menu
menu

連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.28

拝望会の仲間に茅森は自分の昔のあだ名を伝える。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-2

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

>>前話を読む

 少し昔の話をしよう。
 かつて「やもりん」が未来になんの希望もみいだせなかった、うすっぺらな絶望に包まれていたころの話だ。
 当時のやもりんは九歳の、内向的な少女だった。学校の成績はまずまずだが、何事にも自信を持てず、あまりクラスメイトと関わろうとはしなかった。周りも彼女を弱者として扱うことに慣れていた。彼女自身の暗い雰囲気に加えて、目の色だとか家のことだとかで、からかえる要素はいくらでもあった。でも、やもりんにはひとりだけ、仲良くしてくれる女の子がいた。彼女を仮に、Aとしよう。
 Aは優しい子だった。たとえばやもりんを、初めて誕生会に誘ってくれた子だった。やもりんは無理を言って施設の人にお小遣いをもらい、小学生が贈るには高価なテディベアをプレゼントした。Aはとても喜び、やもりんの誕生日には、色違いのテディベアを贈ってくれた。ふたりは仲良しだった。
 ある日の図画工作の時間、やもりんとAは向かい合って、互いの似顔絵を描いていた。スケッチは前回の授業で終えており、その日は水彩絵の具で色をつける予定だった。
 そのときやもりんは、いつものように悪質な「からかい」を受けた。ふざけた男子生徒が、やもりんの目に絵筆を突っ込もうとしたのだ。
 ──お前の目、黒くしてやるよ。
 なんてことを、そいつは言っていた。
 おそらく彼の方は、やもりんがおびえる姿をみて楽しむだけのつもりだったのだろうと思う。でもやもりんが慌てて顔を背けたものだから、それで狙いがれたのか、ついやり過ぎてしまったのか、絵筆が閉じたまぶたに押しつけられた。たっぷりとつけられていた黒い絵の具がそこから垂れて、目を開いた拍子に少し流れ込んだ。
 やもりんは、事件に気づいた先生に連れられて保健室に行き、ずいぶん長い時間目を洗った。それから施設の人が迎えに来て、学校を早退して眼科を受診した。幸い目は傷ついていなかった。
 どうやら学校は、男子たちがふざけていて、たまたま手に持っていた絵筆が当たったのだと説明したようだ。もしやもりんが今の私だったなら、激しく憤り、力の限りに反論して、なんとしてでも学校に事実を認めさせただろう。でも当時のやもりんは気弱な女の子だったものだから、すべてをみ込んで口を閉ざしていた。

 翌日、登校したやもりんを、Aは優しく慰めてくれた。
 ──大丈夫だった? あんなやつら、相手にしちゃいけないよ。
 なんて風に。
 それからAは、描き上げた似顔絵をみせてくれた。
 彼女が描いたやもりんは、教室でいつもうつむいている少女ではなかった。朗らかな笑みを浮かべた明るい女の子だった。
 ──やもりんは、私たちとなにも違わないよ。
 そう言った彼女の手の中で笑うやもりんは、目を黒で塗られていた。

