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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.33

八重樫と話す機会を得た茅森は――。 緑瞳の少女と寡黙な少年の恋が世界を変える物語! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#4-7

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

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10、茅森良子

 旧道に入ってから、八重樫と綿貫がみつかるまでの二〇分ほど、私はひどくうろたえていた。
 もしも八重樫たちがみつからなければどうなるだろう。ふたりが事故に遭っていたら、私はどれほど後悔するだろう。この我儘な行動は、荻さんや紅玉寮にどれほどの迷惑をかけるだろう。これまで築き上げてきた先生たちからの評価をどれほど落とすだろう。様々なものを犠牲にして、私はなんのためにこの道を歩いているのだろう。私はこの先になにを求めているのだろう。
 ひたひたと降ってくる疑問のひとつひとつを振りほどくように、私は懸命に歩いた。風邪をひいた夜、熱でうなされてふと目を覚ましたときのように心細かった。それで坂口を相手に、なんでもないような、でも私にとってはなによりも大切な話をした。正直、「イルカの唄」のことを彼に伝えるつもりなんてなかったのだ。でも私はいつだって、あの物語に描かれた惑星を目指して歩いている。それが今夜ハイクラウンで買収されたことに対する、私の言い訳のすべてだった。
 八重樫と綿貫はあっけなくみつかった。
 山道沿いの空き地に積みあがった廃品に紛れて、ふたりは空を見上げていた。車椅子に座る綿貫と、彼の後ろに立つ八重樫の姿は美しかった。ふたりのために月が照っているようで、なんだか羨ましいような気もした。
 ──なんにせよ、トラブルはないようでよかった。
 そうあんの息をいたとたん、忘れていた疲労が何倍にもなってのしかかってきた。もうこれ以上、一歩も歩きたくなかった。この場に座り込んでしまいたかった。でも、拝望会はまだ終わらない。私は綿貫を、拝望会の正規ルートの、先生たちがいるところまで送り届けなければいけない。
 坂口が、綿貫の車椅子を押して歩き出す。私は顔をしかめて彼の背中を追う。足に力が入らなくて、一歩ずつが泥沼を進むように苦しかった。
 すぐ後ろをついてくる八重樫が、「ごめんなさい」とつぶやく。
 純粋に疑問で、私は尋ねる。
「いったいどうして、ここに綿貫くんがいるの?」
「私が、呼んだから」
「心配じゃないの? 彼のこと」
 旧道を進む車椅子は、やはり危なっかしくみえる。隣を走る車との距離が近すぎる。少しバランスを崩すだけで大事故になっても不思議はない。
 八重樫は、小さいけれど不思議とよく通る声で言った。
「私と貴女じゃ、大切にしているものがまったく違うのだと思う」
 きっとそうなのだろう。
「なら、教えて。貴女にとって、大切なものを」
 今であれば、多少は彼女を理解できるのではないか、という気がしていた。
 けれど八重樫の答えは、私の想像よりも難しいものだった。
「ごめんなさい。言葉にできない」彼女の声が、少しだけ大きくなる。「ううん。できないわけじゃない。でも、言葉にすると別物になる」
 いったいどういう意味だろう。疲れた頭で考え込むけれど、上手くまとまらない。
 八重樫の方は、私の返事を求めているわけではないようだった。口早に彼女は続けた。
「言葉というのは理屈でしょう? でも理屈で正しいことばかりが、正しいわけじゃないでしょう? きっと、話し合えば話し合うほど、条吾をここに呼んだのは間違いだってことになる。理屈ではそうだから。でも私にとって大切なのは、別のものなの」
 わからない。
「私は、正しいことは、みんな正しく説明できると思っているよ」
 正しさというのは、例外なく理屈が通っているものなのだと信じている。
 でも八重樫は首を振る。
「違う。理屈で説明できる正しさばかりがもてはやされて、そうじゃない正しさは見向きもされないから。だから、理屈と正しさが混同されてるだけじゃない?」
 これはあの、図書館の倉庫で彼女と交わした言葉の続きなのだ。私が追い求めているものは理屈ばかりの幸福で、そちらに進むと犠牲になるものがあるのだと、八重樫は一貫して主張している。
「でも理屈に頼らなければ、なにも伝えられない」
「理屈ばかりに頼ってわかり合うのは危険だと、私は思う」
 八重樫の考えは、私とは根本から違う。でもきっと、ある種の現実を内包しているのだろう。私はこれまで、理屈で誰かとわかり合えたことがあるだろうか。たとえば今日、森さんや班のみんなと歩くのは楽しかった。か弱くても友情と呼べるものを感じていた。でもそれを作ったのは、きっといかなる理屈でもない。ただ拝望会を一緒に、へとへとになって歩いた。その不毛な時間が重要だったのではないか。
 八重樫に説得されたくて、私は尋ねる。
「理屈は、どう危険なの?」
 彼女はずいぶん悩み込んでいた。道路を自動車が数台走り抜けた。そのエンジン音が遠ざかると、秋の虫の音が、地面から湧き上がるように聞こえた。
 小さなせきばらいをして、八重樫は答えた。
「上手く言えないけど、大事なところが省略されていく気がする。輪郭がはっきりしているものばかりにまとめられる。でも、本当は輪郭がないものを、私たちは大切に扱わないといけないんじゃないかな」
 今度は私の方が黙る。坂口の背を追ってひたすら歩きながら、八重樫の言葉を頭の中で読み解こうと注力する。
「それはつまり」
 そう言って、私はひとり苦笑する。それは、つまり。この言葉こそが、八重樫が理屈で語ることの問題点として挙げたものではないのか。でも、苦笑しながらも続ける。
「つまり理屈は、物や数字に価値を与えすぎる。たとえば幸せについての話をしていたはずなのに、もっとわかりやすい、お金の話なんかにまとめてしまう。それは価値観の画一化であり、個人の感情を無視している、ということ?」
 意外なことに、八重樫は笑った。思わず噴き出した、という風に。それから私の言葉を反復した。
「価値観の画一化」
「なに?」
「茅森さんは、そういう風に難しい言葉でしか話せないの?」
「それは貴女の話が難しいせいだよ。ほんの二時間前は、恋愛トークを華麗に繰り広げていたんだから」
 主に聞き役ではあったけれど。森さんは今ごろ、意中の先輩と歩いているのだろうか。彼女の恋が上手くいけば良いなと思う。その感情に、たぶん理屈はない。
「私は条吾と拝望会を歩きたかった」と八重樫は言った。「別に、理屈なんてない。ただそうしたかったの。したいことを、意地になって守っただけ」
 一瞬、私は頷きそうになった。
 貴女は正しいのだと言ってしまいたかった。
 でも首を振る。私自身のプライドにかけて。
「それでもし綿貫くんが大きな事故に巻き込まれていたら、どうするつもりだったの?」
 八重樫の返事に躊躇いはない。
「後悔するよ。とても。だから理屈じゃ、茅森さんが正しい。でも」
 でも、の続きはなかった。説明はすでに終えているということなのだろう。理屈では切り揃えられないものに従って、彼女は我儘を押し通した。
「だとしても私は、後悔したくないよ」
「そう」
「理屈で正しいと思えることを、全部やりきって生きていきたい」
「うん。いいと思う」
「だから、八重樫さん。友達になって」
 八重樫は相変わらず小さな声で、「だから?」と反復した。
「意味がわからない」
「わからなくてもいいよ」
「友達ってなに?」
「それこそ、理屈で説明しても無意味でしょう」
「好きにして」
「ありがとう。代わりに貴女には、私をやもりんと呼ぶ権利をあげる」
「いらない」
 彼女のクールな声に、思わず笑う。
 きっと私には、本当の意味で八重樫朋美を理解することはできないのだ。彼女が拝望会に綿貫を呼んだ気持ちには、いつまでも共感できないだろう。それでも今は、同じ道を共に歩いている。
 ふと空をみると、月がその高度を少し上げていた。

