女のもとに通っていた榎吉を、徳兵衛は問いただす。西條奈加「隠居おてだま」#3-1
西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。
前回のあらすじ
行方知れずだった父・榎吉が三年ぶりに勘七たち家族のもとに帰ってきた。母と妹も喜んで迎え入れ、めでたしめでたし、のはずだったが、榎吉の様子がどうもおかしい。組紐を納めに行く口実で別の場所に通っているのではないかと疑った勘七がこっそり後を付けると、榎吉が向かった先は幼い女の子と母親が暮らす長屋だった。仲睦まじい三人の姿を見てしまった勘七は動揺する。心配した孫の千代太から相談を受けた徳兵衛は——。
「この、ぶわっかもんが!」
去年、還暦を迎えた
榎吉は先ほど、ふいに隠居家を訪ねてきた。ひどく深刻な顔で相談事があると告げ、そのくせ座敷に向かい合うと、なかなか切り出そうとしない。
『
「妻子と離れていたあいだ、
ずけずけとした物言いは徳兵衛の性分だが、色恋が絡むと嫌悪が先立つだけに、舌鋒はいっそう鋭くなる。嫌悪とは苦手の裏返しであり、不得手だからこそやっかみも混じってくる。遠慮会釈なくやり込められて、榎吉は肩をすぼめた。
「まったくもってだらしのない。男の
しなかったのではなく、できなかったものだから、ついつい恨みがましい調子になる。妻子の気持ち
長々と説教を垂れてから、肝心要のところを確かめた。
「三つになるというその
「いや、違いやす! それっぱかりは神仏に誓って。はるの、あの子の父親は……」
「その子の名は、はるというのか。なつとはまるで、
「そいつも、たまたまなんでさ。逆に、はるを見てるとなつを思い出しちまって、ついつい放っておけず、何かと構うように……」
ちらちらとまたたく木漏れ日のように、ひどく複雑な光と影が、うつむいた顔の上によぎる。この手の込み入った話は、徳兵衛には荷が重い。それでも話だけはきかねばなるまいと、初手から語るよう促した。
「おきをと出会ったのは、寺野屋です。おきをは袋物を縫っていて、たまたま品納めの折に鉢合わせしたのが始まりでやした」
榎吉の組んだ紐を寺野屋から受けとって、おきをは巾着に仕上げていた。その縁で話が弾んだが、榎吉の目を引いたのは、背中に負ぶわれた赤ん坊だった。
「生まれて半年ほどでしたが、女の子ときいて、どうにもなつに重なって……以来、たまに店で顔を合わせやしたが、ただそれだけで」
「仲が深まったのは、いつ頃からだ?」
「翌年、おきをの亭主が病で亡くなったんでさ。
おきをの亭主は
最初は親切のつもりで、困ったことがあれば何でも言ってくれと告げて、おきをもやがて榎吉を頼るようになった。男女の仲になったのは、半年ほど前だという。赤ん坊だったはるは、実の父親を覚えていない。榎吉を父のように慕い、数え三つを迎えた。
「そのまま、その親子のもとに留まろうかと、そんな心積もりもあったのではないか?」
「なかったと言えば、
「その
図星を突かれて、ひどく情けなさそうに輪郭をゆがめた。
「ご隠居さまは、すべてご承知だと、
「組紐の腕は、おまえの方が
「色の合わせや模様の妙では、おはちに
同業というのは、厄介なものだ。親子、兄弟、そして夫婦。いずれも親や兄や夫の方が上であれば
同じ仕事で、女房の下に甘んじる。その苛立ちや不甲斐なさがいかに激しいものか、徳兵衛とて理解できる。ほかならぬ女房のお
「それで、榎吉、おまえはどうするつもりなのだ? 言うておくが、半端は許さぬぞ。どちらかひとつ、えらばねばならない」
榎吉の中では、すでに決まっているはずだ。おきをとはるを忘れ難いからこそ、雑司ヶ谷に足が向き、それがこたえではないか。後に残していく勘七となつ、そしておはちを、どうかよろしく頼む。相談とは、つまりは後顧の憂いを断つためだろうか。
「あっしも、腹を決めやした。いや、とうに決まってた。これからは……」
と、ふいに、高い鳥の声が、さえぎるように響いた。鳥ではなく、人の泣き声だと悟るのに、しばしかかった。腰を上げ、声が漏れてくる
▶#3-2へつづく