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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.10

【連載小説】この美しい島を、私たちの終の棲家にできたなら――。 深沢潮「翡翠色の海へうたう」#3-2

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。

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 海岸沿いの道を五分程歩き、集落のはずれを山側に曲がると、慰安所跡が目の前に現れた。
 薄明かりのなか、コンクリートの塀ごしに、平屋で四角い形状の白い建物が浮かび上がるように佇んでいる。当時は屋根が赤瓦の立派な建物だったらしいが、建て直されてトタン屋根の質素な家屋となっている。鉄の門扉は施錠され、建物の雨戸は閉じられ、誰かが住んでいる様子はなく、えらく殺風景だ。案内板もなにもなく、事前の知識がなければここに慰安所があったとはわからない。
 さらに詳しく見ようとスマートフォンで光を門の外からあててみると、地面にはこけが生え、せんていされていない樹木が乱雑に枝を伸ばしていた。土地の広さは結構ありそうで五十坪くらいだろうか、はっきりとはわからない。ここと隣家を接収し、二軒が慰安所とされたそうだが、いま隣は民宿を営んでおり、そちらからは人の声が漏れ聞こえてくる。だが、あたりには人影がない。
 女性たちが、まさにこの場所で、島の住民から隔離され、外出もままならずに性を奪われ続けたというのに、私は、なにも感じることができなかった。
 あまりにも時間がちすぎたからか。それとも、名残がないからか。
 しばらく敷地内を眺め、想像力を駆使してみるが、やはり、ガマに入ったときに感じたような手ごたえはない。同じ女性なのに痛みが想像できない私は感性が鈍いのだろうか。
 諦めてスマートフォンのあかりを消し、その場を離れる。宿泊先の民宿に戻る道すがら、唯一開いていた食料雑貨を売る個人商店で缶ビールを一本買った。それから海岸沿いの道に出て、あずまやのベンチに座る。
 今日も長い一日だった。だけどこれといった収穫はなかった。
 そう思うと、疲れが急に押し寄せてくる。けれども、満天の星の下、薄墨色の海を眺め、打ち寄せては引いていく波の音を聞き、潮風にあたりながら、冷えたビールを飲んでいると、気持ちがしだいに癒されていく。身体からだの力が抜けていく。
「ひとり?」
 声をかけられ、心地いい時間がぶち壊しになった。声の方を向くと、至近距離に、自分と同世代かちょっと若いくらいの男性二人がにやついた顔で立っていた。ひとりはひげづらで、ひとりは眼鏡をかけている。私は、応えずに黙っていた。
「俺たち、野郎二人なんだよ。寂しいから女の子と飲みたくて」
 彼らも缶ビールを手にしていた。すでに酔っ払っているのか、へらへらとしている。
 私はベンチから立ち上がり、「すみません、もう帰りますので」とへいたんな調子で言い、歩き始めた。
「そう冷たくしなくても」
「せっかく声かけてあげたんだから、一緒に飲もうよー」
 ふたりはしつこくついてきて、眼鏡の方が腕をつかんだ。私は男の手を激しく振り払う。勢いで、ビールが飛び散った。
「んだよ。ちょっと触っただけだろ。怒んなよ」
 彼らを無視してこんどは走り出した。男たちも追いかけてくる。
「減るもんじゃねえだろ」
「そうだよ、プライドたけーな」
 私は、身の危険を感じ始めた。
「ついてくるのは、やめてくださいっ」
 大声で叫ぶと、ふたりは足を止めたようだ。
「なんだよ、ブスっ」
「冗談だよ、お前なんか相手にしねえよっ」
「だれかにやられちまえ」
 背後から怒鳴り声がする。私は全速力で駆けてその声から遠ざかる。さっきはむしろ明るく感じた星明かりは頼りなく、私を覆う暗闇から必死に逃げた。民宿に着くと、持っていた缶ビールの中身は、こぼれてほとんど残っていなかった。

 昨晩は、気持ちがざらついてなにもできなかった。部屋に戻ってすぐにシャワーを浴び、布団に入ったが、眠りは浅く、恐怖がぶり返して何度も目覚め、部屋に鍵がかかっているかをそのたびに確かめた。
 早朝に布団から出て、タブレットを起動させ、昨晩できなかった取材の記録を始める。しかし、あずまやでの嫌な出来事が頭をかすめ、手がしばしば止まった。恐怖がよみがえり、それが怒りに変わっていく。
 私が昨晩感じた恐怖以上のものを彼女たちは感じていたに違いない。しかも、何度も何度も、長きにわたってその恐怖は繰り返された。そう思うと、この恐れを知っている女性の私こそが彼女たちの物語を書かなければと、あらためて気持ちがかたまるのだった。
 朝食ののち、部屋で資料を読み返し、午前十時に民宿をチェックアウトした。そして、キクさんの家に向かう。海岸沿いを歩きながら、昨晩の男たちにまた会ったらどうしようと不安になったが、穏やかで静かななぎの海を眺めているうちに気持ちが落ち着いてきた。
 キクさんの家は、慰安所跡の手前にあった。あいにくキクさんは不在でがっかりしたが、畑にいると娘さんが教えてくれた。畑は家のすぐそばだった。
 行ってみると、畑を仕切る金網越しに、キクさんが作業しているのが見えた。
「すみませーん」
 金網のこちら側から声をかけるが、気づいた様子はない。私は、もう一度、すみませーん、と、最初より大きな声を出した。するとキクさんは作業の手を止めて顔を上げ、こちらを見てくれた。
「ちょっとお話を聞かせてほしいのですが」
 キクさんは畑から道路に出てきてくれた。水色の水玉模様の手ぬぐいをほっかむりし、頭にはつばの広い帽子をかぶり、黒いズボンと白地に花柄のシャツに茶色いエプロンを着けている。加齢で腰が曲がり気味のキクさんの身体は小さく、並ぶと私の肩ぐらいまでしか背丈がない。
「はいはい、なんでしょうね」
 しわの深く刻まれた顔で微笑むキクさんはとても親しみやすかった。おかげで私の緊張はほぐれたが、それでも、質問の内容が内容だけに、いざとなるとやはり、簡単には口にしにくい。
「あの……えっと、ですね。慰安婦のことを……朝鮮の女性たちのことを、お聞きしたくて」
「あの人たちのことは、よく覚えています」
 キクさんはこちらを気遣って、標準語でゆっくりと話そうとしてくれている。
「ここに座りましょうかね」
 そう言って路肩に腰を下ろしたので、私も隣に座った。
 キクさんは、さまざまなことを語ってくれた。自分が女性たちを世話するようになったいきさつ、彼女たちの容姿、年齢、島での生活についてなどを詳しく教えてくれる。私はスマートフォンで録音をしながら、話に聞き入った。
「あの人たちは、よく歌をうたっていました」
 そう言うと、キクさんは、ゆったりとした調子でうたい始めた。かすれ気味の声が哀切なメロディにのって響く。