 山道はやがて街に繫がる。ガソリンスタンドの大きな看板が、その入り口だった。
 視界を覆っていた木々が消え、空が開けた。向こうにいくつかのビルがみえる。せいぜい七、八階建てほどのビルだが、その窓から漏れる光や、外壁に取り付けられた看板を照らすライトや、道路に沿ってずらりと並ぶ信号機で夜の闇が削り取られていた。街中をしばらく歩いてようやく、どうやらここが聞き覚えのある駅の近くだとわかった。
 隣に並んだ坂口が言う。
「驚くね。制道院の最寄り駅から、快速でたった一〇分だ」
 でも私は、まったく別のことに驚いていた。
 実のところ、私は夜の街を歩いた経験というものがなかった。清寺さんのところで暮らしていたころは、しばしば奥様に連れられて、レストランで夕食をとった。でもそんなときは必ず車の送り迎えがあった。私がこんな風な夜の街並みを目にしたとしても、それは窓から眺めるだけのものだった。
 コンビニエンスストアの店内が妙に明るくみえるのも、チェーンの居酒屋の前にたむろするサラリーマンたちも、そこを通り過ぎる自転車がちりんと鳴らすベルの音も知らないわけではなかった。でもそのどれもが新鮮に感じた。
 ずっと、どこかからけんそうが聞こえている。行き交う人の会話だとか、客の呼び込みをする店員の声だとか、ドアが開いたときに店から漏れる音楽だとか。短い音が繫がり、繫がり、ずいぶん間延びした長いひとつの振動になる。その振動が、私の頭をくらくらとさせた。
「大丈夫?」
 坂口がこちらの顔をのぞき込む。
 私は細長く息を吐いて答える。
「うっかり人間界に迷い込んだ妖精みたいな気分になってたよ」
 坂口は妙に真面目な顔で頷く。
「今ごろ気づいたの? 実は君、半年も前から人間の世界で暮らしてるんだぜ」
 その複雑な言い回しは、おそらく坂口なりの冗談なのだろう。ふた呼吸ほどのあいだ、彼の文意を考えて、馬鹿馬鹿しくなって私は笑う。
「なんにせよ、貴重な体験だよ。もしかして、警察にみつかると補導されるのかな」
 私の人生にそんなことが起こり得るなんて、これまで想像もしなかった。
 坂口に車椅子を押される綿貫が、こちらを見上げる。
「いいか? 警官が近づいてきたらまず、オレが胸を押さえてうずくまる。君はこう言うんだ。──発作が起こったが薬がない。このまんまじゃ死んじまうよ。病院に連れて行くのを邪魔するなら、あんたらは人殺しだ」
「そうしたら補導されないの?」
「映画じゃ上手くいっていた」
 それは車で速度違反を誤魔化すときのやり方でしょう、と小さな声で八重樫が言った。
 幸いなことに、私たちが警官に声をかけられることはなかった。
 ごうごうと音を立てて、高架を電車が走る。その下をくぐれば、海岸沿いを東西に走る幹線道路にぶつかる。時刻はすでに午後八時三〇分を回っていた。

