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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.30

茅森は友達になりたい八重樫を捜すが――。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-4

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

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6、茅森良子

 勾配一〇パーセントの標識を横目に、私たちは歯を食いしばって坂道を上った。
 一〇度ってこんなに急なのと班員のひとりがぼやく。心情的にはまったくの同感だが、この道の実際の角度は一〇度ではない。勾配一〇パーセントとは、一〇メートルの距離で一メートル高度が上がる、という意味で、実際の斜面の角度は六度程度しかない。なのにその六度が今は壁のようにみえる。垂直、は言い過ぎだとしても、三〇度ほどは傾斜がついているような気がする。標識がうそなのではないだろうか。
 日はもうほとんど暮れていた。森さんの顔も瀬戸さんの顔も薄暗がりの向こうに隠れていた。長い距離を置いてぽつん、ぽつんと立つ街灯の下を通るときだけ、ふわりとその肌の色が浮かび上がった。
 私は班員に遅れが出ないよう、最後尾を歩いていた。森さんとあとのふたりは、まだしっかり歩けている。でも瀬戸さんは限界が近いようで、身体の軸が左右に大きくずれる。彼女の腰の辺りに、私はそっと手を添えた。
「まずは、次の街灯まで歩こう」ぐっと彼女の腰を押す。「先のことは考えなくていいよ。次の街灯まで。次の街灯まで。小さなゴールを、ひとつずつクリアすればいい」
 その簡単なことの繰り返しだ。ただそれだけで、どこにだっていける。どれだけ遠い場所だって。歩くことをやめなければ、私たちは無敵だ。
「やっぱりさ」
 小さな声で、瀬戸さんがつぶやく。「ん?」と一音だけで私は尋ねる。
 彼女の苦笑に似た顔を、次の街灯が照らした。
「茅森さんは、疲れないんじゃない?」
 そんなことはない。でも、坂道のようなものを歩くために、私はこの制道院にやってきた。
「少しつま先を外に開いて。一歩は小さく。足が着いてから体重を移すように歩くと良いらしいよ」
 なんて、昨日調べたばかりの知識をひけらかす。彼女の腰を押す手に力を込める。ゴールは近い。たぶん。
 瀬戸さんは黙々と急な坂道を上る。顔を上げても、宿泊施設はまだみえない。山の木々に隠されている。彼女のリュックを代わりに持っている森さんが、歩調を緩めて私の隣に並んだ。
「やもりんは、もっと怖い人だと思ってたよ」
 なんだ、それ。私はいつだって優しいつもりだ。
 でも彼女が言いたいことも、なんとなくわかる。
「私もだよ。制道院は、もっと怖いところだと思ってた」
 敵しかいないと思っていた。気味の悪いものに身を投じるつもりだった。でも違う。ここにいるのはただ一四歳の私たちだけだ。そのことを知らなくて、知らないから怖がっていた。
 躊躇ためらうような、小さな声で森さんが言った。
「やもりんは、拝望会が嫌い?」
 拝望会。海を目指して、三〇キロを歩くだけの行事。綺麗な満月を見上げながら、カップ麵をすするための平和なイベント。けれどその成り立ちに、目の色の違いによる侵略戦争が関わっている気持ちの悪いもの。
 彼女の質問に、私は首を振る。
「全然。たまに、嫌わないといけない日があるだけだよ」
「なに、それ?」
「なんでもない」
 言われて気づいた。たしかに意味がわからない。なんだ、嫌わないといけない日って。いったいいつだ。昨日なのか、五〇〇年前なのか知らないけれど、少なくともそれは今日ではない。
「今は好きだよ」
 と私は答える。
 それから拝望会に、経路選択制を持ち込んだことを、少しだけ後悔した。なんだか山の上の展望台まで歩きたい気持ちになっていた。それはなんの象徴的な意味も持たない、過去の歴史から切り離された、今日一日の私の個人的な思い出として。坂口が昨年食べた世界でいちばん美味しいカップ麵を、私も試してみたかった。
 疲れ切った頭の中で、かちんとなにかがみ合う。綿貫が、生徒会選挙への協力の交換条件として経路選択制の取り止めを提案した理由だとか。八重樫が、図書館の物置き部屋で私に言ったことだとか。そんなあれこれがつながったような気がした。まだ上手く言葉にはまとめられない。でもなにかが嚙み合って、ひとつの納得が生まれた。
 ──私も、展望台まで歩こうかな。
 なんて、言ってみたくてずいぶん悩む。
 そのあいだに森さんが言った。
「やっぱり、海浜公園の方にしようかな」
 簡単にそう言える森さんが、少しだけうらやましい。私もいつか、彼女と同じ声色で同じことが言えるだろうか。イルカの星で暮らせたなら、それはなんにも難しいことじゃない。
 あ、と瀬戸さんが、小さな声を漏らした。
 彼女は顔を上げていた。その視線を、私も追いかけた。
「月だ」
 と森さんがささやく。
 ガードレールの向こうの真っ黒な木々のあいだの生まれたての夜空に、まんまるの月が浮かんでいる。
 瀬戸さんの腰に添えた手にかかる負荷が、少し軽くなっていた。

 宿泊施設に辿り着いたのは、午後六時を一五分ほど回ったころだった。
 施設の玄関に先生が立っていて、辿り着いた班をチェックしていた。ここで棄権を申し出れば、もうこれ以上拝望会を歩く必要はない。例年、四割ほどの生徒が脱落するのだという。
 私は担当の先生に頼んで、八重樫朋美がすでに棄権していることを確認した。でもできるなら、彼女と一緒に拝望会を歩きたい。今ならもう少し正確に、彼女の言葉を受け取れるのではないかという気がしていた。具体的な根拠はないけれど、なんとなく。
 食堂では夕食──おにぎりと簡単な総菜のお弁当が配られていた。それを受け取ったら、班での行動はおしまいだ。
 ──これを食べて、八重樫を捜そう。
 海浜公園までは八・五キロ。往復では一七キロ。それを八重樫と歩けたなら、どれほど素敵だろう。
 意地ではない。打算でもない。今はもう違う。
 私は八重樫朋美と友達になりたかった。

7、坂口孝文

 空を見上げても、もう夕暮れの欠片かけらも残っていなかった。
 午後六時三〇分。僕は病院みたいに面白みのないデザインの、宿泊施設の壁に背を預けて、水筒の麦茶をひと息に飲んだ。夜風は涼しいのに、身体の芯が熱い。汗が次々に噴き出してくる。となりで野見も、同じようにしていた。僕は尋ねる。
「海浜公園に行くの?」
 野見は、軽く頷いた。
「あっちには階段もないからな」
「そう」
「お前は?」
「展望台」
 これからまた七キロも歩いて、しかも三〇〇段の階段を上るというのは馬鹿げた話に思えた。でも歩かないわけにもいかない。
 僕は片脇に置いていたリュックを開き、詰め込まれたお菓子の中からハイクラウンを選んで取り出した。ハイクラウンは素敵なチョコレートだ。白い、タバコを模した小箱に、細長い板チョコが四枚入っている。僕はハイクラウンの封を切って、野見に差し出す。彼はその中の一枚を抜き出す。僕も同じように一枚取って、銀色の包装紙を外す。日中をリュックの中で過ごしたハイクラウンは少し溶けかけていて、やわらかだった。口に含めば甘く、でも後味は苦い。チョコレートは勇気に似ている。
「やっぱり、展望台には行けないものなの?」
「ん?」
「僕にはわからないから」
 たぶん、どうしても。いくら想像してもみんな的外れなんだという気がする。
 野見はその緑色の目で、じっと僕をみていた。彼はハイクラウンをかじる。それから軽く首をかしげる。
「行けないってことはないよ。別に。でもあそこ、石碑があるだろ」
「うん」
 鉢伏山の展望台には洋風の墓石みたいな四角い石碑があり、そこにはおよそ五〇〇年前に起こった歴史的事実が書かれている。つまり黒い目の兵隊が緑色の目の領地を攻撃し、大勢を殺したという記述だ。
「あれ、どう思う?」
 僕は少し悩んだけれど、でもできるだけ素直に答える。
「別に。なんとも」
 石の塊に、文字が彫られている。教科書みたいな文章だなという気がする。長い文章でもないけれど、半分くらいで飽きてしまって、あとは流し読みになる。
 野見は笑った。
「オレは、関係ないだろって気がしたよ。オレにとっては、こんなもんよりチョコレート一枚の方がずっと大事だろって思った」
「それで?」
「わざわざそんなことを考えてたんだから、たぶん本当は、なんの関係もないってことはないんだよな」
 なるほど。じゃあ僕とは、まったく違う。
 拝望会は僕たちをへとへとにして、少しだけ内側を露出させる。だから僕も野見も、同じハイクラウンをかじる。
「いつ登ったの?」
 あの展望台まで。
「小四だったかな。ちゃんがいて。なんかうちにきて、散歩だって言って、なのに車に乗せられて」
「うん」
「たしかちゃんの命日だったんじゃないかな。そっちはオレが生まれるずっと前、親父がまだ三歳だか四歳だかのときに死んじゃったんだけど」
「うん」
「だから、四五年くらい前なのかな。祖母ちゃんが倒れて、それで祖父ちゃんが一一九に電話したんだよ。で、救急車が来て、前の通りでまって。でもそのまま、また走っていったんだってさ」
「どうして?」
「祖父ちゃんの話じゃ、うちの近所でもうひとりぶっ倒れたらしい。祖母ちゃんが乗るはずだった救急車は、そっちに取られたんだって言ってた。で、祖母ちゃんは死んだ。心筋こうそくだったかな」
 野見は、目の色については語らなかった。でもこれは、そういう話なんだろう。一台の救急車が、緑色の目よりも黒い目の命を優先したという話なんだろう。
「祖父ちゃんが何度も叫んだのに、救急車は窓も開けなかったんだ。助手席のひとりが、ちらっと祖父ちゃんの方をみただけだったんだ」
 彼はチョコレートをかじる。
「わざわざ何百段も上って、つまんない石の前でそんな話を聞かされて、オレにどうしろってんだよ。関係ないだろ、そんなの。わざわざ関係ないって言ってるのも面倒だろ」
 だからだよ、とつぶやいて、野見は話を切り上げた。
 僕は彼に話したいことがあったけれど、上手く言葉がまとまらなかった。僕にはなにを言う権利もないんじゃないか、という気がした。理屈で考えればそんなわけもないのに。彼は同じ寮生で、今日拝望会を共に歩いた友人のひとりだ、ということが事実のすべてなのに。
 どうにか言い訳じみたことを口にする。
「僕は、綿貫に自慢したいだけなんだ。展望台まで歩いたって」
 去年と同じようにへとへとになったよ。去年と同じ拝望会だったよ。──そうあいつに報告したいだけなんだ。
「うん。いいと思う」
 野見はハイクラウンの最後のひと欠けを、口の中に放り込んだ。

 僕はしばらく、野見の隣でうつむいていた。
 本当はもう、出発の準備をしなければいけない。宿泊施設の食堂に行って空になった水筒に冷たい麦茶を詰め直して、弁当を受け取って、あの展望台を目指して歩き出さなければいけない。でもなかなか立ち上がるタイミングをつかめないでいた。
 やがて足音が聞こえてきた。きびきびとした、疲れを感じさせない足音だった。
 僕はその足音の正体を確信していた。理由はない。でも顔をみるのと同じように、音だけではっきりわかった。──ああ。茅森だ。
 顔を上げると本当に、そこに茅森良子がいた。離れた場所の街灯の弱い光がどうにか届いた彼女の瞳は、普段よりも深い緑色にみえた。
「お疲れさま」
 とそういった茅森の言葉が、彼女の張り詰めた声に似合わなくて笑う。
「お疲れさま。拝望会はどう?」
「楽しいよ。とっても。ところで、八重樫さんをみなかった?」
「八重樫?」
「海浜公園まで、一緒に歩こうと思って」
「そう。坂の下でみかけたよ。もう少し待ってみたら?」
 僕が答えると、茅森は顔をしかめる。
「本当に?」
「うん」
「おかしい」
「なにが?」
「八重樫さんは、私より先にここのチェックを受けてるよ。棄権の欄に印があった」
 不思議な話だ。茅森は僕たちよりも前を歩いていた。その茅森よりも先に八重樫が宿泊施設に辿り着いていたなら、どうして坂の下で彼女をみかけたのだろう。
「引き返した?」
 と僕はつぶやく。
 間を置かずに茅森が答える。
「でも、どうして? そもそも拝望会を逆に進んでいる子がいたら、私も気づいたはずだよ」
「なら、まだここに着いてないのに、先生が間違えてチェックしたのかもしれない」
「あり得る?」
「可能性としては。ひとつずれた欄に印を入れたとか」
 人がしていることなのだから、単純なミスがないとは言い切れない。
 だが茅森は首を振る。
「あの子の班の、他のメンバーにも印がついてた。五人もまとめて間違える?」
「別の班と勘違いしたのかもしれない」
「二年の女子じゃたったひと組だけ、全員が緑色の目をしている班を?」
 たしかにそれは考えづらい。ならやはり八重樫は、すでにここに到着しているのだ。先生に拝望会を棄権すると告げて、それからわざわざ坂の下まで引き返した。
「ルートはある」
 と茅森がつぶやく。
 拝望会の運営委員だった僕たちは知っている。この宿泊施設から八重樫をみかけた道の駅までは、正規の経路の坂道とは別の道でも下りられる。山道を歩くハイキングコースがあるのだ。でもそちらは足場が悪く、明かりも少ないからこの時間に歩くのは危険だ。
 物理的には八重樫は、人目に触れず道の駅まで引き返すことができた。でも、そんなことをしてなんになる?
「捜しに行く」
 そう言った茅森は、くるりと僕に背を向けた。
「わかった。一緒に」
 このときは、両足の疲れも忘れていた。
 僕は慌てて立ち上がり、足早に茅森の背中を追った。

#4-5へつづく
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