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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.38

【連載小説】トランシーバーでの会話が二人の距離を縮めていく。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#5-3

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 坂口だって知っている話題だろう。つまり牛を一頭育てるには多くの植物がいるから、直接植物を食べた方が犠牲が少ない、という話だ。たとえば、私が読んだ本には、牛肉一キロを生み出すためには穀物が一〇キロ必要だとあった。
 彼はずいぶん冷めた、突き放したような口調で答える。
「純粋に犠牲の数を問題にするなら、なんにも食べないのがいちばんでしょう。自分ひとりが死ぬだけで済むんだから」
 私は思わず笑う。
 坂口の言葉が、あまりに純粋で。
「つまり貴方の倫理観じゃ、善人は飢え死にするしかないってこと?」
「僕の個人的な考えを極端に突き詰めると、そうなる」
「私は違う。良い人が──そうではなくても、誰かが飢えて死ぬのをただみているのは倫理に反する」
「僕もだよ。実際には僕も、アンフェアな感情でなにが正しいのかを決める」
 フェアか、アンフェアか。
 どうやらそれが、坂口の根底にある倫理の判断基準のようだった。そして彼にとってのフェアな姿勢というのは、自身の感情に寄りかからない、より客観的な視点で物事を判断することなのだろう。
 こんな風に、少しずつ坂口を説明できるようになるのはうれしいことだった。
 彼は小さな声で補足する。
「倫理が感情を理由にしている限り、別の感情には理屈の通った反論ができないよ。ただ声の大きさの比べ合いにしかならない」
「正義の敵が別の正義であるように?」
「たぶん。なんにせよ、倫理っていうのは同じような感情を持つ人たちのあいだでしか成立しないものだから、そうではない人を説得するのには向かない」
 私はトランシーバーの向こうにいる坂口の表情を想像する。きっと彼は、困った風に顔をしかめている。こんな風な、つまり倫理だとか正義だとかの抽象的な話をするときの彼は、いつだってそうだから。
 坂口は、個人的な価値観に関する話があまり得意ではないのだ。どこか恥ずかしがっている風に感じる。でも私に合わせて素直な言葉を聞かせてくれる。一方で私は抽象的な話も、少し恥ずかしがっている坂口も好きだから、できるならもう少しこの話を続けていたかった。
「つまり貴方は、倫理的主観主義に立脚している」
「なに、それ?」
「なんとなく言葉の並びでわかるでしょう。私は、どちらかというと、道徳は実在すると信じているけれど──」
 そして私たちは脚本の話題から脇道へと果敢に足を踏み出し、しばらくのあいだ、倫理の本質に関する非常にイノセントな会話に没頭した。感情を根拠としない、より客観的な倫理は存在するのだろうか。あるいは倫理にとって代わる、善悪の判断基準をみつけることができるだろうか。
 私は窓から夜空をみあげる。そしてトランシーバーを強く握る。
 ふたりが納得する、美しい答えはみつからなかった。でも、あくまで真剣に答えを探すのだ、という姿勢は一致していた。
 やがて寮の消灯の時間が近づいて、私は言った。
「客観的に正しい倫理っていうのは、どこにもないものかな?」
 それは素直な疑問だった。きっとほんの幼いころ、まだキャンディの数で一喜一憂していたような時代から変わらない、シリアスな疑問だ。
 坂口は長いあいだ、口を閉ざしていた。私はその無音に耳を澄ませていた。なんの音を拾っているのだろう、トランシーバーはたまに小さなノイズを拾う。そのざらりとした振動が心地よかった。
 坂口が言う。
「僕にわかるのは、僕にとっての倫理だけだよ。だから他の人が別の倫理を持っていたとしても、できるだけ尊重したい」
 彼らしい答えだ。作中の祖父も、同じように考えていたのだろう。だから、倫理は胸の中だけで飼えと言ったのだろう。
 でもイルカの星では、彼の価値観はすでに古びたものとして扱われている。だからわざわざ彼を「祖父」に設定し、寿命を迎えさせたのではないか。だとすればあの美しい惑星で、当たり前に認められている倫理観はどんなものなのだろう。
 胸の中の疑問を、私は短くまとめて口にする。
「私は、イルカの星を理解したい」
 とりあえず章明祭のための脚本を完成させるために。でも本当は、もっと重要なもののために。
 トランシーバーの向こうから、ふうと息を吐く音が聞こえた。ため息よりはドライで、力強い音だった。
「やっぱり、もう少しだけ六つ目の鍵穴を探さないか?」
 と坂口は言った。

