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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.9

女のもとに通っていた榎吉を、徳兵衛は問いただす。西條奈加「隠居おてだま」#3-1

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

前回のあらすじ

行方知れずだった父・榎吉が三年ぶりに勘七たち家族のもとに帰ってきた。母と妹も喜んで迎え入れ、めでたしめでたし、のはずだったが、榎吉の様子がどうもおかしい。組紐を納めに行く口実で別の場所に通っているのではないかと疑った勘七がこっそり後を付けると、榎吉が向かった先は幼い女の子と母親が暮らす長屋だった。仲睦まじい三人の姿を見てしまった勘七は動揺する。心配した孫の千代太から相談を受けた徳兵衛は——。

「この、ぶわっかもんが!」
 去年、還暦を迎えたとくにしてみれば、子供もその親も大差はない。かんしちに落とした雷を、父親のえのきちにも容赦なくお見舞いした。
 榎吉は先ほど、ふいに隠居家を訪ねてきた。ひどく深刻な顔で相談事があると告げ、そのくせ座敷に向かい合うと、なかなか切り出そうとしない。
ろく』のくみひも商いはどんなあんばいかとか、自分はいまは羽織紐や巾着紐を組んで、ぞうてらに納めているとか、とうに知った話ばかりをくり返した挙句、短気な隠居に急かされて、ようやく本題に入った。しかし相談のかなめにかかる前に徳兵衛は頭に血が上り、馬鹿者と怒鳴りつける運びとなった。
「妻子と離れていたあいだ、の女とねんごろになり、それを勘七に知られてしまったと。とどのつまりはそういうことか」
 ずけずけとした物言いは徳兵衛の性分だが、色恋が絡むと嫌悪が先立つだけに、舌鋒はいっそう鋭くなる。嫌悪とは苦手の裏返しであり、不得手だからこそやっかみも混じってくる。遠慮会釈なくやり込められて、榎吉は肩をすぼめた。
「まったくもってだらしのない。男のしようなぞとうそぶくやからも多いが、妻子すらまともに養えぬ者が大言を吐くでないわ。言うておくが、養うとは金のことばかりではないのだぞ。どんなお大尽であろうと、妻子の気持ちの安寧も含めて養わねばならんのだ。わしなぞこの歳まで、浮気のうの字もしたためしがなく……」
 しなかったのではなく、できなかったものだから、ついつい恨みがましい調子になる。妻子の気持ちうんぬんに至っては、徳兵衛自身まったくのとんちやくであるのだが、自分のことはひとまず横に置くのが年寄りの厚かましさである。
 長々と説教を垂れてから、肝心要のところを確かめた。
「三つになるというそのおさなは、榎吉、おまえの子か?」
「いや、違いやす! それっぱかりは神仏に誓って。はるの、あの子の父親は……」
「その子の名は、はるというのか。なつとはまるで、姉妹きょうだいのようではないか」
「そいつも、たまたまなんでさ。逆に、はるを見てるとなつを思い出しちまって、ついつい放っておけず、何かと構うように……」
 ちらちらとまたたく木漏れ日のように、ひどく複雑な光と影が、うつむいた顔の上によぎる。この手の込み入った話は、徳兵衛には荷が重い。それでも話だけはきかねばなるまいと、初手から語るよう促した。
と出会ったのは、寺野屋です。おきをは袋物を縫っていて、たまたま品納めの折に鉢合わせしたのが始まりでやした」
 榎吉の組んだ紐を寺野屋から受けとって、おきをは巾着に仕上げていた。その縁で話が弾んだが、榎吉の目を引いたのは、背中に負ぶわれた赤ん坊だった。
「生まれて半年ほどでしたが、女の子ときいて、どうにもなつに重なって……以来、たまに店で顔を合わせやしたが、ただそれだけで」
「仲が深まったのは、いつ頃からだ?」
「翌年、おきをの亭主が病で亡くなったんでさ。つきばかり顔を見ないなと気になっていやしたが、亭主がわずらっていたようで。久方ぶりに顔を合わせたときには、えらくやつれていて驚きやした」
 おきをの亭主はりで菜売りをしていたが、病を得て三月後に他界した。看病疲れと亭主の死で、げっそりとしたおきをを放っておけず、また幼くして父親を失った赤ん坊も気がかりだった。
 最初は親切のつもりで、困ったことがあれば何でも言ってくれと告げて、おきをもやがて榎吉を頼るようになった。男女の仲になったのは、半年ほど前だという。赤ん坊だったはるは、実の父親を覚えていない。榎吉を父のように慕い、数え三つを迎えた。
「そのまま、その親子のもとに留まろうかと、そんな心積もりもあったのではないか?」
「なかったと言えば、うそになりやす。おきをには、別の心安さもありやしたから」
「そのおなは、組紐職人ではないからな」
 図星を突かれて、ひどく情けなさそうに輪郭をゆがめた。
「ご隠居さまは、すべてご承知だと、かずの旦那さんから伺いやした。お察しのとおりでさ。女房の腕がてめえより上だと認めるのがしやくで、おれは逃げ出しやした」
「組紐の腕は、おまえの方がまさっておろう」
「色の合わせや模様の妙では、おはちにかないやせん。それがもう、どうにも収まりがつかなくて」
 同業というのは、厄介なものだ。親子、兄弟、そして夫婦。いずれも親や兄や夫の方が上であればもんちやくも少ないが、立場が逆さになると、とたんにぎすぎすしてくる。中でも夫婦は最たるものだ。男はおしなべて、女房より上に立とうとするからだ。
 同じ仕事で、女房の下に甘んじる。その苛立ちや不甲斐なさがいかに激しいものか、徳兵衛とて理解できる。ほかならぬ女房のおが、皆に頼りにされるしっかり者であるからだ。ふいと浮かんだ焼餅を払うように、ごほん、とひとつせき払いする。
「それで、榎吉、おまえはどうするつもりなのだ? 言うておくが、半端は許さぬぞ。どちらかひとつ、えらばねばならない」
 榎吉の中では、すでに決まっているはずだ。おきをとはるを忘れ難いからこそ、雑司ヶ谷に足が向き、それがこたえではないか。後に残していく勘七となつ、そしておはちを、どうかよろしく頼む。とは、つまりは後顧の憂いを断つためだろうか。
「あっしも、腹を決めやした。いや、とうに決まってた。これからは……」
 と、ふいに、高い鳥の声が、さえぎるように響いた。鳥ではなく、人の泣き声だと悟るのに、しばしかかった。腰を上げ、声が漏れてくるふすまを開けた。

▶#3-2へつづく


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