詣商いを始めたのだ。
 ここに来るよう指図したのは、父の杵六だった。
「瓢吉、明日、およねと会ってこい」
「母ちゃんと?」
「おまえに話があるんだとよ。逸郎は連れていくな……ちょいと込み入った話だからな」
 晩はたいてい色街に向かうのに、昨晩はめずらしく家にいて、さらに異なことにかごを編んでいた。杵六は籠職人で、腕も悪くない。
 今日の昼四ツ、庚申塚の前でと、父は背中を向けたまま告げた。
 話って、何だろう──。母の顔を思い浮かべるだけで、なかなか寝付かれず、今朝は半時ほど寝坊した。王子権現で商いするあいだも、妙にそわそわして落ち着かなかった。
 子供たちの不自由な暮らしを見かねて、お金を渡すつもりだろうか。いや、先々のことかもしれない。瓢吉も十になったのだから、そろそろ身のふり方を考えろ、か。男子は大方、十二、三で手習所を終えて、奉公したり職人修業を始めるものだ。
 あれこれ考えあぐねて、最後はいつも、同じ台詞せりふで終わる。
『母ちゃんと一緒に、暮らさないかい?』
 両手を広げ、満面の笑みを浮かべた母がいる──。妄想はいつもここで終わるのだが、いかんいかんと慌ててかぶりをふる。
 その辺ののんな餓鬼とは違う。子供ながらに、世間の風の冷たさは身にしみている。そんな上手い話が、そうそう転がり込むはずもない。
 鍵は、逸郎だ。弟を連れてくるなと言ったのは、当の逸郎のことを相談するためではないか?
『逸郎をね、引き取りたいんだ。あの子はまだ、小さいからね』
 少しすまなそうな顔で、母がうつむく。そして、つぶやくように続ける。
『おまえには悪いけど、ふたりは無理なんだ……』
 今朝、目が覚めたとき、悲しそうに告げる母の姿が浮かんだ。
 ああ、そういうことか──。いたく腑に落ちて、胸の底からゆらゆらと湧いてきた悲しみに、急いで蓋をした。
 弟がいなくとも、寂しくなんてない。勘七やや仲間がいるし、ずっと邪魔だった金魚の糞がなくなれば、むしろすっきりする。
 顔を洗いながら、弟の手を引いて王子権現に向かいながら、常のとおりふたりで参詣客をさばきながら、何度も何度も言いきかせた。
「兄ちゃん!」と呼ばれるたびに、歳よりもあどけなく見える弟をながめるたびに、胸がしわしわして泣けそうになったが、どうにかこらえた。
 大丈夫だ。心構えはすでにできた。おれは兄貴として、弟の門出を笑顔で見送ってやるんだ。
「おまえとこうして会うのは、久しぶりだからね。そこらで団子でも食べようか」
 固い決意を胸に秘め、笑顔の母にうなずいた。

▶#11-3へつづく


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