11、坂口孝文

 僕たちは海沿いの幹線道路を西へと進む。月と、街の明かりとに背を向けて。
 オレンジ色の街灯が、ぽつぽつと夜を照らす。道路には、テールランプの赤が列をなしている。左手は黒々とした海だ。波が寄せては引く音が、でるように聞こえた。
 この幹線道路は拝望会の正規ルートでもある。やがて、制道院の生徒の姿が目につきはじめた。すでにゴールまで歩き終えた生徒たちが引き返しているのだ。すれ違うたびに彼らは、車椅子の綿貫に目を向けた。僕は無理に背筋を伸ばして歩いた。なにもおかしなことはしていないのだと自分に言い聞かせて。
「どこまで行くつもりだい?」
 と綿貫がささやく。
「もちろん、ゴールまで」
 と僕は答える。
「そうか。ま、頑張れよ」
「君は、付き合ってくれないのか?」
「どうやって?」
「ひとつしかないだろ」
 鉢伏山にはロープウェイがあるけれど、この時間はすでに運行を終えている。今から展望台を目指すとなると、三〇〇段の階段を上る他に方法はない。
「行けるところまで行こう」
 と綿貫が答えた。
 どきん、どきんと胸が鳴る。疲労とは別の理由で足取りが重くなる。
 鉢伏山の麓には、ロープウェイ乗り場が併設された小さなJRの駅がある。その裏手が登山口になっている。幹線道路からは道が外れるため、経路を間違えないよう数人の先生が案内に立っている。拝望会の運営委員だった僕は、そのうちのひとりが、橋本先生だと知っている。
 鉢伏山はもう間近にみえていた。
 長い拝望会の終わりが迫ったこのとき、僕が考えていたのは、祖母とハイクラウンのことだった。

#4-8へつづく
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