秋山寛貴(ハナコ) 人前に立つのは苦手だけど 第3回「あの日イオンから逃げなくてよかった」
秋山寛貴(ハナコ) 人前に立つのは苦手だけど

コツコツ作業するのが好きで、小さいころから慎重派、なのに芸人。
そんなハナコ・秋山が文章とイラストで綴る、ゆるくてニヤリの初エッセイ。
第3回「あの日イオンから逃げなくてよかった」
物心ついたころにはお笑いが好きだった。父も母もテレビが好きでよく見ていたし、その中でバラエティ番組が占める割合も多かった。
当時小学生の僕が特にハマっていたのは「ミスター・ビーン」と「笑う犬の生活」だった。「ミスター・ビーン」は父親が深夜のテレビ放送を録画したVHSがあり、それを何度も繰り返し見たり友達を呼んで見せたりしていた。「笑う犬の生活」は毎週の放送が楽しみで仕方なく、よくマネしておちょけていた。四つ下の弟と二人で「生きてるって何だろ、生きてるってな〜に」と口ずさんだテリーとドリー。内村さんとホリケンさんによるパタヤビーチの決めフレーズ「あいあいあいあいあい百円」。泰造さんのセンターマン。歌って踊ったはっぱ隊。ホームビデオには小須田部長のようにメガネと耳当てをした僕ら家族四人が食卓を囲み普段通りの食事をするというシュールな映像も残っている。誰がなんと言い出してそうなったかは覚えていない。それ以外にも夕方放送していた新喜劇や「エンタの神様」を見たり。「M‒1グランプリ」はテレビの前で正座をして待ち構えるほどだった。
高校一年生になったころ、幼馴染で仲の良かったじゅんじ(通称じゅん)に〝M‒1甲子園〟に誘われる。当時開催されていた高校生版のM‒1グランプリである。自分がお客さんの前に立ち、ネタをやるだなんて恐ろしいことは考えたこともなかった。しかしM‒1マジックで憧れも強まっていたし、何よりあのじゅんからの誘いだった。じゅんといえば小学生のころから身の回りで一番面白い人だと思っていたし、僕が家で話すジョーク(ジョークといっても主にダジャレ)はほとんどじゅんの受け売りだった。涙を流しながら笑って読んだ『世紀末リーダー伝たけし!』を教えてくれたのもじゅんだ。じゅんとなら漫才ができる気がした。笑いがとれる気がした。うちに集まりノートを開き、じゅんの案を聞きながら、初めてのネタ作りや立ち稽古を見よう見まねでやっていった。
二〇〇七年夏。倉敷にあるイオンのイベントホールで行われたM‒1甲子園中四国予選。お客さんの数は五十席ほど並べられたパイプ椅子がまばらに埋まる程度。MCはレギュラーさん。初めて近い距離で見る芸人さんに興奮する。家族も応援で会場に。出場する十組ほどが出番順に舞台袖に並ぶ。予選が始まる。レギュラーさんのMCで盛り上がる客席。その後一組目のコンビが舞台へと飛び出していった。高校生とは思えないほど流暢に漫才をする組もいれば、緊張のあまりセリフが飛んでネタをやりきれないコンビもいる。当然である。誰一人プロではない。
そんな状況の中、出番の迫る僕は人生ベストレコードの後悔をしている真っ只中だった。その場所は怖くて怖くてしょうがなかった。「来るんじゃなかった」「少しでもできる気がした自分が馬鹿だった」「走って逃げ出したい」「絶対今足速い」そんな思いを相方であるじゅんに伝えることはできずガタガタ震えていた。じゅんも僕ほどではないだろうが緊張で口数が少なかったように思う。出番がくる。始まってしまう。
「はいどーもー」
簡易的に組まれたステージに上がりセンターマイクへ向かう。お客さんが全員こちらを見ている。面白いものを見たいたくさんの目が刺さった。
ほとんど記憶がない。ネタも飛んだりつぎはぎだったと思う。当然入賞などはできず大会を終え、見ていた父に感想を伝えられる。
「聞こえんかったで」
