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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.7

まさかの光景に、勘七の堪忍袋の緒が切れた。西條奈加「隠居おてだま」#2-3

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

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 巣鴨町下組の南側は、狭い町屋と小禄の武士の屋敷が、木目込み細工のように入り組んでいる。やがて道の両側は田畑ばかりになり、身を隠す場所がなくて難儀したが、息子にけられているとは、夢にも思わないのだろう。榎吉は一度もふり返ることなく、いしかわに架かる橋を渡り、田舎道を西南の方角に向かった。
「ちぇ、親父の奴、人の気も知らねえで。吞気な風情でいやがって」
 実りを迎えた黄金色の田んぼをながめたり、前を横切った赤トンボをいつまでも見送ったりしながら、のんびりと歩いている。つい、舌打ちが出た。
「なあ、勘、親父さんの行く場所に、何か心当てはねえのか?」
「ねえからこうして、尻にくっついてんじゃねえか」
 いらいらと返す勘七を、ひょうきちは横目でながめる。
「もしも……あくまでもしもの話だが……行先が女のところだったら、どうする?」
 心配という的の、ど真ん中を貫かれたような気がした。思わず瓢吉をふり向く。
「すまん、そんな顔すんなって。勘は案外、だからよ。心構えさせた方がいいかと」
 嫌味でもからかいでもなく、瓢吉の顔は、本気で勘七を案じている。
「うちの親父みてえなクズではないにせよ、親父さんだって男だろ? 三年のあいだに知り合った女がいても、おかしくねえからよ」
 はっきりと口にされて、ここしばらく胸の中にただよっていた黒いもやもやの正体が、日の下にさらされたような気がした。母の他に、女がいるのではないか。こうも頻々と雑司ヶ谷に通うのは、女と会うためではないか──。その不安が、消えなかった。
「もし、そうだとしても、親父さんをあんまり責めんなよ」
「黙って、見過ごせっていうのか?」
「そうは言ってねえ。騒ぎ過ぎんなってことだ。下手を打てば、泣くのはおまえの母ちゃんなんだぞ」
 思わずひるんだ。母は何も知らないはずだ。ずっと苦労のし通しだった母だけは、これ以上、悲しませたくない。
「……どうすればいい?」
「ここでこのまま引き返すのも、ひとつの手だぞ。を知っちまえば、見て見ぬふりもできねえし……おい、曲がったぞ」
 榎吉が田舎道を、南に曲がった。町屋を過ぎて、えらく見通しがよくなったから、そのぶん距離をあけている。父の歩く道の向こうに、大きな寺の屋根が見えた。
「あれはたぶん、こくだ。だいぶ前だが、親父に連れられておと町に行ってな」
 ふたりがいるのは護国寺の東の裏手にあたり、寺の正面に長く伸びたなりみち沿いに音羽町がある。榎吉は、そちらに向かっているようだ。
「まずい、少し詰めようぜ。寺の門前はえらい人出だからな、このままじゃ見失っちまう」
 引き返すかどうか、じっくり考える間もなかった。瓢吉が言ったとおり、町屋に近づくごとに人波は増え、護国寺前はたいそうな混みようだった。それでもおうごんげんで慣れており、はしっこさが売りのふたりだ。周囲の大人の陰に隠れて、つかず離れず後を追う。
「おい、店に入ったぞ。あそこが目当ての小間物屋か?」
 榎吉は、護国寺の山門からほど近い、一軒の店に入っていく。そろそろと近づいて、中をのぞく。榎吉は店のかまちに腰掛けて、手代らしき男と話をしている。
「おい、あの看板」
「ああ、小間物屋ではなさそうだ」
 少し難しい字で、習ったわけではない。それでも子供なら、誰もが知っている。
 まさか──。その考えが胸をかすめたとき、怖気と憤怒が同時に込み上げた。
 榎吉は、その店でひとつの品を買った。それから少し道を戻って、護国寺前を過ぎてさらに西へ行く。
 雑司ヶ谷は、じんで有名ながらまだまだ田舎地で、田畑の広がる村のあちこちに町屋が点在する。巣鴨村の景観も似たようなものだ。後になって知ったが、榎吉が向かっていたのは、下雑司ヶ谷町だった。鬼子母神の堂からは少し離れていて、町屋がいくつか固まっている。
 ほどなく榎吉は路地に入った。ひどく入り組んだ道を、勝手知ったるようすで奥へ進む。榎吉の姿が横に逸れ、長屋の木戸の内に吸い込まれた。
「おーしゃん! おーしゃん!」
 ふいに、高い子供の声がした。中を覗くと、三つくらいの幼い女の子が嬉しそうに駆け寄ってきて、父がその子を抱きとめる。
「はる! いい子にしてたか?」
 父が名を呼んだとき、頭を殴られたような気がした。
 ──。単なる偶然だろうか? ふらふらと足が前に出た。こちらに背を向けているから、父は気づかない。父の肩越しに、はじけるようにまぶしい子供の笑顔が見える。
「今日は土産をもってきたぞ。ほら、はるの大好きなうさぎさんだ」
 父が音羽町で立ち寄ったのは、玩具屋だった。赤い着物を着た、兎の土人形に、喉を鳴らして子供が喜ぶ。
「榎さん、来てくれたのね。まあまあ、お土産まで。よかったわね、はる」
 母よりも若い女が出てきて、傍らにより添う。仲睦まじい親子三人の姿は、絵のようにさまになっていた。
「おーしゃん、ホイちて!」
「ようしよし、ほうれ、お猿さん───ホイ!」
 高く抱き上げた子供を、ホイ、と宙に浮かせる。キャッキャと喜ぶ子供の顔が、妹のなつに重なって、堪忍袋の緒が、十本くらいまとめて切れる音がした。
「そういうことかよ……この、クソ親父!」
 父がふり返り、子供を抱いたそのままの形で固まった。驚きで見開かれた目が、悲しげな色をにじませる。
「勘、七……」
「もういい! もう帰ってくんな! おれの父ちゃんは、三年前にいなくなった。それで十分だ」
「勘七、これにはわけが……」
「言い訳なんざ、ききたかねえ! 二度とおれたちの前に現れるな! 今度その面見せたら、ぶん殴ってやるからな!」
 腹に溜まったものを吐き出しても、少しもすっきりしない。黒い霧のようだったもやもやが固まって、鉄の塊みたいにと重くなって喉をふさぐ。
 それ以上、情けなくうろたえる父の姿を見たくなくて、くるりと向きを変えた。
「あ、おい、勘、待てって!」
 瓢吉が、慌てて後ろから駆けてくる。勘七を追ってきたのは、瓢吉だけではなかった。
 大きな子供の泣き声が、いつまでも背中に張りついてがれなかった。

▶#2-4へつづく


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