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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.19

お内儀・お園の歯に衣着せぬ物言いが、お楽の心を揺さぶる。 西條奈加「隠居おてだま」#5-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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「あら、まあまあ、そんなことに。お楽ちゃんも、大変だったわね」
 驚きはしたものの、さほど慌てたようすはない。これぞ育ちの良さのたまものと言えよう。大事においても、大げさに感情を表さず、やみにバタバタすることもない。
 まるで真綿にくるまれてでもいるように、押しても突いても手応えは頼りない。他人の気持ちに鈍重ともとれるし、相手によっては物寂しくも感じよう。
 しかし非難がましい目を向けず、いつもと変わらぬ義姉のたたずまいは、いまのお楽にはことさら有難かったに違いない。思惑どおりの運びに、お登勢はほっと息をついた。
 気の強い娘だけに顔には出さないが、ふいの懐妊に、誰よりも心細い思いをしているのは、当人のお楽である。しかし主人の吉郎兵衛は、真っ向から反対する立場にあり、喜介は奉公人だけに助けも限られている。最大の難敵たる父親に立ち向かう前に、ひとりでも味方を増やして楽にしてやりたい。お登勢の母心であった。
「それで、おかあさま、産婆のお診立ては?」
「ええ……ふた月半になるそうです」
 予想と現実のあいだには、案外高い壁がある。産婆から言い渡されたときは、お楽もしばし呆然としていた。しかしお園はやはり、淡々と返す。
「さようですか。お楽ちゃんは、どうなさるつもりなの?」
「もちろん……あきさんと一緒になって、この子を産むわ!」
 気合を入れてお楽は宣したが、お登勢は案じ顔で娘をながめる。
 相手の秋治に、難があるわけではない。数ある娘の相手としては、と言えるだろう。
 独り立ちして二年ほどの若いかざりで、性質も仕事ぶりも真面目な男だ。ばくや色街通いなどの悪癖もなく、酒はほどほど。人物だけ見れば、徳兵衛の眼鏡にもかなおう。
「欠点? そうねえ、冗談がいまひとつつまらないことかしら。根が律義だから、しやのたぐいが下手なのよ」
 お楽からはかねて、人となりをきいている。決して贔屓ひいき目ばかりではなく、使いや迎えのために、秋治の家を何度か訪ねたことのある喜介も、同じように言っていた。
 しかし気掛かりは、やはりお楽である。
「お楽ちゃんが覚悟を決めたなら、何も心配はいらないわね。どうぞお幸せに!」
 あっさりと告げられて、拍子抜けしたのだろう。お楽の顔に、げんが生ずる。
「おさん、それだけ?」
「そうよ、多少の後先があっても、おめでたいことがふたつ続くのだもの。おとうさまはお怒りになるでしょうけど……」
「それが何よりの面倒なのよ」
「でも、家を出てしまえば、お小言も届かないでしょ。生まれた孫と会いに行けば、許してくださるかもしれないわ。ああ見えて、案外子供好きなところもおありだし」
 次々と外堀を埋められて、かえってお楽の表情が、不安そうに陰り出す。
「お父さんが許すって……どういうことかしら?」
「もちろん、錺師の女房になることを認めてくださることよ。嶋屋から、出した上でね」
 どうぞ出ていってくださいと手振りで伝えるように、お園がしゃなりと袖をふる。
 お楽の視線を釘付けにしたのは、義姉の態度ではなくまとう着物である。
「お義姉さん、その着物、初めて見るわ」
「ええ、この前作らせたあわせなの。袷を着られるのはわずかだから、いまのうちにと思って。どうかしら?」
 お楽の表情に、くっきりと羨望が表れる。秋草を散らした渋いうすねず色の表地から、柿色の鮮やかな裏地が覗く。裏地のないひとに対し、裏地をつけた着物が袷である。
 武家の登城には、年に四回、衣替えの日が定められている。
 夏は単衣で、冬から春にかけては綿入れ。そして初夏のひと月と、秋のごく短いあいだだけは、袷の着用が求められた。昨今はこのしきたりが庶民にも広まって、とはいえ裏長屋住まいなら、必ずしもならうわけではない。
