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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.38

てるにはもう一つ、悩みの種があった。 ――西條奈加「隠居おてだま」#10-2

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「こんちは、おてる坊。おっかさんの具合はどうだい?」
「……悪くないよ」
「そいつは良かった。今日は、ほら、うで卵を買ってきたぞ。おっかさんに食べさせてやんな」
「……いつもどうも」
 相手は愛想笑いを張りつけているが、てるは仏頂面を崩さない。戸口に仁王立ちして、そのまま追い返したかったが、背中から母の声がかかった。
「いつもすみません、ぞうさん。気を遣っていただいて」
「同じ長屋内なんだから、このくらいはあたりまえだ。喜んでもらえりゃ、こっちも張りになる」
 小与蔵は今年の初め、向かいに越してきたが、てるは最初から気に入らなかった。母に対して、あまりに馴れ馴れしいからだ。あたりまえのように戸をくぐり、四畳半の隅に腰をかけた。
「今日は加減が良さそうで、何よりだ。じようさいは足りているかい?」
「はい、この前いただいた分がまだ。商売物なのに、もらってばかりで悪いようで」
「そんなこと、気にすんなって。病に効いてくれるなら、定斎屋としても張りになる」
 定斎とは、うんと苦い漢方の粉で、ひとつまみの塩を加えて熱湯を注ぐ。庶民にも求めやすい手軽な薬湯であり、暑気あたりや胃もたれ、腹痛に効くとされた。
 小与蔵は天秤棒でこれを売り歩く、定斎売りをしていた。
 引っ越しの挨拶に来たとき、母の食が進まないときくと、ぜひ試してみてくれと、定斎の包みをいくつか置いていった。それからつきが過ぎて、十一月になったいまも未だに続いていて、定斎に留まらず、卵だのうなぎだの団子だの、ちょくちょく土産も携えてくる。
 母はたいそう有難がっているが、てるは気が揉めて仕方がない。小与蔵の目当てが何なのか、あまりに見え透いているからだ。
「それと、そのう……」
 ひととおりの世間話を終えても、今日は何故か立ち去ろうとはせず、小与蔵はもじもじしている。しばししゆんじゆんしてから、懐から薄い紙の包みを出して、畳に置いた。
がも町下に新しいくし屋ができて、ちょいと覗いてみたんだ。中のひとつが目について、おちかさんに似合いに思えて……よければ、もらってくれねえか」
「あたしに?」
 ひどくびっくりしながらも、包みをあける。櫛を見るなり、まあ、とため息をついた。
「何てきれいな細工……ほら、おてるも見てごらん」
 不満より、わずかに興味がまさった。座敷に上がり、母の手の中の櫛をながめる。
 櫛歯の上一面に、七宝柄が透かしで入れられている。丸い花形に見える七宝は、縁や円満を意味する、縁起のいい紋様だった。櫛の左端だけは、七宝柄ではなく、細い花弁をもつ大きな花が一輪、やはり透かしで入っていた。
「花弁が六枚ある。これ、何の花?」と、てるは首を傾げる。
「花じゃなく、雪紋だそうだ。はるかぜゆきっていうそうでな」
「春風雪……」と、母が呟く。
「来年の春には、おちかさんの病が癒えますようにと、願をかけるつもりもあって。それで……その頃に、ご縁がありますようにって」
 小与蔵が、恥ずかしそうに下を向く。さっと母の頰が染まり、互いに気詰まりながら、何とも甘ったるい沈黙が続く。母が息を継ぐように唇を開き、声をきくより早く、てるは叫んだ。母のこたえをきくのが、怖かったからだ。
「ご縁なんて、ないから! あってたまるもんか!」
「これ、おてる……」
「ほら、用が済んだなら、さっさと帰ってよ!」
 小与蔵の背をぐいぐい押して、外に出す。後ろ手に、ぴしゃりと戸を閉めた。精一杯にらみつけたが、小与蔵は目を逸らさない。
「おてる坊、おれは本気なんだ。本気でおちかさんと、一緒になりてえと思ってる。おちかさんを大事にして、もっともっと丈夫にして……」
「あんたの気持ちなんて知らない! おっかさんとあたしに関わらないで」
「おてる坊、おれは敵じゃあねえ。味方になりてえんだ! 三人で仲良く、暮らしてえんだ!」
 ふっと、意地の悪い笑いが込み上げた。
「仲良くだって? きいてあきれる。おっかさんが、どうしていままで独り身を通したか、教えてあげようか?」
「知ってる……一度は再縁したんだろ? 大家さんからきいたよ」
 死別も離縁もめずらしくはなく、乳飲み子を抱えていればなおさら、再婚はあたりまえだ。母もまた、父を失って一年のうちに再婚したが、わずかつきで離縁した。
「その亭主がひでえ男で、泣いてるおてる坊を足蹴にしやがった。だからおちかさんは、もといたこの長屋に逃げてきたって」
 ここは、てるが生まれ、両親と暮らした長屋だ。再婚したことで一度は離れたが、頼れる身内のいない母にとって、実家に等しい場所だった。母の訴えで、大家があいだに立って離縁が成り、ふたたびこの長屋で暮らすようになった。
「どうせあんたも、おっかさんとくっついたら、あたしをつまはじきにするんだろ? なさぬ仲の娘なぞ、可愛いはずがないもの」
 実を言えば、母の二度目の亭主のことは、まったく覚えていない。足蹴にされたことも含めてだ。それでも母の再婚に異を唱えるには、格好の盾になる。
「そんなことはしねえ。……そう誓っても、口約束じゃ信用ならねえか」
 ふう、と息を吐き、小与蔵は真顔を解いた。ぱんぱん、と己の両頰を張ってから、にっと快活に笑う。
「おれはせっかちでな、ちっと事を急ぎ過ぎたようだ。だが、こっから先は、長丁場を覚悟してくれ。おちかさんとおてる坊が、おれを信じてくれるまで、五年でも十年でも、じっくり腰を据えてかかるつもりだ」
「……ものすごく迷惑なんだけど」
「だろうな。それでもひとつ、よろしく頼まあ。じゃあな、おてる坊、また寄らせてもらうよ」
 言うだけ言って、向かいの長屋に帰ってしまった。厚かましい上に、腹が立つ。
 その日は頭がかっかしてなかなか眠れず、翌朝は寝坊した。

▶#10-3へつづく


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