 あのとき私は、彼女の絵を奪い取って破り捨ててしまいたかったのだけど、そうはしなかった。無理やりに笑って、「ありがとう」と答えただけだった。
 彼女とはそのあとも付き合いがあった。私はやもりんと呼ばれ続けた。そのたびに彼女が描いた、黒い目の私を思い出した。
 清寺さんの家に引き取られて転校するとき、彼女は泣きながら私を送り出してくれた。私も寂しげな顔を装ってみたけれど、内心ではほっとしていた。もう彼女に、やもりんと呼ばれずに済むことに。
「ところで、やもりん」
 と森さんが言った。
 私は素直な笑みを浮かべて「なに?」と応える。
 そのあだ名で呼ばれることが、もう当時のようにつらくはない。ただあのころを思い出して、苦笑してしまうだけだ。
 森さんの質問は、ずいぶん唐突なものだった。
「やもりんは恋人いるの?」
 まさか、と私は答えた。私は優等生で、制道院では恋愛が禁止されている。それに、正直なところ、私は長いあいだ「男子生徒」というものに対して偏見を持っていた。小学生のころは、奴らはみんな敵だと信じていた。
 森さんの友達のひとりが言う。
「やもりんには、年上が似合いそう。背も高いし」
「身長はどうでもいいけど、落ち着いている人の方が良いかな」
「好きな人いる?」
「クラスメイトは全員好きだよ」
 私の言葉に四人が笑う。「そんな話じゃないよ」と瀬戸さんが言った。
 もちろん、そんな話ではないことはわかっている。
 彼女たちが求めている話に合わせて、適当にそれっぽい相手の名前を挙げられればよかったのだけれど、そうとわかっていてもく言葉が出てこなかった。それで私は仕方なく、口をつぐんで顔をしかめていた。寒さに耐えるペンギンみたいに。
 そうしているあいだに四人の会話は軽やかに流れ、森さんが陸上部の先輩に恋しているらしいという話になった。