聞こえてなかった。初舞台はウケるスベる以前に弱気なあまり声が小さすぎて聞こえてなかった。
「そっか……」
「特にひろ(僕)の声が聞こえんかったで」
僕たちの漫才体験はあっけなく終わった。
じゅんとは別々の高校に通っていた。高校二年生になってまた夏が来て、一応確認したがじゅんはゴリゴリ強豪のボート部に所属していたためもう漫才をやる時間はなさそうで出場はやめておこうという話になった。強すぎるボート部にいることも面白かった。
まだ、未練があった。前回はネタを見せたレベルですらない。せめてネタをちゃんとお客さんに届けてウケるスべるを体験したかった。
同じクラスのひかるに事情を話してみたところ、コンビを組んで出てくれることになった。ひかるはユニークだしノリもよく明るくとてもいいやつだった。よくこんな弱気な僕の誘いを受けてくれたなと今でも思う。僕がネタを書きひかると練習した。教室で友達に見てもらったり、前回よりも準備ができている感覚があった。その年の中四国予選は香川にあるイオンが会場で、うちの父が車で連れて行ってくれる予定だった。
大会の二日前、父方のおばあちゃんが亡くなった。大好きなおばあちゃんだった。入院して闘病していたが容態が悪化し亡くなってしまった。知らせがあった朝、病室に眠るばあちゃんの横でわんわん泣いた。もっと時間があると思っていたこともあり、あまり顔を合わせられていない時期だった。後悔した。両親の前で泣くのは久しぶりな気がした。おとなしい僕を可愛がってくれていたばあちゃんは「ひろくんがこんなことするたあ思わんかった」と去年の漫才を驚き喜んでくれていた。ばあちゃんもまたお笑いを見るのがとても好きだった。
お通夜とお葬式の準備が進む中、ふと
「香川は行くじゃろ?」
と父は言った。当然今はそれどころではないと勝手に諦めていた二度目の漫才体験。父は予選当日、予定通り僕とひかるを車に乗せ、香川のイオンまで運転してくれた。
結果は敗退。デートの設定の漫才だった気がする。ネタもやり切れた。ただ声を聞かせたいという前回の反省を意識しすぎた結果、MCだったつばさ・きよしさんに
「君らヒットアンドアウェイみたいな漫才やったね」
と評された。父が撮っていた本番中の動画を見ると、喋る番がきた方が無意識にセンターマイクへ体を近づけており、振り子が二つ並んでいるような漫才をしていた。新たな恥をかいた。しかしぎこちないもののお客さんの反応は昨年よりあったのがわかった。ばあちゃんが見たら笑ってくれただろうか。
さらに翌年、高校三年生になった夏。僕とひかるは同じコンビでまた漫才をする。大会はリニューアルされ〝ハイスクールマンザイ〟と名を変えていた。恒例の父の送迎で鳥取県へ。MCのチーモンチョーチュウさん目当てのお客さんだろうか、客席は賑わっていた。ネタの設定は桃太郎。最後の挑戦。倉敷の時のような緊張はなかった。
結果は優勝だった。中四国予選とはいえ、会場は何箇所かあるため小規模な大会である。でも僕にとって、何かで競ってもらえた初めての〝優勝〟だった。
その後の高校三年生の冬、まだお笑いの道に進むか迷っていた僕はネットで見かけたワタナベコメディスクールの「高校生オーディション」を社会見学のつもりで受験。その内定をもらっていたため、高校卒業間近にようやく進路をお笑い芸人に決めたが春の入学に間に合った。
養成所在学中に菊田とコンビを組み、その後芸歴4年目あたりで岡部が加わりハナコに。キングオブコント優勝や、憧れの人たちとの共演、イオンから逃げ出したかったころには予想だにしなかったことの連続である。
未だに自信はない。でもばあちゃんにはまた「ひろくんがこんなことするたあ思わんかった」と驚き喜んで欲しい。そんな活躍を目指して、僕は頑張りたい。
