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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.32

上首尾に終わった商談の報告に、徳兵衛は秋治を訪ねようとするが――。――西條奈加「隠居おてだま」#8-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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 冬の日がだいぶ傾いてきた頃、主従は巣鴨町に着いた。しまの看板が見えてくると、徳兵衛が思いついたようにたずねる。
「そういえば、おわさへの土産はどうした? まだ買うておらぬではないか」
 嶋屋の先を曲がれば、後は巣鴨村の田舎道であり、ほどなく隠居家に帰りつく。土産を買うならいまのうちだと促したが、善三にはちゃんと目当てがあった。
「これからいたばし宿しゆくまで、ひとっ走りしてきやす。この前、板橋で買った栗まんじゆうを、おっかさんがえらく気に入って。そいつを買いに行きまさ」
 嶋屋から板橋宿まで、半里余といったところか。善三の足なら、往復しても半時はかかるまい。ふむ、と顎をなで、思いつきを口にした。
「板橋には、わしも行こう」
「え、ご隠居さまも、栗饅頭を?」
「饅頭ではないわ。かざりの、秋治を訪ねようと思うてな。せっかくの嬉しい知らせだ。一刻も早く伝えてやりたくてな」
 善三の顔がこわばって、急に歯切れが悪くなる。
「いや、ご隠居さま、それはどうかと……一昨日、訪ねたばかりでやすし」
 善三を連れて、秋治の家に赴いたのは二日前だ。榎吉の組紐が仕上がった、翌日のことだ。秋治を呼びつけることをせず、わざわざ板橋に出掛けたのは、職人の仕事場や仕事ぶりを、見ておきたいとの存念からだ。
 紐の見事な出来栄えに、秋治はため息をつき、五十六屋に頼んでよかったと、心からの満足を伝えた。この帯留なら、高値も見込める。卸先と売先は任せてくれぬかとの、徳兵衛の申し出にも快くうなずいて、お願いしますと細工を託した。
 柏屋が高く引きとると承知して、十両の売値もほのめかした。銀細工の卸相場はまだまだ不勉強だが、紐の材と手間賃を引いても、三両から五両は錺師の懐に入ろう。
 あの若い飾師が、どんな顔をするか。喜ぶさまが見たかった。
 常に主人に素直な下男が、どういうわけかしきりに止め立てする。
「もう日も暮れてきやしたし、遅い刻限に訪ねるのもどうかと。帰りはきっと真っ暗になりやすよ」
「向こうでちようちんを借りればよかろう。何よりおまえがおれば、夜道でも難はない」
「夜風はおからだに障りやすし、ほら、日が落ちると急に冷えてきて……」
「わしを連れていくのが、そんなにおつくうか。たしかにおまえにとっては、足手まといになろうがな」
「決してそんなつもりは……困ったなあ」
 機嫌を損じた徳兵衛に、もとより正直者の善三は途方に暮れる。
 善三が秋治のもとを訪ねたのは、あれが初めてではない。しめて五、六度にはなろうか。こうやいくつもの風呂敷包みを、嶋屋から板橋の長屋まで運んだ。
 中身はおらくの着物や、身のまわりの品々である。
 秋治が試しの細工を仕上げるまでは、お楽も大人しくしていた。悪阻つわりがひどかったためにやつれており、そんな姿を見せるのも躊躇ためらわれたのだろう。
 しかし悪阻が治まった頃、秋治は帯留を仕上げた。細工の見事さに心を打たれ、丁寧な仕事は、自身への思いの強さのようにお楽には思われた。それが引き金になった。
 明日にでも義姉と一緒に錺師を訪ね、帯留を注文する──。徳兵衛にはそう伝えたが、隠居家からの帰り道、お楽は矢も楯もたまらずその足で板橋へ向かい、以来、ほとんど職人の許に居続けているありさまだ。
 野放図が過ぎると、兄のきちは妹を連れ帰る算段をしたが、母のお登勢の忠告で、好きにさせることにした。
「そろそろお腹も大きくなりますし、嶋屋に置いてはかえって目に立ちます。板橋の長屋の方が、人目に立つ心配もさほどしなくてすみますよ」
 母の助言のおかげで、お楽は心置きなく秋治との暮らしを楽しんでいるのだが、周りはなかなかに気を遣う。ことにおわさと善三親子には、実に重大な役目が課せられた。
「いいですか、ご隠居さまが板橋へ赴く折は、必ず前もってお楽に知らせるのですよ。鉢合わせでもしたら、これまでの苦労が水の泡ですからね」
「任せてくださいまし、お登勢さま。ご隠居さまのことなら何ひとつ見逃しません。もしものときは、必ず息子を走らせます」
 事実、善三は、一昨日も一回多く、板橋宿まで往復していた。朝のうちに錺師の許に、徳兵衛の来訪を知らせ、さらにはお楽の大量の荷を、秋治と一緒に押入に押し込んで、お楽の身はひとまず旅籠はたごに預け、また隠居家まで駆け戻った。
「なかなかに大変だったが、お嬢さんを隠しおおせて何よりだ」
「よくやったね、善三。もしも本当を知ったら、ご隠居さまはその場で倒れちまうかもしれないからね」
 母のおわさは、息子の働きぶりに満足したが、善三には小さな引っかかりが残った。
「ひとりだけ蚊帳の外なんて、何やらご隠居さまが気の毒に思えるな」
「すべてはご隠居さまのご気性が招いたこと、いわば身から出た錆ですよ」
 と、母の口ぶりはにべもない。懐に仕舞った一朱銀が、妙に重くなったようにも感じて、善三は往生した。うっかり真実を打ち明けそうになったが、すんでのところで福の神が現れた。
「あ、おじいさまあ! お帰りなさあい!」
 道の向こうから、が手をふりながら駆けてくる。その向こうに、お登勢の姿も見える。まめじゆくの手習いを終えて、今日はふたり一緒に嶋屋に戻ってきたようだ。
「あのね、おじいさま、今日はすごいことがあったんだよ。犬のシロがね、友達を連れてきたんだ。茶色い犬でね、尻尾が丸まってるんだよ」
「何だと! それはきき捨てならんぞ。まさか餌を与えたわけじゃあるまいな」
「もちろんあげたよ。だってシロの友達だもの、おもてなししてあげないと」
「何ということを……居着いてしまったら、どうしてくれる」
「心配要らないよ、ちゃんと家があるもの。巣鴨村のもっと奥まったところにある、おばあさんの飼い犬なんだ」
 徳兵衛が千代太と話し込んでいる間に、善三は小声で仔細をお登勢に伝えた。
「わかりました、こちらで何とかお引き止めしましょう」
 即座にうなずかれ、肩の荷を下ろしたように、善三が安堵する。
「千代太、今日覚えたくだりを、おじいさまにご披露なさい。千代太はこのところ、しようばいおうらいを読み込んでおりましてね。なかなかに覚えも良いのですよ」
「ほう、商売往来を」
「千代太屋の商いに役立ちそうなことが、色々書いてあるんだよ。おじいさまにも、きいていただきたいな」
「そういうことなら、板橋は明日にするか」
 孫の誘いには抗えず、千代太に手を引かれて嶋屋へ向かう。
「善三も、ご苦労でしたね。いただき物の栗饅頭がありますから、一服しておいきなさい」
 へい、と返事して、お登勢に従った。前を行く徳兵衛は、孫と楽しそうに語らっている。二日前に感じた引っかかりが、また頭をもたげる。
「すいやせん、ご隠居さま。もうしばらく、見逃してくだせえ」
 善三は呟いて、徳兵衛の背中に、詫びるように手を合わせた。

▶#9-1へつづく


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