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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.34

【連載小説】坂口は綿貫と展望台に登ろうとするが――。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-8

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 僕の家は、大雑把に言ってL字の形をしている。
 短い方の辺は何十年か前に祖父が建てた日本家屋で、こちらが本邸と呼ばれる。対して長い辺は、僕が生まれたころに父さんが増築した家だ。こちらは別邸と呼ばれる。本邸と別邸のあいだには数メートルの距離があるが、渡り廊下で繫がっている。
 別邸が建ったころには祖父は亡くなっており、本邸で暮らすのは祖母だけだった。祖母と僕たちの生活空間は切り離されていた。食事も風呂も別々だった。でもあの人の顔をみない日もなかった。
 祖母は気難しい人だった。いつもなにかに怒っているようだった。僕は彼女の、機嫌の良い顔というのをみたことがなかった。とくに母さんと、それから僕はよく叱られた。祖母の目からは、母さんと僕はずいぶん似てみえるようだった。庭や廊下の先にあの人の気配を感じるたび、僕は身体をすくませていた。
 祖母は僕たちの生活を、よく観察しているようだった。僕が友達を家に呼ぶと決まって、母さんに「あれはどこの子なの?」と尋ねたそうだ。そして答えが気に入らなければ、もう一緒に遊ばないようにと僕に注文をつけた。着るものにも、遊ぶものにも、学校の成績にも、あの人はいちいち口を挟んだ。
 僕が自分の声をひどく嫌うようになったのも、祖母が理由だ。
 ──その耳に障る声はなに?
 と言ったときの、こちらを見下ろすひどく冷たい目を今も覚えている。
 祖母は坂口家というものに対して、明確な定義を持っているようだった。母さんには坂口家の妻として、僕には坂口家の長男として、共に完璧であることを求めた。そして、少なくとも僕の声は、彼女が望むものではなかった。
 僕は不思議と、祖母を嫌ってはいなかった。もちろん好いてもいなかったけれど。
 祖母はある種の神さまのようだった。信奉するとなにか素晴らしいご利益があるわけではない。せものは出ず、待ち人は来ず、良縁を結びもしない。でも気を損ねると僕らをたたる。だからまつるしかない神さまだった。
 きっと僕は、祖母を嫌うべきだった。幼い僕からみても、あの人の、母さんへの言動には目に余るものがあった。でも僕は戦い方を知らなかった。人を嫌うということさえよくわかっていなかった。だからじっと首を垂れていた。
 祖母がいなくなったのは、僕が小学四年生のときだった。
 亡くなったわけではない。父さんが説得して、老人ホームに入れたのだ。あの祖母が老人ホームで暮らすことを受け入れたのは、ずいぶん意外だった。
 母さんの話では、祖母は昔、優しい人だったそうだ。でも、なにか病気で──という言い方を母さんはしたけれど、つまり認知症の一種なのだろう──まるで別人のようになってしまった。
 小学六年生の夏、僕は父さんとふたりきりで祖母に会いに行った。
 そのころには、祖母の認知症はずいぶん進行していた。顔を合わせても、僕が誰なのかわからないようだった。僕のことを「学生さん」と呼び、しきりにカステラを勧めてくれた。どうやらしばしば近所の高校生たちがボランティアで老人ホームを訪ねるそうで、おそらくその人たちと間違えていたのだろう。
 祖母の老人ホームには小さな売店が入っていて、帰り際に父さんが、そこでハイクラウンをひと箱買った。それから丘の上にある、見晴らしのよい公園に寄った。
 僕たちはハイクラウンをかじりながら、まるでおもちやみたいな、眼下に広がる街並みを眺めていた。家も車もみんな、簡単に踏みつぶせそうな景色だった。ボウリングの球くらいの鉄球を転がせばなにもかもぐちゃぐちゃになってしまいそうで、僕はふと、そうしたいような気持ちになった。なにが嫌なわけでもない。誰かを不幸にしたいわけでもない。なのに、なんとなく、視界の中のものをみんな壊したくなった。
