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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.32

茅森は坂口に、誰にも言っていない秘密を打ち明ける。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-6

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

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9、坂口孝文

 道の駅近くの交差点で拝望会の経路を外れて旧道に入ると、夜の闇が密度を増した。街灯の間隔がずいぶん広くなったことが理由だった。
 茅森が前を行き、僕はそのすぐ後ろに続く。この旧道の歩道は、肩を並べて歩けるほど広くはなかった。間近を自動車のライトが走り抜けていく。交通量は少ないけれど、どの車もずいぶん速度を出している。歩くのが怖い道だった。
 茅森は速い歩調で黙々と進んだ。僕は彼女についていくので必死だった。やがて茅森が、後頭部をこちらに向けたままぽつりと言った。
「貴方はどうして、図書委員になったの?」
 同じ質問を、桜井からも受けた。もう五か月も前に決めた委員会のことを、今さらふたりに尋ねられるのは不思議なことのように思えた。
 桜井に答えたものと同じ言葉を繰り返す。
「本が好きだからだよ。元々、図書委員になるつもりだった」
 すぐ前を歩く彼女が、わずかに首を振るのがみえた。
「噓。だって貴方は、すぐには手を挙げなかった」
 そんなことまで、よく覚えているものだ。
 僕はできるだけ素直な言葉を選ぶ。
「本当だよ。本も、あの図書館も好きだ。でもまず君が立候補したから、少し迷った」
「あのころの貴方は、私のことなんて気にも留めていなかったでしょう」
「面倒事には関わりたくなかったんだよ。クラスには、君を警戒する人が大勢いた。君にわざわざ近づくことに、まだ抵抗があった」
「だから、寒さに耐えるペンギンみたいにやり過ごそうとした」
「ペンギン?」
 思わずそう反復すると、茅森がふっと息を吐いて笑う。彼女は不機嫌なのだろうという気がしていたけれど、意外とそうでもないのかもしれない。
「なんにせよ、貴方は手を挙げた」
「うん」
「私に同情したから?」
 茅森の質問は、ずいぶん的外れなものだった。
「同情なんて、嫌いだよ」
「どうして?」
「君は同情されたいの?」
「いえ」
「だからだ」
 わざわざ理由を説明するようなことじゃない。
 僕はこんな話、さっさと打ち切ってしまいたかった。でも茅森は続けて尋ねた。
「じゃあ、共感は?」
 上手い返事が出てこなくて、時間稼ぎみたいに僕は尋ね返す。
「同情とどう違うの?」
 茅森は、教室で先生に当てられたときの彼女がいつもそうしているように、よどみのない口調で答えた。
「同情するのは、自分よりもかわいそうな人が相手のときだけでしょう。アメ玉をひとつしかもらえなかった子が、ふたつもらえた子に同情することはないでしょう。けれどアメ玉がひとつでもふたつでも、もっと欲しいって気持ちには共感できる」
「君は説明が上手いな」
「それで?」
 正直なところ、僕はこれまで共感という言葉について考えたことがなかった。だからそのまま、「わからない」と答えた。
「君は?」
「私は共感も嫌い」
「どうして?」
「価値観が似ていることに、安心するのが嫌だから」
「どうして、嫌なの?」
「共感し合える友達より、共感できなくても一緒にいられる友達の方が素敵でしょう。私は私で、貴方は貴方で、どうしたってわかり合えないのに、それでも尊重し合える関係が美しいでしょう」
 この子はなんて純粋なんだろう。なんて夢のようなことを言うんだろう。
 あんまり綺麗なものをみたときは、なんだか少し泣きたくなる。そんな気持ちで顔をしかめて、彼女の背中に首を振る。
「いいじゃないか。安心したって」
 僕たちはわかり合えるんだということを、素直に喜んでもいいじゃないか。茅森の言葉は純度が高い真水みたいだ。それはよく澄んでいる。でも、もう少し濁った水の方が、多くの生き物にとっては暮らしやすいだろう。
「君と同じ図書委員になれてよかったよ。おかげで少しは、君のことがわかった」
 茅森はほんの一瞬、ちらりとこちらを振り向いた。
「貴方が私の、なにを知っているっていうの?」
 それほどは知らない。ほとんどなにも知らない。でも、少しだけ知っている。とても大切なことを、ほんの少しだけ。
「たとえば僕の我儘を、ハイクラウンで許してくれること」
 だからこうして、歩きづらい夜道を一緒に歩けること。
 もちろん彼女は、ひと箱のチョコレートが欲しくて自分の意思を曲げたわけじゃないだろう。あんなのただの言い訳だ。本当は茅森だって、綿貫や八重樫を否定したくはなかったのだろう。でも彼女自身の価値観が、ふたりを見過ごすことを許さなかったのだろう。
 またすぐそばを自動車が走る。そのエンジン音が右側の頰を打つ。この道を車椅子で進むのが、どれほど怖ろしいかわからない。
 当たり前に考えて正しいのは茅森の方だった。綿貫のことは、すぐに先生に報告するべきだった。彼や八重樫や僕は間違っていて、でもその間違いを、茅森はささやかな言い訳ひとつで許してくれた。彼女は徹底して優しく僕たちを見下す。
「たしかに貴方は、私のことを知っている。制道院の中で、きっといちばん」
 茅森が珍しく、躊躇いがちに言った。
「もしも私たちが図書委員でなかったなら、色々なことが変わっていたのだと思う。六月のあの日、貴方が図書館にいなければ、泣いているのをみられることもなかった。私は貴方にだって、もっと強がっていられた」
 そうならなくてよかった、と僕は思う。茅森がただ強いだけではないんだと知ることができて。
「君は、どうして図書委員になったの?」
 彼女が図書委員を選んだのは、少し不思議だ。図書館で本棚の整理をしているよりはもう少し華やかな、選挙の票集めに繫がりそうな委員会だってあるはずだ。
「昔読んだ脚本を探しているの」
「うちの図書館にあるの?」
「わからない。でも、他には思いつかなかったから」
「どんな脚本なの?」
「清寺さんの、未発表の脚本だよ」
 その作品は、「イルカのうた」というタイトルなのだと茅森は教えてくれた。
 かつて茅森はその脚本を半ばまで読み、強い感銘を受けた。彼女にとってそれがどれほど重要な体験だったのか、ぽつりぽつりと話してくれた。だから続きを読みたくて、ずっとその脚本を探している。でもみつからない。
「清寺さんは、あの脚本をどこかに残しているような気がするの。それで思い当たったのは、制道院だけだった」
 なるほど、と僕はささやく。
 制道院の図書館には、多くの清寺時生の資料が残されている。一般には公開されていない資料にまで目を通したいのなら、図書委員になるのが最適だ。
「みつかるといいね」
「うん」
 隣を大きなトラックが走り抜け、そのライトが、あくびをするほどのあいだ茅森の横顔を照らした。彼女は真剣な表情で、前を向いてハイクラウンをかじる。
「私の本当の目標は、イルカの星で暮らすことなんだよ」
 と彼女は言った。

