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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.24

このまま嫁いで後悔しないのか、お楽の本当の気持ちは。 西條奈加「隠居おてだま」#6-4

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

「お楽、おまえ、商いを興してみないか?」
 頭で考えるより先に、口をいていた。だが、言葉にすると、それしかないと思えてくる。お楽はげんな視線を、兄に向けた。
「兄さん、冗談のつもり? お金の話なら、あたしはもっぱら使うことしかできないわ」
「だが、秋治と一緒ならどうだ?」
 語るごとに、策が立ち上がってくるようで、弾みがついた。
「商い物は、帯留だ。おまえが欲しいと思う帯留を、秋治が作るんだ。おまえなら、小間物屋にも顔が利く。置いてくれそうな店を見繕って、主人に掛け合うんだ」
「無理よ。値の取り決めすら、あたしにはできないわ」
「値のつけ所や、相談の段取りなぞは、私や喜介が当座のあいだ助けてやる。だが、あくまでもこの商いは、秋治とおまえのものだ」
 秋治の細工の腕は、申し分ない。年季を終えた職人なら、材の仕入れや勘定についても、備わっているはずだ。そしてお楽には、店とのと、何よりも長年の洒落でつちかった感性がある。
 新規の商いには、見極めが不可欠だ。世間の流行は、時代によって築かれる大きな川に等しい。ただ流されていては、おぼれるのが関の山。川の流れと行先を見定めて、途中に支流を引いたり、橋を架けたり、あるいはまったく別の場所に、水源を掘り出すところから始める者もいる。
 たとえれば帯留商いは、河原で拾った小石を、みがき上げるようなものか。
 つまらぬものだと、世人が見向きもしなかった石ころを、お楽は拾い上げた。貴石にするには、秋治の技と、そしてお楽の感性が要る。女が何に惹かれ、目移りするか、お楽は熟知し、その先頭を走ろうとする。
「むろん、どんな商いにも言えることだが、最初の辛抱はついてまわる。そればかりは覚悟がいるぞ。二年や三年はあたりまえ、五年、十年を経ても、実を結ばぬことすらある」
 この妹に辛抱を説くなぞ、犬に論語、牛に経文だ。それを承知で食い下がった。
「それでもな、うまくいかないときこそ、商売は楽しい。客の声をきき、考えをめぐらせ、悩みながら工夫を重ねる。私にとっては、それが商いの醍醐味なんだ」
「だったら、いっそ兄さんが始めてはどう? その方が、よほど上手くいくわ」
「いや、正直、やりたくてむずむずするがね。今度ばかりは、おまえに譲るよ。いわば私からの祝儀だ」
 お楽は未だ、本気にできぬぜいだ。ほこさきを転じて、つついてみた。
「両替商との縁談が、進んでいるそうだが……おまえはすでに、悔いているのじゃないか?」
 表情がにわかにこわばり、きゅっと拳をにぎる。
「そんなこと……申し分のない縁談だもの……」
「申し分がないからこそ、困っているのだろう? 戻りたくて仕方がないのに、さんのにまで話はおよんでいる。いまさら引き返したいとは言い出せず、しん退だい窮まっている」
 お楽は目を閉じて、唇をむ。どうやら的をたようだ。
「ちゃんと目を開けるんだ、お楽。おまえを引き戻そうとしているのは、何だ? それこそが、おまえの本音じゃないのか?」
 形を確かめようとするように、お楽はしばしのあいだ、ぞうのように動かなかった。やがて唇のあいだから、かすかな声が漏れた。
「……と一緒に、この子を……」
「きこえないよ」
 意地悪く促すと、もちまえの気強さが表に立ち、きっと顔を上げた。
「あたしは、秋治さんと一緒になって、ややを産みたい! 秋治さんと一緒に、この子を育てたい! だってこの子は、秋治さんの子だもの。きっとあの人も、喜んでくれたのに……」
 声が途切れ、ぼろぼろと大粒の涙をこぼす。
「なのにあたしは、そのさいさきを己でんでしまった……しがない職人と所帯をもつことが怖くて、着道楽をやめねばならないのがみじめで……でも、でも、いざ縁談が進むとつらくて……秋治さんが恋しくてならなくて!」
 畳に突っ伏して、盛大に泣き声をあげる。まるで子供の頃に、戻ったようだ。好きな着物やくしを、父に阻まれるたびに、こんなふうに大泣きしていた。
「大きな声ね。家中に筒抜けですよ」
「お母さん……」
 廊下に、お登勢が立っていた。座敷に上がり、次男の横に腰を下ろす。
「縁談は、御破算にするしかないようですね」
「いまから、間に合いますか? 義姉さんの実家にも、厄介をかけますし」
「久賀屋さんには、申し訳が立ちませんね。よくよくお詫びするよりほかに、ないでしょう」
「詫びを入れるのは主人の務めですから、兄さんには気の毒ですね」
 と、政二郎が苦笑する。お登勢は泣きじゃくる娘をながめて、ふっと微笑んだ。
「それでも、娘の幸せには代えられませんからね」
 縁先の黄色い花が、泣き声に驚いたように、大きく揺れた。

▶#7-1へつづく


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