お内儀・お園の歯に衣着せぬ物言いが、お楽の心を揺さぶる。 西條奈加「隠居おてだま」#5-3
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
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「あら、まあまあ、そんなことに。お楽ちゃんも、大変だったわね」
驚きはしたものの、さほど慌てたようすはない。これぞ育ちの良さの
まるで真綿にくるまれてでもいるように、押しても突いても手応えは頼りない。他人の気持ちに鈍重ともとれるし、相手によっては物寂しくも感じよう。
しかし非難がましい目を向けず、いつもと変わらぬ義姉の
気の強い娘だけに顔には出さないが、ふいの懐妊に、誰よりも心細い思いをしているのは、当人のお楽である。しかし主人の吉郎兵衛は、真っ向から反対する立場にあり、喜介は奉公人だけに助けも限られている。最大の難敵たる父親に立ち向かう前に、ひとりでも味方を増やして楽にしてやりたい。お登勢の母心であった。
「それで、お
「ええ……ふた月半になるそうです」
予想と現実のあいだには、案外高い壁がある。産婆から言い渡されたときは、お楽もしばし呆然としていた。しかしお園はやはり、淡々と返す。
「さようですか。お楽ちゃんは、どうなさるつもりなの?」
「もちろん……
気合を入れてお楽は宣したが、お登勢は案じ顔で娘をながめる。
相手の秋治に、難があるわけではない。数ある娘の相手としては、当たりと言えるだろう。
独り立ちして二年ほどの若い
「欠点? そうねえ、冗談がいまひとつつまらないことかしら。根が律義だから、
お楽からはかねて、人となりをきいている。決して
しかし気掛かりは、やはりお楽である。
「お楽ちゃんが覚悟を決めたなら、何も心配はいらないわね。どうぞお幸せに!」
あっさりと告げられて、拍子抜けしたのだろう。お楽の顔に、
「お
「そうよ、多少の後先があっても、おめでたいことがふたつ続くのだもの。お
「それが何よりの面倒なのよ」
「でも、家を出てしまえば、お小言も届かないでしょ。生まれた孫と会いに行けば、許してくださるかもしれないわ。ああ見えて、案外子供好きなところもおありだし」
次々と外堀を埋められて、かえってお楽の表情が、不安そうに陰り出す。
「お父さんが許すって……どういうことかしら?」
「もちろん、錺師の女房になることを認めてくださることよ。嶋屋から、出した上でね」
どうぞ出ていってくださいと手振りで伝えるように、お園がしゃなりと袖をふる。
お楽の視線を釘付けにしたのは、義姉の態度ではなく
「お義姉さん、その着物、初めて見るわ」
「ええ、この前作らせた
お楽の表情に、くっきりと羨望が表れる。秋草を散らした渋い
武家の登城には、年に四回、衣替えの日が定められている。
夏は単衣で、冬から春にかけては綿入れ。そして初夏のひと月と、秋のごく短いあいだだけは、袷の着用が求められた。昨今はこのしきたりが庶民にも広まって、とはいえ裏長屋住まいなら、必ずしも
しかしお楽やお園のような、着道楽となれば話は別だ。衣替えはすなわち、衣装の
秋の袷の時期は、九月一日から九月八日までの、たった八日間だけ。この短いあいだに、趣向を凝らした装いを披露できるのは、物持ちの家に生まれた特権であり、この義理の姉妹にとっては、何よりも心浮き立つ行事でもあった。
「でも残念ね。ご亭主が若い職人となれば、実入りは限られているのでしょ? 着飾るのも、難しくなるわね」
先刻までの覚悟はどこへやら。お楽はさも不服そうに、眉間をきゅっと寄せた。
お園を巻き込んだ、もうひとつの思惑も、首尾よくいきそうだ。当人は知ってか知らずか、お楽をうまく焚きつけている。
お楽の衣装道楽は、筋金入りだ。しまり屋の徳兵衛にしてみれば、無駄遣いとしか思えぬだろうが、装いとは自己の表現でもある。
たとえばお園とお楽にも、好みの違いがある。見る目のない者には、ともに派手好きとしか映らないが、お園は既婚でも可愛らしさを損なわず、甘い色をどこかにあしらう。対してお楽は粋を旨として、差し色は赤や黄などはっきりした色を用いる。
たびたびの
「そうそう、忘れていたわ。
女中を呼んで、茶と菓子を頼む。若い女中が去ると、ほう、とお園はため息をついた。
「お楽ちゃんもそのうち、ああいう身なりをするようになるのかしら。何だか切ないわ」
「とんでもない! どうしてあたしが、あんな野暮ったい
「だって、所帯をもつって、そういうことでしょ? 夫婦ふたりの暮らしも楽しそうではあるけれど、炊事や掃除、洗濯に至るまで、お楽ちゃんがこなすことになるのでしょ? 赤ん坊を抱えていてはなおさら、身なりなんぞに構っていられないわ」
お園の言いようは痛烈だ。お登勢が何ら、入れ知恵をしたわけではない。嫁の性分なのだ。相手の事情に
「お母さん、女中とか子守りとか、つけてくれるわよね?」
「勘当された娘に、つける
「だって! とても無理だわ。包丁も
「暮らしていく上で、おいおい覚えていくしかないでしょう」
「いいえ、そんなことよりも、このあたしが、粗末な身なりに甘んじるなんて、それこそ許せないわ!」
お楽とて、子ができたことで
「単に身を飾るための、道具なぞじゃない。洒落はあたしにとって、これまで生きてきた全てであり、これから生きていくための、なくてはならない甲斐なのよ!」
着飾るにも、思慮分別が要る。粋と野暮を分けるのは、案外
失えば、お楽自身が崩れて、灰と化すようなものだ。
「長屋の女房でも、洒落を楽しむことはできますよ。もちろん、贅とは無縁になりますが」
「それは薯蕷饅頭を食べなれたあたしに、駄菓子を頰張れということね」
女中が運んできた饅頭を口に入れ、不機嫌に返す。お腹の子が催促するのか、たちまち三つの饅頭を平らげる。
「お楽、洒落は己自身だと、そう言ったわね?」
ええ、と娘は即座にうなずく。お登勢の表情は常のとおり、
「こんなことを言いたくはないけれど……おまえ自身と赤ん坊、どちらかひとつを諦めなければなりませんよ」
▶#5-4へつづく