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン ゴゲロ ノモガンダ
 ナルル ボリゴ ガシヌン ニムン
 シムニド モッカソ パルビョンナンダ

「わあっ。お上手ですね」
 私は、ぱちぱちと拍手した。なじみがある歌ではないはずなのに、どこか懐かしく、切なく心に響いた。そしてキクさんが七十数年前に聞いた異国の歌を記憶していることに胸を打たれていた。
「やっぱり歌って覚えているものなんですね」
「はい、歌は世に残るものですね」
「女性たちは、この歌をいつもうたっていたんですか?」
「そうですね。軍の演芸会でもアリランはうたいましたよ。舞台の上で着た着物を私が貸しました。そのときは日本語でうたって、みんなが喜びました。だけど、練習していたのを聞いていたのに、わたしはなぜか、日本語より、朝鮮語のほうをよく覚えています。それからこの歌もよくうたって、わたしに教えてくれました」

 トラジ─、トラジ─、トラジ─

 キクさんは、さわりだけを口ずさむ。私はふたたび拍手をした。
「あの人たちはちょっとでも酒を飲むと、朝鮮の歌をうたったり、踊ったり、笑ったりしていました」
「キクさんは、かなり親しくされていたんですね」
「家族みたいな気分で、何でも話していました。わたしたちが食料もなく苦しいのをあの人たちは知っていたし、わたしもあの人たちがつらいのを知っていて、同じ気持ちでした」
 キクさんと慰安婦の女性たちのあいだにこのような心温まる交流があったことに驚く。
「だけど、あの人たちは、急にいなくなってしまいました。この土地に骨をうずめる覚悟だ、キクさんと一緒にここで死ぬんだよ、って言ってたから、あの人たちも、ここを離れることを知らなかったんじゃないですか。別れの言葉すら言えなかったことが、寂しかったです。いつものように食事を作るのを手伝いに行ったら、あの人たちはいなくなっていました。基地隊もいなくなっていました」
「この島には、三ヶ月しかいなかったんですよね?」
「はい、二ヶ月半ですが」
「短かったんですね」
「もっと一緒にいたかったです。いまね、韓国に行けるでしょう。こういう時代が来るんだったら、あの人たち、日本語も上手だったし、言葉でも習っておけばよかったです。あの人たちは、いつも朝鮮の言葉で、自分たちでしゃべっていましたからね。こっちもよく聞いていたから、長いこといたら、覚えよったはずだがねえ。心残りですよ」
 キクさんは、しみじみと言った。
「わたしは、あの人たちの辛そうな顔じゃなくて、笑ったりうたったり楽しそうにしていたことをよく覚えています」
 キクさんのその言葉にはっとする。
「演芸会で貸した着物は、とってありますが、見てみますか」
 そう言って腰をあげ、手押し車をつかんで歩き始める。私はキクさんについていく。五分もせずに家に着き、私は玄関の前で待った。十分ぐらいして、キクさんが、れいに折りたたまれた着物を持って出てきた。何度も洗ったのか、色がじゃっかんせていたし、紺地に白の絣の柄で、特に華やかな着物でもなかったが、大事にしていることはわかる。
「これです。二枚貸したけれど、一枚だけしか返ってこなかったです。でも、どこかで着てくれていたら嬉しいですね」
 私は撮影の許可をもらって、その絣の着物を、スマートフォンのカメラに収めた。それから、東京から持ってきた菓子折を渡す。
「そういえば、あの人たち、菓子をわたしによくくれました。軍の配給や兵隊からもらったものなんか」
「もらって特に嬉しかったのは、なんですか」
「コンペイトウは、形と色がきれいで嬉しかったです」
 そう言うと、キクさんは、にっこり笑った。
「お話を聞かせてくださり、ありがとうございました。またお会いしましょう」
「また来てください」
 キクさんは私の手を握ってきた。その手が小さくて、あたたかくて、こみあげてくるものがあった。湿っぽくならないようにと顔を引き締め、はいまた、とキクさんの手を包んで握り返した。

#3-3へつづく
◎第3回の全文は「カドブンノベル」2020年9月号でお楽しみいただけます。


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