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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.1

【連載小説】時代も場所も超えて交わる二人の女性の運命――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#1-1

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。



 なにも見えない。
 墨で塗りつぶしたかのような視界は、まぶたを閉じても開けても変わらない。
 狭いところに閉じ込められてしまったような心もとなさがある。自分がどこにいるのかを見失いそうになる。そのうちに、私という人間が、いる、という実感までもが持てなくなってきた。まるで肉体が消滅し、意識だけが残っているかのようだ。
 こんなところに長くいたら、生と死の区別がつかなくなるかもしれない。
 水滴が腕に触れ、ひやりとした。だいじょうぶ、からだはちゃんとある。速くなる鼓動を感じ、水が流れる音をとらえることができる。
「暗闇を経験してみてどうですか? 怖いですか?」
 ガイドのまつさんの声だ。
 そうだ、そばに人がいたのだった。ひとりじゃない。
「はい、すこし」
「深くゆっくり呼吸をしてください」
 言われた通りにすると、恐れはわずかに和らいだ。戦時中はものすごい臭気だったと松田さんが言っていたが、臭いはこれといってなく、自分が使ったデオドラントがうっすらと香っただけだった。
「では、懐中電灯をつけましょうか」
 あかりで照らすと、湿った石灰岩があらわになる。無数のつらら石から水が滴っている。さらに周囲に光をあてると、そこは奥行きがあり、ひろびろとしていた。ちょっとしたせき払いがやけに響き、泣き声で敵に見つかったら困ると、母親が子どもをあやめた話を思い出す。
「この下の辺りは病棟でした。当時は、暗かったことで、死体や重病人を見ずに済みました。明るい方が怖かったのです。だから、灯はできるだけつけずにいた。かまどの火も使い終わったらすぐに消していました」
 何万年も前に生まれた鍾乳洞アブチラガマは、時の流れのほんの一瞬に、ひとの起こした醜い戦いの跡を刻んだ。ここは軍の洞窟陣地ごうのあと野戦病院となった。それから七十年以上が過ぎている。
 ずれていたヘルメットを固定しなおし、懐中電灯を片手に携え、長靴を履いた足でぬかるむ地面をたしかめながら松田さんの後に続く。ふだんから運動不足の私は、六十代とは思えぬほど健脚の松田さんについていくだけで精いっぱいだ。そもそも、ガマの中がこれほど歩きにくいとは知らず、サンダルにワンピースという軽装で来てしまい、松田さんに苦笑いされた。借りたヘルメットと長靴を身に着けなければ、ガマに入るのは難しかっただろう。
 ところどころで立ち止まって、松田さんは話をしてくれる。
 戦禍が迫ると、このガマは病院としての機能が解かれ、軍医も、看護していた女学生たちも、自力で動ける傷病兵もいなくなった。そして重病人は始末されたり、病棟に置き去りにされたりしたという。
 霊の存在を信じるような私ではない。どちらかというと、そういうものはさん臭いと思う方だ。けれども、ここにはあまたの無念の魂がいまだに宿り、湿った空気をより重くさせているのかもしれないと思えてくる。というより、そう思わなければいけないような気がして、ほんとうになにか漠然とした圧のようなものを感じるから不思議だ。心なしか息苦しく、深く息を吸う。しかし、傾斜もあり、幅も狭いごつごつとした岩の通路を上り下りするのはたやすくなく、息がおのずとあがってくる。
「もう一度ここで懐中電灯を消してみてください」
 ふたたび真っ暗闇になるかと思いきや、数メートル先に、一条の淡い光がしているのが見えた。
 あ、と思わず声が出る。
 目が慣れてくると光の筋はくっきりと見えてきた。それは、まっすぐ天井から伸び、地面に向かってえんすいけいに広がっている。どこかの美術館の宗教画で見た、キリストや天使に射す光みたいだ。
 こわばったからだがひととき緩む。
「あそこには空気孔があって、光はそこから来ています。あの空気孔から灯が漏れて、敵に見つかったらという恐怖はすさまじかったでしょうね。実際、あそこから爆弾が投げ込まれたんです。馬乗り攻撃っていいましてね。アメリカは、ガマの入り口、自然の穴、掘削機で開けた穴から手りゅう弾やガス弾を投げ入れたり、火炎放射器を噴射したり、ガソリンで火を放ったりしたんです。ガマの中に残っている日本兵の全滅や投降を狙ってね」
 松田さんの言葉を聞いて、私はあらたな不安にさいなまれる。
 光にほっとして暗闇に不安を感じる私が、光に恐怖し暗闇に安らぐひとたちの気持ちを描くことができるだろうか。
 艦砲射撃の音と地響きにおびえ、ガマで命をつないだひとたちの生きざまを想像できるだろうか。
 馬乗り攻撃の壮絶な場面を書けるだろうか。
 いや、大丈夫。なんとかなる。難しければこそやりがいもあるし、もし書き上げられれば、これぞというものになるはずだ。やるしかない。
 ガマは、手術室、井戸、水がめ、便所、かまど、また病棟と細長く続き、軍の野戦病院でなくなったあと入ってきた住民の避難場所、そして出口へと至る。ガマの中には遺物もあった。メガネやナイフ、靴、万年筆などの日用品、薬品のビン、不発弾などが生々しく目に焼きつく。
 急こう配の階段を上がり涼しかったガマから出ると、とたんに温度が変わって暑くなるが、空は高く、視界は広くなり、心地よい。シャワーのあと換気扇を回さなかった浴室のような湿気から解き放たれて、空気がしい。
 外はまだ夏の盛りだ。太陽はまぶしく、ガジュマルの緑を鮮やかに際立たせている。
 階段を上りきる前に、慰霊碑があり、千羽鶴がるされ、供え物が置かれている。
「当時は、捕虜になると殺される、りようじよくされると教えられ、それを信じて住民も投降しなかったのです。ずいぶん多くの人がガマの中で、軍命による集団死や、馬乗り攻撃による爆発とガス中毒の犠牲になりました」
 私は松田さんとともに、碑の前で手を合わせた。

#1-2へつづく
◎第1回の全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2020年1月号

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