 清寺さんの書斎に、「イルカの唄」は残されていなかった。
 代わりに私は、六本の鍵の束をみつけた。彼が制道院で客員講師をしていたころに使っていたものだった。そのうちの五本は、すでにどこの鍵なのか判明している。
 タグがついているものが四本あり、それぞれ制道院の正門と、校舎のひとつの入り口と、清寺さんが授業をしていた特別教室、それから彼が自由に使えるよう貸し与えられていた待機部屋のものだ。その待機部屋が今では生徒会室になっている。
 タグのない二本のうちの一方は、当時彼が使っていたデスクの引き出しのものだった。でも、最後の一本──六本目の鍵だけは、それに合う錠がわからない。
 この鍵束は、清寺さんが制道院にいたころの、彼の行動範囲を示しているはずだ。なら最後の鍵で開く錠の先に「イルカの唄」の原稿があるのではないか。ずいぶん希望的な推測ではあるけれど、私たちはそう考えていた。
 もしも「イルカの唄」の脚本がみつかったなら、多くの問題が解決する。章明祭の劇のために多少の修正は必要かもしれないが、それでも前半は私のあやふやな記憶で埋め、後半はゼロから創作するなんて無茶なことはしなくていい。
 それに、私が憧れる星の物語は、本来はどんな結末を迎えるのだろう?
 私は純粋に、「イルカの唄」の続きを読みたかった。

5、坂口孝文

 六つ目の鍵が合う錠を、もう二年間も探している。
 なんて言ってしまうとずいぶん努力した感じがするけれど、本当のところは、大半がどうしたものかと悩み込んでいただけだ。制道院にある錠の大半にはすでに鍵を当ててみたけれど、どこにもみ合わない。
 とはいえ僕たちは、すべての錠を調べられたわけではなかった。残っているのは職員室と校長室、それから寮のいくつかだ。どこも入り口の扉には合わないことを確認しているけれど、錠があるのは扉だけではない。部屋の中にある、鍵がかかる戸棚のひとつが正解かもしれない。
 残されたものの中で、もっとも可能性が高いのは職員室ではないか、と僕たちは考えていた。客員講師だった清寺さんが、寮や校長室の戸棚の鍵を持っているのは不自然だから。でも職員室の中にあるなにかの鍵であれば、まだしも可能性があるように思う。
 本当のところは、もっと納得できる推測だってあった。
 つまり制道院にはもう、六本目の鍵に合う錠なんて存在しないのではないか。鍵が付け替えられた、あるいは引き出しなんかの鍵であればその家具ごと捨てられてしまった。こんな風に考えた方が自然だろう。
 そもそも「イルカの唄」が制道院にあるかもしれないという話自体、茅森の想像に過ぎない。清寺さんの書斎にも、彼が東京に持っていた仕事部屋にもその原稿は残されておらず、他に考えられるのが制道院くらいしかなかった、という話だ。原稿はすでに破棄されているのかもしれない。でも。
 ──つきしまなぎさの名前が載っている脚本を、清寺さんは捨てないような気がする。
 と茅森は言った。
 そして僕は、彼女の言葉を信じようと決めた。
 理由はない。ただ、信じたかったから、信じることにした。