3、坂口孝文

 僕の隣を、桜井ことが歩いていた。
 彼女は古くからの知人だ。同じ小学校の出身だから。実のところ僕は一時期、桜井に恋をしていたことさえある。その恋心が生まれたのにも消えたのにも、特別な理由はない。僕が勝手に幻想を抱き、それから勝手に幻滅したというだけだ。小学生にはありきたりな恋だったのではないかと、今は思っている。
 小学生のころの僕たちは、ふたりで話をすることもあった。共に制道院を目指していたから、放課後の教室で、しばしば顔を突き合わせて勉強した。どちらかというと彼女は自分の話をするのが好きなようで、極力しやべることを避けていた僕にしてみれば居心地の良い相手だった。でも制道院に入ってからは疎遠になった。どちらかというと僕の方が、一方的に彼女を避けていた。
 僕は桜井を嫌っているわけではなかった。彼女と茅森の関係にだって、これといって思うところはなかった。僕が嫌っていたのは、何年か前の僕自身だ。つまり周りよりも特別に賢いのだと無根拠に信じていたころの僕だ。それは恥ずかしい記憶で、当時を知る桜井とどう接すればよいのかわからなかった。
 僕の班の四人に桜井の班の五人が加わって、九人の大所帯ができていた。僕と桜井はその最後尾を並んで歩いた。僕らの少し前には女子のふたり組がいる。彼女たちは顔を寄せ合って、小声でなにか話をしている。その先に、残りの五人──僕の班の男子三人と桜井の班の女子ふたりがひとまとまりになっている。少し距離があるから声は聞こえないけれど、ずいぶん楽しそうだ。
 僕はドラマのワンシーンをテレビでみているように、笑い合う彼らを眺めていた。隣の桜井はずいぶん話しづらそうにしていた。でもどうにか話題を探して、ぽつりぽつりと近状を教えてくれた。学校の勉強のこと、拝望会のこと、小学生のころから続けている吹奏楽のこと。彼女はとても綺麗な音でトランペットを鳴らす。そのことを思い出して、懐かしい気持ちになる。
 拝望会のコースは一二キロを過ぎた辺りから、再び山道に入った。地図でみると尾根をひとつ越える地形で、何度もアップダウンを繰り返す。
 僕たちは五〇〇メートルほど続く坂道を上る。車道とのあいだにつつじの植え込みがある、幅の広い歩道だった。えんじ色とクリーム色のインターロッキングブロックが綺麗に敷き詰められた、歩きやすい道だ。それでも上り坂は、確実に僕たちの体力を奪う。坂の終わりをみたくて顔を上げると、並んだ木々の枝が頭上にせり出していた。葉の隙間から射しこむ光が、かすかな風でちらちらと揺れた。
 その坂道を七割ほど上ったところで、桜井は言った。
「どうして、図書委員になったの?」
 僕は一歩ずつ足を踏み出すのに必死だった。リュックがいっそう重くなったような気がしていた。ずっと襟をつかまれているような、後ろ向きの重力に気を取られて、とくに考えもなく答えた。
「もともと、そのつもりだったんだ」
 声の高さには気を遣えなかった。でも、な行が苦手な僕にしては、上手く「の」も発音できた気がする。
「茅森さんと同じ委員になるつもりだったの?」
「まさか。図書委員になりたかった」
 僕は本が好きだ。一冊の本よりも、たくさんの本が並ぶ書架が好きだ。古い洋館が移築された制道院の図書館は美しい。司書教諭のなかがわ先生は、僕にとって、そのすべてが心地よい。
「それだけ?」
「だいたい」
 だいたい、と彼女は反復した。ガラスみたいな、冷たく硬い印象の声だった。
「他にもあるの?」
「なくはない」
「なに?」
 委員会を決めた教室で、僕は苛立っていた。特定の誰かが相手じゃない。もっと大きくて漠然としたものに。逃れようのない気圧みたいなものに。
「君が茅森を嫌うのは、別に良いんだ。君の友達が、君に味方するのもかまわない。誰も嫌わず、みんな仲良くなんて方が気持ち悪い」
 流れる汗が、目に入って少し痛い。僕は目元を乱暴に拭う。
 桜井は荒れた呼吸のあいだで、途切れがちに言った。
「じゃあ、なにがだめなの?」
「嫌うにしても、やり方があるだろ」
 人として、張るべき意地みたいなものを忘れちゃいけないだろ。
 どういう意味? と桜井がささやく。
 彼女はたぶん、答えを知っているだろう。言葉にならなくても、直感のような部分で。小学生のころの桜井はその意地を持っていたから。
 僕は小声でぼそぼそと答える。
「つまり、なんていうのかな。いくら相手が嫌いでも、こっちが悪者になって良い理由にはならないだろ」
 その意地を張り続けるのがプライドだろう。ひとりの少女が嫌いで、彼女と関わりたくないのは仕方ない。でも無視が目的になってしまったなら、それはただの悪意だ。悪意を受け入れるのは違う。好き嫌いで語れる問題じゃない。
 もしもあのとき手を挙げなければ、僕は悪意を受け入れていたのだと思う。クラスみんなで茅森りようを攻撃しようという悪意を。
 うつむいて歩く桜井は、ほんのわずかに首を振ったようだった。
「私が無視しろって言ったんじゃない」
「でも、茅森を傷つけようとした」
 桜井自身がなにをしたわけでもなくても、茅森が傷つくことを期待していた。
 誰も嫌わない善人であれなんて言いたいわけじゃない。そんなの、まるで洗脳だ。人の自由意志を踏みにじるような話に聞こえてひどく気持ち悪い。嫌いな奴は嫌いでいい。悪意と呼ばれるものが胸の中に生まれるのも仕方がない。でも大切なのはその悪意の扱いだろう。僕たちは悪意というものを、注意深く、繊細に抑え込めるはずだろう。
 長い上り坂がひとまずの終わりを迎えた。先はなだらかな下り坂だが、その向こうにまた次の上り坂がみえた。
 桜井が、足を止めて息を吐き出す。
 僕は彼女を残して、そのまま歩き続ける。
 ──悪意を上手く抑えられないのは、僕も同じなんだ。
 歴史のテストを白紙で提出し続けているのだから。
 なんだか恥ずかしくて、頰が熱くなるのを感じていた。

