menu
menu

連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.37

隠居家で働く職人や使用人の色恋話に、見習いのてるはやきもきする。――西條奈加「隠居おてだま」#10-1

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

前回までのあらすじ

嶋屋の隠居・徳兵衛が始めた組紐屋の「角切紐」は、派手な色柄で大きな評判を呼んでいた。組紐師は職人頭のおはちを筆頭に、おくに・おうね姉妹の三人。さらに姉妹が五人の見習いの子供たちの面倒をみる大所帯だ。職人たちの様子をよく観察していた見習いのてるは、おくにが下男の善三に恋をしていることに気が付く。善三は女中のおきのと惚れ合っているのではないかと遠慮するおくにのため、てるは二人の仲を確かめようとする。

「で、おくにさんには話すんですか? ぜんさんとおきのさんのこと」
「言えるわけねえべ。おてる、おめが伝えてけれ」
「いやいや、あたしはとても。ここはやっぱり、妹のおうねさんが」
 おくにがぜんぞうに惚れていて、しかし善三は、すでにおきのといい仲らしい。そしておきのとおくには、仲の良い同士である。色恋にさっぱり縁のないふたりには、そのもつれようは手にあまる。
「とりあえず、おくにさんには内緒ってことで」
「それしかねえべな」
 ひとまず先送りにするしかなく、だんまりを貫くことにした。
「ひとつ、きいてもいいですか? おうねさんは、誰かにいちになったことってありますか?」
「馬鹿にすっでね。おら、もう十五だぞ。そうさなあ、本気で惚れただ三人ばかりか」
「意外と移り気なんですね」
「まずはきくろうだろ、そんでだんじゆうろう、だども何と言ってもこうろうだべな。あの鼻の高いことといったら!」
「なんだ、歌舞伎役者の話ですか……」
 役者を描いた錦絵は、土産物として国中に広まっている。おうねの恋の相手は、その錦絵であったようだ。
「そういうおてるは、どうなんだ? お仲間にも、男がたんとおるだろうが」
「あれは男ではなく、ガキと言うんです」
 拳を握って一刀両断すると、ひゃはは、とおうねが腹を抱える。
「にしても、恋って面倒なものですね。一文にもならないどころか、稼ぎの邪魔になる」
「おてる、おめ、世知がれえな」
「おくにさんだって、せっかくの腕が折々に鈍っちまうでしょ? もったいなく思えて」
「だども恋ってのはな、雷さまみてえに、いきなり天から降ってくるもんだからな。避けようがねえときくぞ」
「雷に当たったら、死んじまうでしょ」
「綾がねえな、おてるは」
 はああ、と大きなため息をつかれたが、何となく釈然としない。
 その日の修業を終えて家に帰ると、さっそく母のに話を披露した。母にだけは、何でも打ち明ける。
「……というわけなんだ。恋なんて、何のためにあるんだろうね、おっかさん」
「おてるには、まだちっと早いかもしれないね」
 ふふ、と笑って、娘の頭に手を置く。母の目尻にできる笑いじわが、てるは大好きだ。母の微笑は、何よりもてるに安堵をもたらす。
「おとっつぁんとおっかさんも、惚れ合って一緒になったんだよね?」
「そうだよ。夕立に見舞われてね、慌てて軒に駆け込んだら先客がいて。それがおとっつぁんだった」
 両親のなれそめは、てるも知っている。それでも、母が幸せそうな顔をするものだから、ついつい話をせがむ。
「そういうのを、一目惚れっていうんでしょ?」
「どうかねえ……雨がなかなかやまなくて、色々と話をしてね。感じのいい人だなとは、思ったがね」
 雨は父と母を引き合わせたが、父の命を奪ったのも、やはり雨だった。父は橋作りに携わる人足だったが、作業の最中、突然の大水で流された。川の上流で大雨が降り、急に水嵩が増して吞み込まれたのだ。てるが三つのときだから、そのときのことは覚えていない。
 てるがいちばん怖い思いをしたのは、母が倒れたときだった。
 九歳になった正月、仕事から帰るなり、ただいまも言わず土間で倒れ、どんなに呼んでも目を開けなかった。あのときの恐ろしさは、からだにしみついている。思い出すだけで、いまでも震えがくる。
 大家さんやご近所が駆けつけて、ひとまず事なきを得たが、以来母は寝床から起き上がることさえできなくなった。めまいと吐き気がひどく、ろくにものも食べられない。ほんのひと月ほどで、みるみる瘦せていった。
「おそらく、働き過ぎだろうね。この三年というもの、朝から晩まで働き詰めだったからね」
 てるは六歳から手習いに通うようになり、ご近所の手を借りながら、留守番もひとりでできるようになった。母は朝から門前町の土産物屋で売り子をし、昼にいったん帰ってきて、娘と一緒にひるをとる。そして午後から晩までは、料理屋で下働きをした。
 三年のあいだ、そんな暮らしを続けて、相当に無理をしたのだろう。てるは母の快癒を祈願しに、毎日のようにおうごんげんに通い、そして、参詣案内をしていた仲間に会った。
 母の病は一進一退、二年のあいだは寝たり起きたりの暮らしぶりで、内職すら長くは続かない。それでも今年に入ってからは、ゆっくりとながら着実に回復し、それが何よりも嬉しかった。
「てるが職人になるなんて、思ってもみなかった。苦労ばかりかけちまったけど、望む道を見つけたなら、母さんも嬉しいよ。おかげでこのところ、あたしまで力がついてきてね」
 母がそう語るのだから、そのとおりに違いない。ただ、てるとしては手放しで喜べない。去年と違うことがもうひとつ、母の身に起きたからだ。

▶#10-2へつづく


MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2022年9月号

8月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2022年10月号

9月6日 発売

怪と幽

最新号
Vol.011

8月31日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP