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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.7

【連載小説】死ぬときは一緒だよ。この島の、この土地の肥料になるんだ――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#2-3

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。

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 わたしは、赤瓦の家を出て、星あかりを頼りに、夜道を歩いた。コガ隊長のところまでは、それほど離れていない。
 歩くのも難儀なほどからだがしようすいしているのに、コガ隊長に呼ばれてしまった。いたるところに痛みもある。それにもまして、これからまた男に好き勝手されるのはあまりにも気が重い。ほんのわずかでも先延ばしにしたくて、ゆっくりと歩を進める。
 空を見上げると、数えきれないほどの星がいまにも落ちてきそうなほど近くに見える。天へと手を伸ばしてみるが、届かない。
 働きに出て戻らない両親を待ち、幼い弟を背負って家の前で夜空を見上げたことを思い出す。星に願いをかけたら、母が帰ってきた。けれども、いくら星々に願っても、ここではなにひとつかなわない。島に来て一か月がっているが、わたしがやらされることは大陸と変わらない。
 男たちが軍票を握りしめて並び、わたしは豚のふんの臭いが漂う瓦家で、夕方から下士官、夜は将校と、一日に何人もの相手をさせられる。こうやって、将校から外に呼ばれることもある。
 波の音が遠くに聞こえ、立ち止まって耳を澄ました。すると、波が押し寄せるように、かなしみがせりあがってくる。
 海に入って、この島から逃げてしまおうか。スンヒのようにおぼれて海の底に沈んだっていい。
 そう思った瞬間から、そんなことははなから不可能だと心の声がこだまする。わたしは、絶望を飼いならしてしまっていた。たとえひとりきりで歩いていても、とらわれの身から逃げるすべはない。
 その晩コガ隊長は、わたしに酌をさせ、酒を飲ませた。そして片言しか話せないわたしに、内地の歌を教えようとする。わたしはくちするものの、なかなか覚えられない。するとコガ隊長は不機嫌になって、わたしを乱暴に押し倒した。そして一晩中、からだをもてあそんだ。
 朝目覚めてみると、新しいあざができていた。よだれをたらしているコガ隊長のだらしない寝姿を横目に、灰色のワンピースを着てコガ隊長の泊まる家を出る。
 裏口から出たそのとき、庭先にいたひとりの少年と目が合ってしまう。ぎょっとした顔でこちらを見つめるので、逃げるように昨晩来た道を引き返す。歩くたびにうずく痛みは昨晩よりも激しく、足取りはおのずと重くなる。耳の奥にひびくのは、波の音なのか心のすすり泣く声なのか、よくわからない。

 瓦屋に戻ると、女たちがひとところに集まり、遅い朝食を摂っていた。その日の献立は大和肉の缶詰に青菜のつゆと飯だった。女たちは半島の言葉でかしましく話している。わたしもその末席に加わった。
 この島に着いた日に、わたしたちはスズキから名前を勝手に付けられた。わたしはコハルだ。目の前で亡くなったスンヒが名乗っていたハルコに似ているので気に入らなかったが、どうせ本当の名前ではないのだからと受け入れた。
 わたしは、二軒の立派な赤瓦の家のうち、豚小屋のある東側の瓦屋に、一部屋をあてがわれた。そこにはほかに、コユキ、コハナと名付けられた二人がそれぞれの部屋をわりあてられた。部屋は、畳がしいてあり、大陸にいた頃の倍以上の広さだ。布団も清潔で質がいい。隣の瓦屋には、コマチとアケミ、シノブ、ミハルの四人が行った。
 七人の女たちは夜遅くまで働かされるので、朝が遅かった。したがって食事は一日に二回、昼ご飯に近い朝食と早めの晩ご飯だけだった。そして夜食用のおにぎりを作っておいてもらった。
 軍からの配給で作られる食事は、たまに冷凍のうさぎ肉が出ることもあったが、ふきわらびといった乾燥野菜をもどしたおひたし、缶詰などをおかずにおつゆと飯程度の質素なものだ。
 大陸で管理人だったおかあさんは、女たち同士がしやべることを禁じ、故郷の言葉を使おうものならきつく叱り、ときには殴ることもあったが、ここでは故郷の言葉で話してもスズキは特になにも言わなかった。それどころか、半島から来たばかりで服の手持ちのないコマチがチマとチョゴリばかりを着ていても、怒らなかった。
「俺のことは、オッパ兄さんと呼べばいい」とまで言い、理解があるように見せていたが、どんなに具合が悪かろうが、わたしたちが男たちを拒むことは決して許さなかった。
 コガ隊長の相手をして疲れ切ったわたしはコマチの隣に座り、そっとチマに触れた。そうすると、ささくれだった心がでられていく。
 生成りの麻の手触りは、母やわたしのチマと同じだ。しばらく触れていると、こんどは自分がこんな服を着ていたのがはるか遠い昔のことに思えてきて胸が詰まってくる。
 チマをぎゅっと握りしめると、コマチが気づいて、こちらを見た。
「姉さん、この服を貸しましょうか」
 わたしは首を振って、チマを握る手を放した。
 チマとチョゴリを着たら、きっとわたしは正気を保てない。
 目をつぶって一息ついて、冷めた飯を口に押し込む。けんそうのなか、黙々と食べていると、あたたかいつゆをキクさんが持ってきてくれた。
「ありがとう」
 数少ないしっかりと言える内地の言葉をつぶやくと、キクさんは、口元をほころばした。
 食事を作ったり、井戸から水をんできてからだを洗うための湯を用意してくれたり、こまごまと世話をしてくれるのは、島の中年女性と、キクさんの二人だった。中年女性は口数が少ないが、若いキクさんは、人懐っこく、わたしたちにさかんに話しかけてくる。
 三十歳で一番年上のコハナ姉さんと、私と同じ二十歳のミハルはとても内地の言葉が上手だったが、コマチはまったく話せなかった。あとはわたしのように片言だ。それでも、キクさんはわたしやコマチにもなついてきた。キクさんもわたしと同い年だというが、小柄なので、妹のように思えた。
「キクさん、トウガラシは手に入りましたか?」
 コハナ姉さんが訊くと、キクさんは申し訳なさそうに顔をしかめ、「もっと探してみる」と言ってくれた。
「これ、キクさんにあげる」
 男たちが取りあいのけんをするほど美しい顔立ちのミハルが、兵隊からもらった羊かんを差し出した。
「ありがとう」
 キクさんは両手で羊かんの包みをさすって、屈託なくうれしそうに微笑んだ。
 その日は金曜日で、軍医が検診に来る日なので、夕方も夜も男たちの相手をしなくてよい。そのため気前が良くなったのか、不機嫌なことの多いシノブもキクさんに乾パンをあげていた。
 食事を済ますと、中年女性とキクさんが沸かしてくれた湯でわたしたちはからだを洗った。
 それから、裸のままひとりずつ、軍医の診察を受けた。わたしは軍医の前でも機械的に股を開いた。
 こんどの軍医は若くて色の白い男だった。
「このメーシンコウを毎日塗るように」
 軍医は、赤紫色の薬を股のあいだにはけで塗りながら、先週とまったく同じことを言った。その態度は、まるで汚いものでも扱うかのようだった。最初から最後まで、わたしの顔を見ることはなかった。
 女たち全員が診察を終え、新たな服を着ると、スズキが来て、梅毒予防のなんこうが入った缶をみんなに配った。さっき塗られた赤紫色の薬だ。ここでは軟膏が六〇六号の注射の代わりのようである。
「サックをかならずつけるんだぞ」
 スズキは、念を押すように何度も言った。
 それから、キクさんと中年女性が作ってくれた食事をさかなに、わたしたちは酒を飲み始めた。酒は充分に軍から配給されていた。
 二十三歳のアケミは速い調子で杯をあけると、酔いのまわった目つきでキクさんに言った。
「キクさんはこの島の人だからいいけど、私たちの故郷は遠いから……」
 アケミは目に涙を浮かべている。キクさんはアケミを困惑した顔で見つめている。
「夫と死に別れて、困っていた時に、いい働き口があるって言われて来た。軍需工場で働くのだと思っていた。だけど、こんなに遠いところまで連れてこられて、いつ帰れるのだろう。このまま死んでこの小さな島の土になってしまうのか」
 故郷の言葉で言い、泣き崩れるアケミは、将校と酒を酌み交わしたときにも、正体をなくすほど泣き、瓦屋の外に飛び出したことがあった。そして、女たちの制止を振り切ってなにやら喚き散らし、あたりをふらふらとさ迷い歩いた。アケミはまだ幼い男の子を母親に託して来ていたのだ。
 アケミを見ているのがしのびなくて、わたしたちも酒がすすんでしまう。
 やがて、飲みながら花札をしていたミハルとシノブが取っ組み合いの喧嘩を始めた。日頃から、美貌のミハルに対してシノブは嫉妬していた。シノブのところに通っていた下士官が最近ミハルに夢中になっているのも気に食わないらしい。自分よりも年下なのに生意気だという感情がシノブの方にはあり、ミハルはミハルで気が強く、ふたりはなにかとぶつかることが多かった。
 ここでは、女を決めて通う男が多く、たとえばコユキのところにはコモリ中尉がいつも来ていたし、わたしのところにも、何人か決まった男が通っていた。コガ隊長のように女を自分の滞在する民家に呼びつける将校もいる。
 ふたりは髪を引っ張り、顔をたたきあう。
「この女」
「やい、いい加減にしろ」
 激しく罵倒しあい、やりあっていたが、それまでちびりちびりと酒を飲んでいたコハナ姉さんが仲裁に入ってやっと収まった。
「喧嘩してどうするの。戦争だから、きっともうすぐ私たちはここで死ぬ。だからせめて生きているうちは仲良くしないと」
「死ぬのはいやだ」
 シノブが酒をがぶ飲みする。
「お父さん、お母さんに会いたいよ」
 ミハルがえつを始める。
 コハナ姉さんは、たばこをふかして二人の様子を眺めていたが、ねえ、とキクさんの方を向いた。
「キクさん。死ぬときは一緒だよ。私たちは、この島の、この土地の、肥料になるんだ」
 威勢よく内地の言葉を放ったあと、「だけど、恋しいよ」と、涙混じりに故郷の歌をくちずさんだ。すると、それが女たちの大合唱になった。わたしをのぞく女たちみんなが泣いていた。

