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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.10

夫の告白を盗み聞いてしまった、おはち。西條奈加「隠居おてだま」#3-2

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

「おはち……きいておったのか」
 畳に突っ伏すようにして激しく泣きじゃくる、おはちの姿があった。その横でお登勢が、なだめるようにその背をでる。
「お登勢、盗み聞きとはいただけないな」と、つい顔がしかまる。
「すみません、本当は、一緒に話をきくために座敷に赴いたのですが……」
 中の話が漏れきこえて、声をかけるのをためらってしまったと言い訳する。
 榎吉の来訪を、女房に知らせたのは女中のおわさであり、おはちはちょうど隠居家を訪れたお登勢に断りを入れて、ともに徳兵衛の居室に来た。
「おい、そう泣くでない。まずは榎吉の話を……」
「きかなくとも、わかります。そのひとのもとへ行くと言うのでしょ? あたしには、止められない。だってあたしも、裏切っていたのは同じだから!」
 え、と榎吉の表情がこわばった。泣き伏す妻の姿を、まじまじと見詰める。
「おまえ、男がいたのか……?」
「いや、榎吉、そうではない。おはちは決して浮気なぞ……」
「ならば、本気でれた男がいたってことですかい? 参ったな……そんなこと、露ほども疑わなかった」
 この手の修羅場や愁嘆場は、もっとも不得手な領分だ。徳兵衛のよけいな一言で、ますます話がややこしくなる。しっかり者の妻ですら、この場は如何いかんともしがたい。おはちが言う裏切りの正体を、何も知らないからだ。
 しかし当のおはちが、ゆっくりと身を起こした。たもとで涙を拭い、夫の方に顔を向ける。
 さっきとは打って変わって落ち着いていたが、その目にあるのは、悲しいまでの諦めだった。
「浮気なら、まだ可愛らしかった。あたしはいっとき、酌婦として色を売っていたの」
「な……!」
「いままで言い出せなくて、ごめんなさい。告げたらきっと、また幸せが壊れてしまう。勘七やなつを、また悲しませてしまう……だから、言えなかった」
 榎吉は、がくぜんとしたまま、何も返せない。まるで空気に鉄が交じっているような、重苦しい沈黙が座敷に立ち込める。
「本当は、少し前から気づいていたんです。雑司ヶ谷に足繁く通うのは、品納めのためだけではないと……もしかしたら、いい人がいるのかもしれないって」
「おはち……」
「どうぞ、心置きなくそのひとのところへ行ってください。それより他に、びる手立てがないから……」
 ふたたび涙があふれ、袂に顔をうずめる。まずいことに、その折に勘七が現れた。
 外から走ってきたようで、息を切らして縁の外から中をのぞき込む。たちまち頰が、怒りで朱に染まった。
「母ちゃんを、泣かせるな!」
「これ、勘七!」
 大人の話に首を突っ込むなとたしなめるつもりが、まるで聞く耳をもたない。かんしやく玉が弾けるように、存分に父に向かって怒りをぶつける。
「母ちゃんはずうっと泣き通しだったんだ! 母ちゃんのせいで、父ちゃんが出ていったって、ずっとずっと泣いてたんだぞ! これ以上泣かせるなら、親父なんていらねえ! どこへでも、行っちまえ!」
 理由は違えど、奇しくも妻と子から、同じ処しようを告げられた。
 何も考えられぬまま、からだが勝手に動いたように、榎吉はふらりと立ち上がった。下手な操り師の人形のように、ぎこちなく頭を下げて座敷を出ていく。
 入れ替わりに、外からひようきちが走ってくる。孫の手が、縁にかかると同時に、ふたたび高い鳥の声に似た、おはちの泣き声が響いた。

「ねえ、おじいさまあ、ねえったら、ねえ」
 あの修羅場から五日が過ぎて、暦は九月に変わった。
 あれ以来、榎吉は妻子のもとには戻らず、おはちは辛うじて組場には通ってくるものの、
「心ここにあらずだで、組んではほどきのくり返しで、ちっとんべえ進まね」
 職人のおうねからは、困り顔で告げられた。仕事の滞りも頭の痛い話だが、それ以上の難題を、毎日、千代太に迫られるのには、ほとほと困り果てた。
「いい加減にせぬか。夫婦のことばかりは、わしにもどうにもできぬと言うたであろうが」
「でもこのままじゃ、勘ちゃんとお父さんは、二度と一緒に住めないんだよ。そんなの嫌だよ」
「父を追い出したのは、当の勘七であろうが」
「本当は勘ちゃんも、悔いているんだよ。だってあれからずっと、機嫌が悪いもの」
 おはちは抜け殻のようなありさまで、なつは父恋しさに駄々をこねる。家の中は散々だと、さすがの勘七もこぼしているという。
「だからといって、どうにもしようがなかろう。ここまでこじれてしまっては、打つ手がないわ」
「おじいさま、坊はね、妙案を思いついたんだ」
 千代太に笑顔を向けられたとたん、ざわりと寒気がした。孫の妙案のおかげで、どれほどの骨折りを強いられたか、思い出すだけで恐ろしい。耳を塞ぎたい衝動を抑えて、精一杯の威厳をもって、妙案とやらをたずねた。
「とっても容易たやすいことだよ。勘ちゃんのお父さんを、雑司ヶ谷まで迎えに行くんだ」
「迎えにというても、誰が?」
「もちろん、おじいさまと千代太だよ」
「どうして、わしとおまえが? 赤の他人であろうが」
「おじいさまは、世話役で相談役だもの。長屋で言えば、大家さんと同じでしょ? 悶着が起きたら、出張っていって事を収めるのが役目だときいたよ」
「ならば、千代太の役目は?」
「おじいさまのつきそいと、勘ちゃんの代わりを務めようと。行先もね、瓢ちゃんにちゃんと確かめてあるんだ。だから、ねえねえ、おじいさま、行ってくれるでしょ?」
 千代太のは、にかわなみにしつっこい。諾と応えるまで、十日でも二十日でもひと月でも、同じが延々と続くのだ。五日目で腰を上げたのは、英断と言えよう。
 その日のひるを終えると、徳兵衛は孫とともに雑司ヶ谷へと向かった。
「本当は、勘七を伴いたいところだが、そればかりはかなわぬな」
 あぜみちを行きながら、ついぼやきがこぼれた。意地っ張りで強情な勘七は、素直な気持ちを口にできない。徳兵衛もまた同じ性分だけに、手にとるようにわかり、よけいに胸が痛んだ。しかし千代太は、にこにこと祖父を仰ぐ。
「大丈夫、お父さんの声は、きっと勘ちゃんにも届くよ」
 徳兵衛にはさっぱりみ込めなかったが、上機嫌な孫とともに田畑の中の道を歩いた。

▶#3-3へつづく


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