徳兵衛のもとに、お楽の相手・秋治が挨拶に訪れる。――西條奈加「隠居おてだま」#7-1
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
前回までのあらすじ
徳兵衛の末娘・お楽が、秋治という職人の子を身籠もったとわかり、嶋屋の面々は大慌て。徳兵衛には到底許してもらえまいと、「代わりの縁談」を用意することにした。家格も申し分なく、お腹の子も一緒に引き受けてくれるという打ってつけの相手を見繕ったものの、これでお楽は幸せになれるのか、次兄の政二郎は案じていた。本当は秋治と一緒になりたいというお楽の気持ちを確かめた政二郎は、秋治の作った帯留かざりを手に思案する――。
三 商売気質
「おじいさま、会ってほしい人がいるの」
「まさか、またどこぞで誰かを、拾うてきたわけではあるまいな?」
「拾ったんじゃなく、出会ったんだよ。二十日くらい前だったかな、
思わず額に手を当てて、天井を仰いだ。困っている者を見過ごせないのは、孫の性分だ。
他人への優しさは長所のはずだが、相手の困り事をそのまま引き受けようとするのは、徳兵衛に言わせれば悪癖だ。小さなその身では
「そうほいほいと、厄介事を拾うでない。これ以上はご免だと、口を酸っぱくして言うたであろうが」
「厄介事じゃなく、新しい商いの話だよ」
「なに? 商いだと?」
徳兵衛の目が、ちかりと
「よもや、押し売りのたぐいではなかろうな? よけいな物は、一切買わんぞ」
「売りたいんじゃなく、買いたいんだって」
「買うとは、何を?」
「
「角切紐のことか? あれはあいにく、
「そうじゃなくて……うーんと、何て言ったっけ」
九歳の子供には、説明し難いようだ。
「わかったわかった。会うだけ会うてやるから、ここへ通しなさい」
「わ、ほんと? ありがとう、おじいさま!」
いかにも嬉しそうに笑み崩れ、釣られて苦笑が漏れる。我ながら孫に甘いと自嘲がわいた。千代太は廊下から戸口に戻り、ひとりの若い男を伴ってきた。
整った顔立ちだが、ひどく緊張しているのか面相が硬い。
「お初にお目にかかります。本日はふいの
職人に多い伝法な口調ではなく、言葉遣いは行き届いていた。やすではなく、ますと述べる。まずそこに、好感をもった。挨拶を
むろん、これが次男と妻の入れ知恵だとは、徳兵衛は知る由もない。
「挨拶は、長ければ長いほどいい。向こうがさえぎるくらいでちょうどいい」
「口ぶりだけは、くれぐれもていねいに。できれば商人風の物言いを心掛ければ、なおよろしいですね」
助言の甲斐あって、徳兵衛は挨拶を
「まずはこちらを、ご吟味ください」
三つの小さな
ほお、と予期せず声がもれる。
亀に花、千鳥に
「しかし、これは何だ?」
「
細工は縦にふたつに割れて、両脇の手に紐を通して帯を締める。職人に説かれて、徳兵衛も細工を手にとった。銀細工なぞとんと縁がないが、拵えが巧みで、きれいな仕上がりであることは、徳兵衛にもわかる。
「細工は、おまえさんが?」
「さようです。この帯留のための組紐を、五十六屋さんにお願いしたいと、本日は参上しました」
なるほど、とひとまずは吞み込めたものの、疑問は残る。
「何故、わざわざ
「あっしの手彫りですから、この世にひとつっきりの錺です。意匠に合わせて、紐もそれぞれあつらえたく。錺が引き立つよう模様は抑えて、代わりに色は鮮やかに仕立てたい」
耳を傾けながらも、徳兵衛は相手を、品以上にじっくりと吟味した。
いい目をしている。真っ直ぐで熱心で、不器用なほどに混じり気がない。着物は質素ながら、
商売とは、所詮は人だ。どんなに旨味のある話であろうとも、相手が信用できなければ取引はできない。ことに徳兵衛は、相手の見極めこそが商いの要だと、肝に銘じていた。
「
主人の
ただし嶋屋の者たちが、微に入り細を
「うわあ、お
「ええ、少々行き違いがあったのですが、そのように収まりましてね」
「嬉しいなあ。前に会ったときにね、千代太も思ったんだ。お楽おばさんと、お似合いなのにって」
大喜びではしゃぐ孫に、お
「あとはご隠居さまが許してくだされば、ですけどね。そのために、千代太にも一役買ってほしいのです」
「はい、おばあさま!」
何事にも周到なお登勢と、策に
徳兵衛は短気なだけに、気分にむらがある。主人の機嫌をとっくりと見定めて、おわさは今朝、嶋屋に息子を走らせた。
「昨晩はめずらしく、
母親に似ず無口な息子は、わかったと承知して、すぐに
「
さりげなく、誘い文句をかけておいた。むろん、環屋の主人は何も知らない。言葉どおりに受けとめて、十月が十日ばかり過ぎた昨日、
まるで丹念に張られた
帯留細工を手に、身を乗り出して秋治に説く。
「手の寸法からすると、通るのは細身の平紐となる。丸台なら平源氏組がよかろうが、高台なら、より肉の薄い組も叶う。来春には高台を入れるつもりでな、職人もいるから、試しに何本か作らせてもよいが」
「本当ですかい? そいつはかっちけねえ……いえ、たいそう有難いお話です。試しとはいえ、ご造作をかけますから、もちろん代金はきっちりお払いします。ちなみに紐のお代としては……このくらいの値で見当してまして」
懐から小さな
「細い平紐なら、糸代はさほどかからない。もう少し、安く済みそうに思うが」
畳に置かれた算盤に手を伸ばし、珠を置き換えた。
少しびっくりした顔で、職人が徳兵衛を見詰める。その輪郭がゆっくりと解け、いかにも嬉しそうな笑顔になる。
「ご隠居さまは、正直なお方ですね。黙ってこの値を受ければ
「利や儲けにばかり走っても、長続きはせぬわ。互いに相談を重ね、見極めて得心した
偉そうに講釈したが、実を言えば物の値段というものは、決して一律ではない。
ただ、この職人とは、
「お心遣い、痛み入ります。ですが、元値のままで構いません。糸をうんと
手仕事故、そう多くは作れない。この三つを仕上げるのに、二十日近くかかったと職人が説く。数が限られる代わりに、細工も紐も凝った拵えにして
「ということは、客は物持ちの
「いえ、これからでさ。まずは帯留として、立派な品に仕立てねばなりませんから」
ふと、
ひとまず三つの細工に合わせて、試しの紐を三本作ることで話がついた。用意のいいことに、職人は前金を置いていくという。固辞しようとしたが、相手の方が譲らなかった。
「ご隠居さまにとって、あっしはまだ、どこの馬の骨ともわからない職人に過ぎません。せめてもの身の証しとして、収めてくださいまし」
「この金が、身の証しか……」
職人らしくないが、文句は気に入った。律義者であることも伝わってくる。
「これから長のおつき合いを、どうぞよろしくお願いいたします」
「いや、こちらこそよしなに」
職人の挨拶に、二重の意味が含まれていたとは、徳兵衛は夢にも思わなかった。
▶#7-2へつづく