 父さんはおそらく、祖母を老人ホームに入れたことについて考えていたのだろう。自分の決断を、疑う心がきっとあった。でもそのことを言葉にはしなかった。
 代わりに、困った風に笑って言った。
「勇気はチョコレートに似ている」
 勇気、と僕は反復した。話の文脈のようなものが、よくわからなかったのだ。父さんは続けた。
「甘いだけではないんだよ。苦みも混じっている」
 今だって僕には、父さんが言いたかったことが、正確にわかるわけではない。
 けれど僕はきっと、祖母と戦うべきだったのだ。
 今となってはもう叶わないのだから、頭の中で街に鉄球を転がすくらいなら、あのころそうしておくべきだった。

 綿貫の姿をみた橋本先生は、ずいぶん戸惑っているようだった。
 彼はラフなスポーツウェアの姿で、懐中電灯を手にしていた。その光を無遠慮に僕たちに向けて、言った。
「どうして、綿貫がここにいるんだ」
 僕は相変わらず、上手く言葉が出てこなかった。
 懐中電灯の光に照らされて、綿貫が軽く肩をすくめてみせた。
「気が変わったんですよ。ふと拝望会に参加したくなったんです」
「ならどうして、私に言わなかった?」
「わかりませんか? わからないなら、別にいいけれど」
「とにかく、もう遅い。車を呼ぶよ。詳しい話は、その中で聞こう」
「ええ。では、あとで」
 綿貫がほんの一瞬、視線をこちらに向けた。強い瞳だった。その瞳に指示されるような気持ちで、僕は車椅子を押す。
 慌てた様子で橋本先生が声を上げた。
「待て。どこにいくつもりだ」
 僕は足を止めなかった。
 綿貫が、平気な様子で前方を指さす。
「もちろん、拝望会のゴールです」
 鉢伏山は黒く巨大な獣のように、月夜の下でうずくまっている。ロープウェイ乗り場の裏に階段ばかりの登山道があることを、僕は知っている。
 橋本先生の声は、叫ぶようだった。
「できるわけがないだろう」
 綿貫が冷ややかに応える。
「オレの足が動かないからですか?」
 橋本先生は、なにも答えなかった。ただ僕たちの後ろをついてくる。さらにその後ろに茅森と八重樫がいる。前を向いたまま綿貫が続ける。
「頷けばいいんだ。その通りなんだから。オレの足で、鉢伏山を登れるわけがない。そう言えばいいんだ」
「海浜公園であれば、私が付き添うよ」
「どうして、できないことをしようとしちゃいけないんですか」
「わかるだろう? 危険だ」
「その危険というのは、オレをどれほど傷つけるんですか。これまで貴方がオレに言ったことよりも、深く傷つけるっていうんですか」
 綿貫はたぶん、本心で話しているのだろうと思う。
 でも、そんな本心なんて、ちっとも外にはみせたくなかっただろう。僕が車椅子を押しているから、行けるところまで行こうと誘ったからそうしているんだろう。
 登山道の入り口は、コンクリートでできた味気ない階段だった。僕はその手前で車椅子を止めて、ブレーキペダルを押し込む。
 すぐ後ろで、橋本先生が言った。
「私は、君の意志を尊重したいと思っているよ。でも、わかってくれ。教師として認められないこともある」
 僕はふっと息を吐き出す。
 そういえば、リュックは宿泊施設に置いたままだ。だからもう僕の手元にチョコレートはない。ひとつきりポケットに入っていたハイクラウンは茅森に差し出した。でも後ろから僕らをみつめる茅森の視線は、きっとチョコレートとそうかわらないものだ。
 あの日、頭の中で転がした鉄球に背を押されて、僕は振り返る。
「先生が正しいんです。こんなにも暗い時間に、綿貫をつれて三〇〇段の階段を上るのは無茶なことです」
「そうだ。まともじゃない。動かない足で」
「綿貫の足は、まったく動かないわけではありません。手すりがあれば一〇メートルくらいなら歩けます。でも、そうですね。階段の一段ぶん足を上げるのだって苦痛でしょう。バランスを崩せば簡単に転がり落ちてしまうでしょう。そうなればどれほどのを負うのかわからない。もちろん制道院の責任にもなるでしょう」
 みんな、知っているんだ。本当に。
 今回のことに関しては、橋本先生が正しくて、僕たちが間違っている。でも。
「なら、私の言う通りに──」
 僕は橋本先生の言葉を遮った。
「でも正しいことで、傷つくものだってあるんです」
 きっと橋本先生にはわからない。綿貫がこれまでどれほど傷ついてきたのかも、これからどれほど傷つくのかも。それは僕にもわからない。もしかしたら綿貫本人にだって。でも、だから、馬鹿げた意地を張っているしかないじゃないか。