아리랑 아리랑 아라리요
아리랑 고개로 넘어간다
나를 버리고 가시는 님은
십리도 못가서 발병난다

「その歌をわたしにも教えてください」
 キクさんがコハナ姉さんに言った。
 わたしたちは、キクさんが覚えられるように、ゆっくりとうたう。

 アリラン アリラン アラリヨ
 アリラン ゴゲロ ノモガンダ
 ナルル ボリゴ ガシヌン ニムン
 シムニド モッカソ パルビョンナンダ

 なんどもなんども繰り返しているうちに、キクさんはほとんどそらんじられるようになった。
 翌日、食事の世話に来たキクさんは、わたしたちとともに、また、いくどもうたった。夜食を作り置きして帰るころには、すっかり歌を習得していた。
 わたしは、男の下で股を開き、心のうちで同じ歌をうたう。すると嬉しそうに歌を口ずさんで帰るキクさんの姿が頭に浮かび、自分がみじめで耐えがたくなってきた。
 きづくと、涙腺が崩壊し、涙がとめどなくあふれていた。
 わたしが泣きぬれているのに気づいた男は、驚いて行為を中断し、からだをはなした。
 不安でおびえた顔になっている。今日初めて来た男だった。
「おい、どこか痛いのか?」
 痛いのは心にほかならないが、黙っていた。すると男は脱いだズボンのポケットから袋包みを出して私に差し出した。
「慰問袋に入っていた金平糖だ。これでも食べろ」
「コンペイトウ……」
 袋の中には、星形の氷砂糖が入っていた。船の上でハルコと食べた氷砂糖だ。じっと見つめていると、ハルコのことが久しぶりに思い出され、さらに涙がこみあげてくる。ハルコが亡くなったときは涙が一滴も出なかったのに、いまはかなしくてたまらない。
 こうして泣くのはいったい何年ぶりだろう。自分でも思い出せない。
「そうか、そんなに嬉しいか。金平糖が好きなんだな」
 わたしはなにも答えずに、ただ、ひたすら泣きながら氷砂糖を眺めていた。
「ほかのやつらからも金平糖をもらって、こんど持ってきてやろう」
 男はそう言うと、ズボンを穿いて部屋を出て行った。

#2-4へつづく
◎第2回の全文は「カドブンノベル」2020年4月号でお楽しみいただけます。



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