嶋屋の様子を窺う若い男を見かけた千代太は……。 西條奈加「隠居おてだま」#6-1
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
前回のあらすじ
嶋屋の隠居・徳兵衛の娘に縁談話が持ち上がった。名前の通りお気楽で奔放な末娘・お楽は、次々に新しい男と浮名を流し、近頃は家にも滅多に帰ってこない。このありさまを徳兵衛に知られては大変と、慌てて当主の吉郎兵衛が連れ戻してみると、職人の子を身籠もったので一緒になると言い出した。結婚相手が若い職人では着道楽も通せないというお内儀の説得で、お楽は家格に見合う「新たな縁談」を受けることになったのだが――。
「おい、
「道の右手、細い路地のあいだに男がいたんだ。あいつ、
そろりと肩越しにふり返る。嶋屋は道の左手にあるから、お向かいの側だ。向かいの店と、そのとなりの店のあいだに、路地というより細い隙間がある。男はそこにからだを押し込めるようにして、窮屈そうに
「うちに何か、用事かな?」
「おまえは頭がいいくせに、変に抜けてるな。真っ当な用件なら、正面から訪ねるだろ。後ろめたいことがあるからこそ、こそこそ隠れて
「後ろめたいことって? あの人に確かめてみようか」
「待て待て、
「勘ちゃん……もう、遅いみたい。ひと足先に、なっちゃんが」
「何だと! おい、なつ、そいつに近づくな!」
勘七が、妹に向かって猛然と走り出す。千代太も慌てて追ったが、怖いもの知らずのなつは、男を見上げて声をかける。
「おじちゃん、こんなところに
「……え? ええと……」
「もしかして、挟まって出られないの? 引っ張ってあげようか。なつもね、前にかくれんぼしたとき、
「なつ! そいつから離れろ! この野郎、妹に悪さをしたら承知しねえぞ!」
「いや、おれは何も……」
「嶋屋をこそこそ嗅ぎまわってたのは先刻承知だ。このまま番屋にしょっ引いてやる!」
「勘弁してくれ! おれはただ、お
「お楽おばさんに、会いにきたの?」
千代太の顔を見て、男ははっと目を見張る。窮屈な隙間からからだを出して、改めて千代太にたずねた。
「坊は、お楽さんの
「はい、千代太です」
「
「まあまあ、勘ちゃん。見たところ、悪い人じゃなさそうだし」
「おまえの目は節穴か! こんなところに立ちん坊して、嶋屋を
勘七が
「おめえらの言うとおりだ。何とも、みっともねえ真似をした。このとおり詫びるから、
三人の子供の前で、
「すぐに去るから、ひとつだけ教えてくれ。お楽さんは、その……達者にしているか?」
実直そうな眼差しを、千代太に向ける。つい正直にこたえていた。
「あんまり……。お楽おばさんは、このところ加減がすぐれなくて。時々、床に就いてることもあって……」
「え! 本当か? 病なのか? ひどく悪いのか?」
たちまち青ざめて、千代太に具合をただす。大丈夫、すぐに良くなると、祖母からきいた
「たぶん、心配要らないよ。だってお楽おばさんは、もうすぐお嫁に行くんだよ」
瞬間、時が止まってしまったように、男の顔が固まった。瞬きもせず、口をぽっかり開けている。
「おい、大丈夫か? 息してるか?」
男が大きく息を吐く。からだ中の息を出し尽くしたように、ひとまわり
「そうか、嫁に行くのか……なるほどな、ようやく
とても悲しそうな笑みを浮かべた。千代太は見ていて、ちょっと切なくなった。
「おれにも読めたぞ。お楽さんにふられて、なのに諦めきれなくて、つきまとっていたわけか」
「勘ちゃん、その言い方は……」
「いや、そいつの言うとおりだ。ふいに別れるとの文が届いて、それっきり。どうにも
「おじちゃん、泣いてるの?」
涙がこぼれているわけではないが、なつにはそう見えたのだろう。
「泣いてねえよ。嶋屋のお嬢さんと、しがない職人だ。釣り合いが取れねえことは、もとより承知していた。縁付くお相手は、さぞかし立派な方なんだろうな」
「たぶん……申し分のない家だと、坊の母さまが大喜びしていたから」
「そうか、そいつは何よりだ。お楽さんが幸せなら、それでいい」
大人は時々、子供以上にわかりやすい噓をつく。
「おじさんが来てること、お楽おばさんに伝えましょうか?」
千代太が行儀よくたずねると、男は目許だけで笑い、ゆるりと首を横にふった。
「ありがとう、坊ちゃん。だが、これ以上、
そのまま行こうとしたが、男はふと足を止めた。
「坊ちゃん、これを、お楽さんに渡してくれねえか。ささやかだが、おれからの
頼んだぜ、と告げて、男は
「いまのおじちゃん、男前だったねえ。お楽おばちゃんは、どうしてふっちゃったの?」
「男はな、顔より財ってことだよ。何にせよ、案外あっさりと諦めてくれてよかったな」
「よかったのかなあ……」
千代太は布包みを手に載せて、だいぶ小さくなった背中を見詰めた。
「おれたちも帰るよ。じゃあな、また明日」
「うん、色々ありがとう、勘ちゃん。あ、そうだ! 肝心なことを忘れてた。お楽おばさんの縁談ね、本決まりになるまで内緒なんだ……ことにおじいさまには」
「お、そうか。わかった、じさまにも外にも漏らさねえよ」
▶#6-2へつづく