 しかしお楽やお園のような、着道楽となれば話は別だ。衣替えはすなわち、衣装のあでを競う場でもあり、ことに着る間が短い袷に装いを凝らすのは、醍醐味とも言える。
 秋の袷の時期は、九月一日から九月八日までの、たった八日間だけ。この短いあいだに、趣向を凝らした装いを披露できるのは、物持ちの家に生まれた特権であり、この義理の姉妹にとっては、何よりも心浮き立つ行事でもあった。
「でも残念ね。ご亭主が若い職人となれば、実入りは限られているのでしょ? 着飾るのも、難しくなるわね」
 先刻までの覚悟はどこへやら。お楽はさも不服そうに、眉間をきゅっと寄せた。
 お園を巻き込んだ、もうひとつの思惑も、首尾よくいきそうだ。当人は知ってか知らずか、お楽をうまく焚きつけている。
 お楽の衣装道楽は、筋金入りだ。しまり屋の徳兵衛にしてみれば、無駄遣いとしか思えぬだろうが、装いとは自己の表現でもある。
 たとえばお園とお楽にも、好みの違いがある。見る目のない者には、ともに派手好きとしか映らないが、お園は既婚でも可愛らしさを損なわず、甘い色をどこかにあしらう。対してお楽は粋を旨として、差し色は赤や黄などはっきりした色を用いる。
 たびたびのしや禁令で、着物や帯の色柄は地味になる一方だが、転んでもただでは起きぬのが庶民のたくましさだ。俗に「じゆうはつちやひやくねずみ」とも称され、茶や鼠色も、微妙なさじ加減で色彩は無限に広がる。組み合わせの妙や、頭からつま先までの気の配りようで、艶にも野暮にもなる。
「そうそう、忘れていたわ。からじよまんじゆうが届いたの。いま評判のお店で、とても美味しいのですって。ご一緒に、いただきましょ」
 女中を呼んで、茶と菓子を頼む。若い女中が去ると、ほう、とお園はため息をついた。
「お楽ちゃんもそのうち、ああいう身なりをするようになるのかしら。何だか切ないわ」
「とんでもない! どうしてあたしが、あんな野暮ったいなりを?」
「だって、所帯をもつって、そういうことでしょ? 夫婦ふたりの暮らしも楽しそうではあるけれど、炊事や掃除、洗濯に至るまで、お楽ちゃんがこなすことになるのでしょ? 赤ん坊を抱えていてはなおさら、身なりなんぞに構っていられないわ」
 お園の言いようは痛烈だ。お登勢が何ら、入れ知恵をしたわけではない。嫁の性分なのだ。相手の事情にとんちやくすることなく、思ったままを口にする。悪気はないのだが、ないだけに辛辣だ。まるできゆうのように、お楽が懇願した。
「お母さん、女中とか子守りとか、つけてくれるわよね?」
「勘当された娘に、つけるいわれはありませんよ」
「だって! とても無理だわ。包丁もほうきも洗濯板も、手にしたことすらないのよ」
「暮らしていく上で、おいおい覚えていくしかないでしょう」
「いいえ、そんなことよりも、このあたしが、粗末な身なりに甘んじるなんて、それこそ許せないわ!」
 お楽とて、子ができたことでどうてんしたのだろう。らしくない言動をくり返していたが、ここにきて、気の強い我儘娘の本性があらわになった。
「単に身を飾るための、道具なぞじゃない。洒落はあたしにとって、これまで生きてきた全てであり、これから生きていくための、なくてはならない甲斐なのよ!」
 着飾るにも、思慮分別が要る。粋と野暮を分けるのは、案外さいなことで、くし一本で台無しになりかねない。お楽もまた、数限りなく失敗を重ねながら、少しずつ身だしなみの妙を覚えていったのだ。良家の娘として、ひととおりの習い事も修めたが、本気でしてきたのは、洒落ることだけだった。
 失えば、お楽自身が崩れて、灰と化すようなものだ。
「長屋の女房でも、洒落を楽しむことはできますよ。もちろん、贅とは無縁になりますが」
「それは薯蕷饅頭を食べなれたあたしに、駄菓子を頰張れということね」
 女中が運んできた饅頭を口に入れ、不機嫌に返す。お腹の子が催促するのか、たちまち三つの饅頭を平らげる。
「お楽、洒落は己自身だと、そう言ったわね?」
 ええ、と娘は即座にうなずく。お登勢の表情は常のとおり、しわ一筋も動かないが、目頭の辺りには、苦しげな影が差していた。
「こんなことを言いたくはないけれど……おまえ自身と赤ん坊、どちらかひとつを諦めなければなりませんよ」

▶#5-4へつづく


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