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連載

西條奈加「隠居おてだま」 vol.5

勘七のもとに三年ぶりに父親が帰ってきた。しかし何やら不穏な気配が。西條奈加「隠居おてだま」#2-1

西條奈加「隠居おてだま」

※本記事は連載小説です。

前回のあらすじ

老舗糸問屋の元主人・徳兵衛が巣鴨村に隠居家を構えて一年余り。風雅な余生を送るはずの隠居家は、孫の千代太が連れてきた子供たちでいつしか大所帯になった。ふたつの商いを回し手習所も開くという八面六臂な仕事ぶりで大忙しの徳兵衛のもとに、千代太があらたな「相談事」を持ってくる。親友の勘七の様子がおかしいというのだ。行方知れずだった父親が帰ってきて、また一緒に暮らせると喜んでいたはずだったが……。

「父ちゃん、行ってくら」
 家を出しな、かんしちは父に声をかけた。父のえのきちも、朗らかに返す。
「おう、精が出るな。行っといで」
「父ちゃん、今日帰ったら、お猿さんホイしてね」
 勘七に手を引かれた妹のなつが、父にせがむ。お猿さんホイとは、高い高いをしながらホイッと一瞬、子供のからだを宙に浮かせる遊びだ。
「お猿さん───ホイッ!」
 なつは確かに、猿のようにすばしこい。榎吉の掛け声が気に入って、なつの中ではお猿さんホイとして定着した。妹を横目でながめながら、内心ではちょっとうらやましい。
「おまえもやるか?」と声をかけられたが、
「いいよ、もう子供じゃねえから」と意地を張ったことを、密かに悔やんでいる。
「気をつけて行っといで。もう喧嘩なんか、しちゃいけないよ」
 奥で出掛ける仕度をしながら、母のおはちが釘をさす。おはちは子供たちと相前後して、隠居家の仕事場に出掛ける。ひようきちと派手にやり合ったのは、昨日のことだ。
「もうしねえよ」と応じると、四畳半の座敷から、母親が笑顔を返す。何故だか、胸がつきりと痛んだ。
 四畳半の座敷に、台所と土間で、合わせて一畳半ほど。いわゆる九尺二間の長屋に、親子四人が暮らしている。多少窮屈ではあるが、元の住まいにくらべれば夢のようだ。
 以前はこの半分ほどの、立ち腐れたような家だった。今年の四月の火事で、きれいさっぱり燃えてしまい、勘七はなんだか清々した。その家には、辛い思い出ばかりがこびりついていたからだ。焼けてしまったがも町下組と下仲組の東側には、三月もすると小ざっぱりとした長屋がいくつも建てられて、一家はそのひとつに落ち着いた。
 前よりも広い上に、ぴかぴかの新築で、柱や青畳の香がかぐわしい。家賃は前よりも上がったが、ちょうどおはちのこしらえるくみひもが売れてきた頃合と重なって、お金の心配もせずに済んだ。
 母子三人で新居に移り、ようやく落ち着いた頃だった。父の榎吉が、三年ぶりに帰ってきた。もちろん、母もなつも、そして勘七も、喜んで榎吉を迎え入れた。勝手を通してすまない、苦労をかけて不甲斐ないとびる父を、誰も責めたりしなかった。
 これでまた、昔のとおり一家四人で暮らせる。めでたし、めでたし──。
 のはずなのに、この胸のもやもやは、落ち着きの悪さは何だろう?
 戸口から一歩外に出て、勘七はもう一度ふり返った。
「父ちゃんも、今日はてら屋に行く日だろ? 戻りはまた、遅いのか?」
 とたんに父が、勘七から視線を逸らす。
「いや、そうだな、そんなに遅くはならねえと……おめえたちが戻る、日暮れ時には帰るさ」
「帰ったら、お猿さんホイだよ、父ちゃん」
「わかったわかった、約束するよ」
 妹に向けるとびきりの笑顔すら、噓くさく見えてくる。
「行くぞ、なつ」
 両親に手をふる妹の手を、いつも以上に強く引いた。

▶#2-2へつづく


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