 気をくなら橋本先生を狙うべきだろうな、と綿貫が言った。
 職員室の鍵を手に入れたいと相談したのだ。僕は「六本目の鍵」に合う錠を探すために、夜の職員室に忍び込もうと考えていた。
 職員室の壁には大きなボードがあり、そこに様々な鍵が掛かっている。その中にはもちろん、職員室自体の鍵もある。予備も含めて二本。
 そのうちの、予備の方を一晩だけ拝借したい。思いついた方法は単純だった。目的の鍵には、青いプラスチックのタグがついている。そのタグを別の鍵に付け替えてボードに戻しておけばいい。多少もたついても、一分もあれば足りるだろう。でもそのあいだ職員室にいる先生たちの注意をらす必要がある。
「どうして橋本先生なの?」
 そう尋ねると綿貫は、当たり前だろうという風に答える。
「ケンカをしやすいからだよ。人の気を惹くには、大きな声を出すのがいちばんだ」
「橋本先生と怒鳴り合うのか?」
「これまでだって何度もしたことがあるだろう?」
「何度もってほどじゃない」
 ほんの二、三回といったところだ。でも、たしかに僕は、彼以外の先生とは一度だって口論したことがない。
 綿貫は平気な顔で続ける。
「橋本先生が職員室にいて、他の先生ができるだけ少ない日を狙えばいい。先生たちのスケジュールを調べるのは、そう難しくもないだろう?」
「うん。すぐにわかると思う」
った鍵は、どう戻すつもりなんだ?」
「職員室に忍び込んだとき、ボードの偽物ともう一度取り換えればいい」
「でもそれだと帰りに鍵をかけられない」
「いや、たぶん大丈夫だよ」
 職員室のドアは召し合わせ錠という種類のもので、内側から鍵をかけるのは、小さなレバーを下にスライドすればよいだけだ。糸を使う古典的な細工でなんとかなるだろう。同じ錠が使われている教室もあるから、あれこれ試してみればいい。
 そう説明すると、綿貫は真面目な顔で頷いた。
「なら、まずは鍵かけを試してみよう。それから先生たちのスケジュールの調査。そっちはお前に任せていいな?」
「というか、君はなにもしなくていい」
 職員室の鍵をこっそり借りる方法について、綿貫の感想を聞きたかっただけだ。
 だが綿貫は首を振った。
「ひとりじゃ無理だよ。先生の注意を逸らす役と鍵をすり替える役、少なくともふたりはいる」
 それはその通りだ。でも、綿貫を巻き込むのも抵抗がある。
 僕が言いよどんでいると、平気な顔で綿貫は続ける。
「鍵の方はお前がやれよ。もしもばれたら、上手くかばってくれ。オレはあくまで橋本先生と話をするだけだ」
「そもそも君が関わる理由がない」
「楽しそうだろ。それに、あいつには言ってやりたいことがたくさんある」
 僕たちと橋本先生は、今もまだ仲が良いとは言い難い。根本的に気が合わないし、あの人は悪気なくこちらの感情を逆なですることを言う。でも僕たちが中等部の二年だったころの拝望会の夜に会ったのが、彼以外のどの先生でも、綿貫が展望台までの長い階段を上ることは許されなかっただろう。
 少なくとも橋本先生は、誠実な人ではある。たしかに優しく、彼自身の正義に反することは決してしない。だから僕はあの人のことが、もう当時ほどは嫌いではない。
 きっと綿貫の心情も、僕とそう変わりはしないだろう。橋本先生に対しては、怒鳴りたいことがたくさんあり、一方で彼への感謝もあるのだろう。
「じゃあ頼む。ありがとう」
「ところで、どうして職員室なんてつまらないところに忍び込みたいんだ?」
 僕は綿貫にもまだ、「イルカの唄」のことを話していない。あの脚本のことは、茅森の許可を取らなければ決して口にしてはいけないのだ、という気がしているから。
 代わりに綿貫には、僕の個人的な理由の方を答えた。
「告白の成功率を上げるための、理想的なシチュエーションを探しているんだよ」
 うそじゃない。僕は、もしも「イルカの唄」の脚本がみつかったなら、茅森良子に告白しようと決めている。
 綿貫は軽く顔をしかめて、「それでどうして職員室なんだ」とつぶやいた。

 扉に外から鍵をかける実験には、僕と綿貫に加え、がしも参加した。とはいっても彼女は綿貫の付き添いで、基本的には黙って立っていただけだ。
 放課後の教室は、密室トリックの実験には都合が良かった。扉が教室の前と後ろにあるのが良い。一方の鍵がかかってしまっても、もう一方の扉から中に入ってまた開けることができるから、何度だってやり直せる。
 鍵をかける方法は単純だった。糸をU字にして錠のレバーに引っ掛けて、扉の下の隙間から廊下に出す。廊下側からその糸の両端を持って引けば、レバーが下りて鍵がかかるはずだ。
 そのために僕は、何種類かの糸を用意していた。鍵をかけるには、釣り糸が最適なようだった。問題は錠のレバーが小さすぎることで、なかなかうまく糸が引っかからない。テープで貼って固定するとどうにかなるが、今度はそのテープが問題になる。U字にした糸の片側だけを引けば糸の回収はできるのだけれど、テープの方は教室の中に残る。錠のレバーに張り付いたままのこともあるし、レバーからは剝がれるのだけれど扉の下の隙間を通らず教室の床に落ちていることもある。
 僕たちは意見を出し合い、確実にレバーからテープを剝がす方法をみつけた。U字の糸をさらに二重にし、一方は室内の机の脚を半周させることで、糸の引き方で異なるふたつの方向に力がかかるようにしたのだ。ある引き方をすれば真下に力がかかって錠が下り、別の引き方をすれば室内の机の方に力がかかってテープが剝がれる。
 それでもテープが扉の下の隙間を通り抜けられないという欠陥は残るのだけれど、こちらは無視して進めてもよいだろう。もしも翌朝の職員室で死体がみつかったなら名探偵が現れて軽やかに密室トリックを解き明かすかもしれないけれど、実際に職員室に残されるのは床に落ちたほんの数センチのテープだけだ。事件性はない。

#5-4へつづく
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