4、茅森良子

 出発から一八キロ。時刻はすでに、午後五時になっている。
 アップダウンを繰り返す山道を抜けた私たちは、山中にある住宅地の区画整理された広い道路を歩いていた。海岸沿いの都市部に人があふれたことを理由に、三〇年ほど前にベッドタウンとして開発された地区だった。そのころに建ったものだろう、まったく同じ形をした二棟の団地を、傾いた秋の太陽が照らしている。陽の光にはあかね色が混じり、景色を少しノスタルジックにみせる。
 ふたつの団地のあいだには小さな公園があった。ベンチとすべり台と水飲み場と、それからなんという名前なのだろう、またがって前後に揺れるだけの遊具が設置された公園には、三人の小学生がいた。彼らは長い影を引き連れて、ボールを投げて遊んでいる。
「やもりん、あとどれくらい?」
 と瀬戸さんが言った。
「宿泊施設までは五キロくらいだよ。でも展望台まで歩いて帰ってくれば、さらに一四キロと少し」
「それは、無理だ」
 前半のペースが速すぎた影響もあるのだろう、瀬戸さんは疲労こんぱいといった様子だ。背を丸めて、足を引きずるようにして歩いている。比較的元気な私と森さんが、交互に彼女のリュックを持っていた。
「背筋を伸ばした方が、歩きやすいと思うけど」
「無理。なんか、脇痛い」
「少し休む?」
「いい。止まったらもう動けない」
 気持ちはわかる。私だってずいぶん疲れている。靴の中が妙に熱く、むれていて気持ち悪い。今すぐ裸足はだしになりたかった。でも、ランナーズ・ハイのようなものだろうか、ひたすら歩き続けるのは苦ではない。少なくとも上り坂でなければ。
 森さんが、私の隣に並んだ。
「やもりんは、ゴールまで行くの?」
「もちろん」
「どっちの?」
「海浜公園の方だよ」
 拝望会は伝統的に、はちぶせやまにある展望台がゴールになる。でも今回は、もうひとつゴールが追加されている。山に登らず、海岸沿いの道を歩き続ければ大きな海浜公園に辿り着く。こちらの方が展望台よりも少し遠いけれど、長い階段がないため歩くのは楽だ。
「私もそっちがよかったな」
 と森さんがぼやく。
「いいじゃない。先輩がいるんでしょ」
 宿泊施設まで歩けば棄権が認められ、その先は班で行動しなくてもいい。森さんは陸上部の人たちと歩く約束をしているそうで、その中には彼女が恋する先輩もいる。
 この何時間かで、私はくだんの先輩についてずいぶん詳しくなっていた。現在は高等部の一年生で、四〇〇メートルを主に走っている。辛いものが苦手で、寮で出るカレーさえ食べられない。反対に、甘いものはなんでも大好き。加えて可愛いものも好きで、現在はパンダをモチーフにしたキャラクターのグッズを集めている。髪型にはこだわりがないらしく、放課後まで寝癖がついたままのこともある。その寝癖が可愛い。好きな色はオレンジ。好きな映画はピクサー全般。五月一二日生まれのうし座で、座の森さんとはまずまず相性が良い。取り立てて興味のある話でもなかったけれど、寝癖が可愛くみえることがあるのは、なんとなくわかる。
 森さんは顔をしかめてみせた。
「でもね、よしさんもくるんだよ」
 吉城さんというのは、高等部二年の陸上部マネージャーらしい。そのマネージャーも、森さんが恋する先輩を狙っているようだというのが彼女の見立てだ。
「パンケーキ屋さんに誘うんでしょ?」
「隙があれば。吉城さんのガードが堅い」
「別に、目の前で堂々と誘えばいいじゃない」
「すぐにみんなで行こうって話になるんだよ。うち、仲良しだから」
「ふたりきりで行きたいって言えば?」
「言えないよ」

#4-3へつづく
◎第 4 回全文は「カドブンノベル」2020年4月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年4月号

「カドブンノベル」2020年4月号


関連書籍

MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年6月号

5月10日 配信

怪と幽

最新号
Vol.004

4月28日 発売

小説 野性時代

第199号
2020年6月号

5月12日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP