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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.35

【連載小説】茅森と坂口は展望台で同じ月を見あげる。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-9

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

※本記事は連載小説です。

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12、茅森良子

 三人の背中を見上げていると、わけもなく泣きたくなった。
 悲しいわけじゃない。少し悔しい。どうして橋本先生よりも先に、私が肩を貸せなかったのだろう。
 八重樫は車椅子を折りたたみ、それを抱えて階段を上った。私は彼女を手伝った。車椅子はずいぶん重い。私たちはゆっくり、ゆっくり進む。でもそれは遅すぎるということもない。綿貫と、彼に肩を貸す坂口や橋本先生の歩みに合わせるのにちょうどよい速度だった。
 坂口と綿貫の選択は、やはり正しくはないのだと思う。我儘だ、と非難されても仕方のないことだ。
 来年の拝望会は、こんな風にはしない。やはり学校の行事は、安全に配慮されていなければいけない。誰にも非難されないものでなければならない。理屈を無視して、感情だけで物事が進んではならない。
 それでも、三人の背中は美しかった。ひとつの物語みたいに私の胸を打った。
 私はきっと、いつまでもこの夜を忘れないだろう。
 これから先、どれほど理性的で正しいことを語っているときでも、だれかの我儘や過ちを非難しているときでも、私自身への強い反論として彼らの背中を忘れないだろう。八重樫が守ろうとしたものがこの景色だったなら、私はいつまでも彼女に対する敬意を持ち続けていられるだろう。
 私は冷たく、厳しいものを求めて制道院に転入した。
 でもここに、そんなものはなかった。
 ただ私と同じとしの彼ら彼女らがいるだけだった。坂口や、八重樫や、綿貫が。それは冷たいものではなかった。でも私が知らないものを知っている人たちではあった。私が知らない、きっと美しいものを。
 だから、制道院に来てよかった。
 私がこの学校のすべてを好きになることはないだろう。それでも、この拝望会を歩けたことはきっと、いつまでも私の誇りであり続ける。
 夜の闇の中で、虫の音と、私たちの息遣いだけが聞こえていた。
 やがて曲がりくねった階段の先に、展望台がみえた。

 最後の一段を上ってから、綿貫が大きな息を吐いた。彼は八重樫が開いた車椅子に腰を下ろし、「ありがとう」とささやいた。
 橋本先生は、綿貫のことを報告するためだろう、携帯電話を取り出した。
 坂口は階段を上り終えたところで座り込み、荒い息で夜空を見上げていた。私は彼に歩み寄る。
「拝望会は、どうだった?」
 そう声をかけると、彼はずいぶん幼くみえる顔で笑う。
「最高だった。君は?」
「まったく思い通りにいかなかった」
 私は彼の隣に腰を下ろす。疲労のせいだろうか、小さく耳鳴りがする。
 展望台にはすでに、人の姿はまばらだった。満月を見上げて私は続ける。
「予定外のことばかり。もう足がぱんぱんだし、喋るのもおっくうだし、選挙のことを考えると憂鬱だし」
「でも、月は綺麗だ」
「うん。まあ、悪くはない。とてもいい」
 綿貫の車椅子を押して、フェンスに近づく八重樫がみえる。ふたりはなにか話しているようだけど、こちらまでは聞こえない。
 座り込んでいると、秋の夜は少し肌寒い。隣の坂口の熱を感じるような気がして、それが妙に気恥ずかしかった。私がじっと前方をみつめていると、彼が言った。
「二年後、君は生徒会長になるよ」
 なにを、急に。
「ええ。そのつもり」
「僕も全面的に協力する。そんな必要もないかもしれないけれど」
「どうして?」
「なにが?」
 ふとした気まぐれで、私は冷たく聞こえる返事をする。
「関係ないでしょう。私が生徒会長になろうが、貴方には」
 坂口は笑ったようだった。彼の方をみていたわけではないけれど、なんとなくそんな気がした。
「そうでもない。ハイクラウンで買収できる生徒会長は、とっても素敵だ」
 彼の返事は、私が期待したものではなかった。
「私は──」
 真面目な話をしているのだ、と言ってやるつもりだった。でも言葉が途切れた。月から坂口に目を移すと、彼の方も私をみていた。別に、普段通りの彼の目だ。まるっこくて、子供っぽい。でも知的ではある。
「本当に。君がただの優等生なら、どうでもよかった。尊敬はするけれど、たぶんそれだけだった。でも今は心から、君に総理大臣になって欲しいと思っている。そのために僕にできることはなんでもしたい」
「貴方、総理大臣をハイクラウンで買収するつもりなの?」
「次は新品を用意するよ」
 私は思わず笑う。
「別に、なんでもいうことをきくわけじゃないよ」
「そう」
「今夜は例外。たまたま、買収されたい気分だっただけ」
「うん。だから、応援する」
 もしもあのとき、八重樫と綿貫を一緒に捜した相手が坂口でなければ、この夜はまったくの別物になっていただろう。より正常で、よりありふれた夜だっただろう。私はハイクラウンのひと箱で買収されることなんてなくて、綿貫のことはすぐに先生に報告して、彼は安全な車の中だっただろう。
「とても嬉しい」と私は答える。「貴方が協力してくれるなら、きっとなんでもできる」
 本当に。
 今夜みたいに、隣に坂口がいたなら、きっとイルカの星だってあっけなくみつかる。そんな気がする。
「僕がいなくても、君はなんだってできるよ」
「そうでもないよ」
 少なくとも今夜、この展望台まで歩くことはなかった。階段を上るあいだ、彼の背中ばかりみていて、目の色のことを一度も考えないなんてことはなかった。
 坂口孝文とは、なんだろう。いったいどんな人なんだろう。いまだによくわからない。普段は寡黙で、背が少し低くて、勉強ができて、なのにテストを白紙で提出する、優しいけれど頑固な少年。そんなこと春から知っている。この何か月間かで、私は彼のなにを学んだだろう。
 彼の声は甲高いけれど、口調はクールでアンバランスだ。
「綿貫の協力を取りつけた。津村さんのことは、たぶんなんとかなる」
「今夜のことで?」
 坂口が、この拝望会であったことを、綿貫への交換材料に使うのは意外な気がした。それを意外に感じるのだから、私は春よりは多少、坂口に詳しくなったのだろう。
 彼は首を振る。
「違うよ。魔法の言葉を使った」
「どんな?」
「秘密。青月寮の候補者は大丈夫?」
 津村浩太郎を立候補させられなかった場合に備えて、私は青月の、別の寮生にも声をかけている。
「たぶん、大丈夫。とりあえず向こうは、役員になれれば満足だと思うから」
 予備のもうひとりは、書記にでもしておけばいい。
「そう。じゃあ僕は、津村さんの選挙活動を手伝うよ。彼にもそれなりに票を集めてもらわないといけない。上手く紅玉の票とは食い合わないようにする」
 ありがとう、と私は答えた。
 でも今はこんな話をしたいわけではなかった。もう少し、綺麗な満月とそれが照らす夜の海にふさわしい話がしたかった。
「なにか、不安材料はある?」
 と坂口が言う。
 私は答える。
「とりあえず、目の前にひとつ」
「なに?」
「カップ麵のお湯がない」
 カセットコンロと片手鍋を借りる約束をしていたのだけれど、その相手は海浜公園の方にいるはずだ。
「それは大問題だね」
「貴方は?」
「なんにもない。カセットコンロを持ってたんだけど、カップ麵と一緒に置いてきた」
「どうする?」
「誰かに借りるしかない」
 彼は展望台を見渡して、一方を指さす。その先には、桜井たちのグループがいる。
「貸してくれるかな?」
 そう尋ねると、坂口は「きっと」と頷く。私もなんだか上手くいくような気がしていた。桜井真琴は、私に友好的ではないけれど、それでも優しい子なのだろう。
 私は背負ったままだったリュックを下ろす。
「はんぶん食べる?」
「いいの?」
「うん」
 頷いて取り出したカップ麵をみて、坂口は噴き出すように笑った。
「焼きそば?」
「うん」
「そこはラーメンでしょう」
「そう?」
 カップ麵は焼きそばがいちばん好きだ。二番目はうどんだ。
「お湯をもらってくるよ」
「私がいく」
 相手が桜井であれば、私から頼むのがフェアだ。なんだかそんな気がする。
 カップ麵を手に、彼の隣から立ち上がって、私はもうひとつの問題に思い当たる。
 ──そういえば割り箸が、一膳しかない。
 別に使いまわせばよい。気にするようなことじゃない。普段の私であれば、そう提案していたように思う。でも坂口と同じ箸を使うところを想像すると、妙な抵抗感があった。ほんの一瞬、鼓動が止まり、それがとくんと強く打った。
「どうしたの?」
 と後ろで彼が言う。
 別にと短く答えて、私は足早に歩き出した。

 箸を一本ずつわけあって食べた焼きそばは、ひどく食べづらく、おそらく世界でいちばんしかった。
 それから八重樫が持っていた使い捨てのカメラで、何枚かの写真を撮った。もちろん八重樫と綿貫のもの。彼女と私のもの。坂口と綿貫のもの。八重樫の希望で、彼女と私に桜井が加わったもの。
 最後の一枚は、私と坂口の写真だった。
 私はその背景に、展望台にある石碑を選んだ。その石碑には、かつてこの土地で起こった、黒い目の誰かが緑色の目の誰かを侵略した戦争について書かれていた。
 その石碑の前で、私と坂口は向かい合い、真面目な顔で握手を交わした。
 なかなかよい写真が撮れたと思っていたのだけれど、翌月になって現像されたものをもらったときには、つい苦笑したものだ。石碑の前には明かりがなく、月光と使い捨てカメラのフラッシュでは、ただ暗いばかりでなにが写っているのかよくわからなかったから。私の目は妙に赤く輝き、なんだか怖いなというのが坂口の感想だった。
 その写真が届いたころ、選挙を終えて荻さんが次の生徒会長に決まった。

幕間/二五歳

坂口孝文

 手の中のトランシーバーが、音を立てた。
 僕は応答のボタンを押す。
「茅森」
 トランシーバーはしばらくのあいだ、ざらついたノイズだけを鳴らしていた。僕はじっと耳を澄ます。
 やがて電波の向こうから、声が聞こえた。
「あの日、どうして時計が反対に回ったのか、ようやくわかった」
 僕は息を吞む。ああ。茅森だ。ノイズ混じりでも聞き間違えはしない。彼女の表情が自然に浮かぶ声だ。唇の端に力を込める。
 かつて、彼女と過ごした時間を思い出していた。ここに来てからずっとそうだ。今朝起きてから、昨日眠る前からずっとそうだ。でも、いっそう生々しく。ただ無機質なテキストだった記憶がふいに立ち上がり、形を持ち、色や匂いを放つように。
 不機嫌そうな声で彼女は言った。
「やっぱり私は、貴方が嫌い」
 僕はどうにか尋ねる。
「どこにいるの? すぐに、そっちに──」
 それを遮って、彼女は続ける。
「ずっと嫌いだった。きっと、初めて会ったころから。何度も許そうとしたけれど、どうしても上手くいかなかった」
 知っている。そんなこと。
 なのに彼女の言葉は止まらない。
「学校を出て、ずいぶん経って、ようやく貴方を忘れられた。そう思ったけど、でも、違った。時計の意味がわかったとたんに、またあのときの感情が浮かび上がってきた。どうしようもなく。貴方は私を馬鹿にしている。ずっと私を見下している」
「違う。尊敬している」
 本当に。これまでに出会った誰よりも。
 僕はずっと茅森良子を見上げていた。制道院にいた頃も、ここを卒業してからも。
「僕は決して、君のようにはなれない。どうしたって君ほど強くない。たしかに初めは、君のやり方に違和感があったよ。もっと平穏にここで過ごす方法もあるんじゃないかと思った。でも、君が求めているものは、ただ問題が起こらないだけの毎日なんかじゃないんだってすぐにわかった」
 トランシーバーの向こうで、茅森が苦笑したようだった。
「貴方だって、同じでしょう。意地を張って白紙のテストを提出し続けたんだから」
「あれは、僕が馬鹿だっただけだ」
「つまり同じように意地を張る私も、馬鹿だと思っていたってことでしょう?」
「違う。君と僕じゃ──」
「ええ。違う。同じことをしても、貴方自身にとっては馬鹿げていて、私であれば尊敬できるという」
「そうじゃない。君と僕じゃ、意地の張り方が違う。僕はただ感情的だっただけだよ。でも君は、目標に向かって進んでいた」
「噓。私だっていつも、感情的よ。知っているでしょう」
 茅森の言葉には違和感があった。彼女らしくなかった。
 そもそも制道院までやってきたのに、僕の前に姿をみせないのは茅森良子のイメージに反している。彼女の言葉も態度も、長く複雑なひとつの問いかけのようだった。
 茅森はどこにいるのだろう? このトランシーバーの電波が届く距離は、障害物がなければおよそ二キロ。でも制道院の校舎の壁は厚い。もっと近いはずだ。
 トランシーバーが言った。
「拝望会の夜、私はどうして貴方に、イルカの星のことを話したんだろう。あんなことをしなければ、貴方とは仲の良い友達でいられたかもしれないのに」
 僕はわけもなく首を振る。
「話してくれて、よかった。君のことが、少しはわかったから」
「でも、だから貴方は、私を裏切った」
 違う。と言いたかった。
 でも茅森の言葉は、間違いなく真実の一部ではあった。茅森にとって「イルカの唄」と題された脚本がどんな意味を持つのか、そこに描かれたひとつの惑星がどれほど彼女の希望なのかを知らなければ、僕は八年前の夏、あんなことをしなかっただろう。
「もしも貴方が、時計の意味を説明していたなら、どうなっていただろう。そのことを、今もまだ考えている」
 彼女の言葉の後に、ちっ、と何かが擦れるような、小さな音が聞こえた。茅森がトランシーバーの電源を切ったのだ。
 僕は足を止める。耳を澄ましても、聞こえるのはセミの濁った鳴き声だけだった。
 僕たちがまだ高等部の二年生だった、八年前のあの日。
 茅森良子がこの生徒会室にいて、時計が反対に回り、僕が約束とは呼べない一方的な宣言を口にした日。
 あんなにも嫌っていた橋本先生と同じ方法で、僕は彼女を裏切った。罪の重さを知っていながら、一方的で不恰好な恋をしていた。茅森良子に向ける愛情が、無償であることにおごっていた。
 二五歳になった今もまだ、僕はその罪を償っていない。

#5-1へつづく
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