 綿貫が僕を見上げた。
「肩を貸してもらえるか?」
「もちろん」
 車椅子のとなりで身をかがめると、綿貫は抱き着くように、僕の肩に腕を回した。彼の身体は熱く、少し震えていた。
 橋本先生が苦しげにささやく。
「どうして、展望台にこだわるんだ」
 決まっている。そんなの。
 苦笑しながら綿貫が答えた。
「世界でいちばん美味いカップ麵が食えるからですよ」
 そんなわけない。でも、他には説明のしようもない。
 僕は綿貫の脇の下に腕を差し込んで、抱え上げるように階段の一段目を上る。綿貫の右足がゆっくりと持ち上がり、たしかに階段を踏む。重い。苦しい。これを三〇〇回。とうてい、今夜のうちに終わるとは思えない。
「こんなことをして、なんになるんだよ」
 と橋本先生が言った。その声は怒っているようでもあったけれど、どちらかといえば泣き声に似ていた。
 僕はもうなにも答えなかった。代わりに、茅森の声が聞こえた。
「私も疑問です。でも理解できない考え方を、理解できないからと切り捨てていくなら、愛も平等もみんな偽物です」
 相変わらず、綺麗な声だ。嫉妬するくらいの。
 でも、違う。愛とか平等とかが理由じゃないんだ。そんなに大げさな話じゃなくて。ただ、友達と歩ける拝望会は最高だってだけなんだ。
 僕はわけもなく笑っていた。綿貫も。あり得ないだろ、こんなの。と彼の目が言った気がした。そう。あり得ないんだ。馬鹿げているんだ。でも拝望会が持つ意味なんて、それだけだろ。意味もなく友達とへとへとになって、あとにはなんにも残らない。それが全部なら、どれほど素晴らしいかわからない。
 二段目を上る。僕の息はもう上がっている。三段目で綿貫がバランスを崩した。僕の身体にはまともに体力が残っていなかった。その身体を支えたのは、橋本先生だった。
 彼は僕の反対側から、綿貫の背中に手を回す。
「準備をしていたんだ。君のために。本当に」
 苦しげな声で綿貫が答える。
「はい。ありがとうございます」
 橋本先生の手の懐中電灯は、山の木々を向いていた。僕たちの足元を、階段に並ぶ街灯の青白い光がどうにか照らしていた。だから橋本先生の表情はよくわからなかった。けれどうつむいた彼は、なんだか少し寂しげだった。
 投げ捨てるように彼が言う。
「どうして、お前らは、与えられたもので満足しないんだ」
 ああ。僕は、橋本先生が嫌いだ。彼はまがいなく優しくて、真面目で、僕らのことをなにも知らない。知ろうともしない。
 ハイクラウンの味を思い出す。
「それがつまり、貴方が悪だと言っているものなんじゃないんですか」
 いつか、緑色の目をした彼らを、黒い目をした僕たちが奴隷にしていたころだってきっと、同じことを言っていた。──どうして、与えられたもので満足しないんだ。
 橋本先生は首を振る。
「違う。私は、君たちが満足するまで与え続ける」
 そうじゃないんだ。そんな風に考えていちゃ、いけないんだ。与える側と与えられる側に線を引くべきじゃない。僕はただ、綿貫と拝望会を歩き切りたい。彼も同じように思っていてくれれば嬉しい。それが全部でなきゃいけない。
 でも橋本先生の腕は力強い。綿貫がずいぶん軽く、一歩を踏み出すのが苦痛ではなくなっていた。もう何段上っただろう? 僕はそのことを考えるのをやめた。
 もしも拝望会のゴールに辿り着けたなら、橋本先生に「ありがとう」と言おう。貴方のおかげで素晴らしい拝望会になったんだと伝えよう。僕は今も橋本先生が嫌いだけど、でもきっと、この階段で肩を貸してくれる先生は、彼の他にはいないから。できるだけ素直な気持ちで感謝を伝えよう。
 僕たちは三人とも、同じように息を荒くしていた。話を続ける余裕もなかった。夜の底で秋の虫たちが鳴いている。その音はずいぶん騒々しい。でもそれよりもずっとうるさく、心臓が鳴っている。
 僕たちは一段ずつを踏みしめる。夜風は冷たいのに身体の芯が熱く、次から次に汗が噴き出してくる。つんと草の匂いが鼻をついた。それは終わりつつある夏の残り香のようだった。
 また一段、拝望会が終わりに近づく。

#4-9へつづく
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