 道路の片脇の空き地に、いくつもの廃品が積まれていた。
 冷蔵庫だとか、電子レンジだとか、スチールラックだとか。どうして山中の空き地に、廃品の山があるのだろう。近くにそれらをリサイクルする工場でもあるのだろうか。月光に照らされる廃品の山は寒々しくみえた。どこか知らない星の文明が終わったあとみたいだった。その空き地の片隅に、綿貫じようと八重樫朋美がいた。
 綿貫は車椅子に腰を下ろし、八重樫はその後ろに立っている。ふたりは共に夜空を見上げている。月には薄い雲がかかり、その輝きがにじんでいる。
「綿貫」
 僕は彼の名を呼ぶ。歩み寄ると彼の困ったような笑みが、淡い月明かりに照らされていた。
 綿貫がこんな形で拝望会に参加した理由は、尋ねないでおこうと決めていた。どうせ言葉で聞いてもわかるわけがないのだから。綿貫の方もあれこれと言い訳を並べることはなかった。彼は月から視線を落として、躊躇いがちに言った。
「天気が良いな」
「うん」
 僕は車椅子の後ろに立ち、車輪のブレーキペダルを上げる。八重樫に目を向けると、彼女は小さな声で「ごめんなさい」とささやいた。別に、そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。できるなら僕が綿貫の車椅子を押しても良いのか尋ねたかった。でも、本当に尋ねてしまうと、とたんに僕はその資格を失うのではないかという気がした。
 ハンドルをつかんで、できるだけゆっくり足を踏み出す。
「急ごう。少し遅れている」
 夜空を見上げて彼は答える。
「実はそろそろ、棄権しようかと思っていたんだ」
「どうやって?」
「さあ。そういえば考えていなかったな」
「カップ麵は持ってきたんだろう?」
「一応ね。別に、どこでだって食べられる」
「でも、世界一美味い場所で食べた方が良い」
 空き地を出る。道路は少し上り坂になっているようだった。僕は強くハンドルを握りしめて、力を込めて一歩ずつ踏み出す。ここから鉢伏山までどれほどの距離だろう。五キロよりは長い。一〇キロはないはずだ。時刻は午後七時三〇分を過ぎている。九時を回ると拝望会は打ち切られる。そのときまでに僕たちが正規のルートに戻っていなければ、もちろん問題になるだろう。
「次の公衆電話まででいい」と綿貫は言った。「オレの拝望会は、もう充分だ」
「どれくらい歩いたの?」
「さあ。自分で走ったのは、二、三キロってところじゃないか。バスの乗り継ぎがなかなか難しくてね」
「楽しかった?」
「いや。疲れただけだ」
「そう」
「でも、月は綺麗だよ」
「ならよかった」
 この行事にどんな歴史があろうが、だれがどれほど崇高な目的を持っていようが知ったことじゃない。拝望会は、ただ望月を拝む会だ。なら、月が綺麗なだけでいい。
「行けるところまで行こう」
 と僕は言う。
 綿貫は、一見するとシニカルな笑みを浮かべる。
「おんなじことを、小学生のころに考えたよ。四年だったかな。家出ってのをしてみたくてね。たしか、なにかつまらないことで父さんとケンカしたんだ」
「どこまで行ったの?」
「けっきょく、出発さえしなかった。うちの門の前で、ずいぶん悩んでしまったんだよ。右に行くべきなのか、左に行くべきなのか。どっちでもよかったんだ。でも、なんだか心細くなって、けっきょくみんな諦めた」
「そう」
「あのとき、オレの行けるところってのは、門の前までだった」
「今は違う」
「どうかな。そう違わなかったよ」
 歩きづらい道だった。歩道にはガードレールさえない。車道の片脇のどうにか車椅子と同じ程度の幅が、白線で区切られているだけだ。今日彼はこんな道を、何キロもひとりで車椅子をこいで進んだのだろうか。
 綿貫は車椅子に、ゆったりと背を預けている。
「たまに、足のことを考えるんだ。もしもこいつがまともに動けば、オレはどこまで行けるんだろうって考えるんだ。それは、苦しいことなんだよ。いろんな言葉で強がって、この足のことを認めてやるのは、苦しいことなんだ」
 こんな話を、綿貫が僕にするのは初めてだった。こんな、あいづちを打つのさえ難しいような話を。
 勇気を出して、僕は「わかるよ」と答えた。
 それはきっと、途方もなく愚かな言葉だった。綿貫は微笑んで、僕の愚かさを見過ごしてくれた。
「オレはずっと、苦しいままでいたいんだ。楽になりたいなんて、ちっとも望んじゃいないんだ。でもみんな、その邪魔ばかりをする」
「僕も」
「君も」
「八重樫は?」
「オレに同情しないのは、あいつだけだよ」
 だとしても僕は、綿貫と共に拝望会を歩きたかった。どれほど一方的な我儘でも、この時間を求めていた。
 綿貫が顔を後ろに向ける。
 茅森と八重樫が、一〇メートルほど後ろを歩いている。
「まさか、茅森まで来るとは思わなかったよ」
 彼の言葉に、僕は強がって苦笑を浮かべる。
「あの子は、ずいぶん心配していたよ」
「それは申し訳ないことをしたな」
「もしもそれが同情でも、同情のすべてが間違っているわけじゃない」
 同情が嫌いだ、と僕は茅森に言った。茅森は、共感さえ嫌いだと言った。でもどちらも本当は、悲しいだけのものじゃないはずだ。残酷なだけのものではないはずだ。愛も友情もあるはずなんだ。
 ああ、と綿貫が、小さな声で応えた。彼の目は寂しげだった。でもそれは、彼の綺麗な瞳に僕の方の感情が映り込んだだけなのかもしれない。
 軽く息を吸って、覚悟を決めて、僕は魔法の言葉を口にする。
「茅森が好きなんだ。なんとか気に入られたいと思ってる」
「そう。それで?」
「僕のために、津村浩太郎を打ち負かしてくれないか」
「わかった」
 軽く頷いて、綿貫が前に向き直る。それで彼の繊細な瞳がみえなくなる。静かな声で彼は続けた。
「代わりに、もうしばらく車椅子を押してくれ」
 僕たちが歩いているこの場所は、なにもかもがイルカの星に届かないのだろう。月の明るさに気を取られて、まったく見当違いの方向をみているんだろう。
 それでも僕は、今夜を幸せと呼ぶことを、できるなら許されたかった。

#4-7へつづく
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