【連載小説】小説に書くことの覚悟を問われ、言葉につまった私は――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#5-3
深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。
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それから三十分ほど話した。平良さんは、私が買った書籍をたしかめると、執筆の参考になりそうな書籍をさらにあげてくれた。ずいぶん打ち解けて、最初とは打って変わって親切だった。
「証言集を読めばお分かりになると思いますが、沖縄戦については、どこにいたかで、個々の体験が異なります。戦争の終わった時期も、ひとそれぞれなんです。ですから、どこで起きたことを書くかを定めたら、そこの市町村史を参考にするといいですよ」
書籍にとどまらず、次回取材に来るなら訪ねた方がいい施設もいくつか教えてくれた。
平良さんと別れて国際通りを重い荷物を抱えて歩いていると、疲れがどっと押し寄せてきた。ソーキそばでも食べよう、土産を見繕おうなどと考えていたが、そんな気力はしぼんでしまった。私は大通りに出てタクシーを拾った。
ゲストハウスに戻り、シャワーを浴びて髪を乾かし、人心地つくと、かなりお
食堂には、かなり若そうな、十代とも思われる二人連れがいて、
「河合さん、ご飯はまだですか? こちらで一緒にいかがですか? 多目につくったので」
比嘉さんが私に気づいた。
「あ、いえ」
ありがたい申し出だったが、見知らぬ若い子たちと食事をするのは
「あの、ソーキそばのカップ麵と、ポテトチップス、それと、オリオンビールをください。お部屋でいただきます」
はい、と比嘉さんは立ち上がり、冷蔵庫から冷えたビールを出し、ポテトチップスの袋とともに手渡してくれた。
「カップ麵は出来上がったら、お部屋に持って行きますね」
比嘉さんは、さわやかな笑顔で言った。
私は部屋に帰ると、壁に寄りかかって畳の上に足を伸ばし、缶のプルトップを開け、ビールを喉に流し込んだ。よく冷えていて、生き返る心地だ。げっぷを吐き出して、ポテトチップスの袋を、ばりっと音を立てて開ける。疲れが限度を超すと、こうした
ノックの音がして引き戸を開けると、比嘉さんがカップ麵と割りばしを盆に載せて立っていた。なぜか小鉢もある。
「あの、この小鉢は」
「夕飯に作ったクーブイリチー、きざみ昆布と豚肉の煮物。つまみにどうかと思って。サービスだから、気にしないでくださいね」
「
なんだか妙にじんときて盆を受け取った。だが、比嘉さんはすぐに立ち去らない。
「お盆を返した方がいいですか?」
「いえ、そうではなくて。あの、お部屋もいいけれど、どうせなら、外の風にあたったら気持ちいいんじゃないですか。二階のベランダ、誰もいないから、そこで召し上がったら。星が見えますよ。お疲れのようですけれど、リフレッシュできますよ、きっと」
「行ってもいいんですか」
たしか、二階は、比嘉さんの居住空間だったはずだ。
「どうぞどうぞ。ご案内します。食べ物も運びますよ」
私は比嘉さんの言葉に甘えて、狭い階段をあがり、廊下から二階のベランダに行った。四~五畳程度の広さのスペースに、スチールの椅子が二脚と丸テーブルがひとつあって、物干し台がでんと置いてある。私は椅子に座り、ひとりでカップ麵を食べた。たしかに、涼しい風が吹き、視界も開けて、部屋にこもっているよりは気持ちいい。住宅街なので、特にこれといって絶景というわけではないが、見上げると星空が広がっている。家々の灯が明るく、星の数は阿嘉島には劣るが、東京よりはたくさん望める。
カップ麵を食べ終え、ポテトチップスと煮物をつまみにビールをちびちび飲みながら、今日一日の出来事を
長く濃密な一日だった。阿嘉島でキクさんのアリランの歌を聴き、
そうか、キクさんが、女性たちの
私は傲慢なのだろうか。沖縄の慰安婦を書いた小説で新人賞を取ろうなんて、思ってはいけないのだろうか。
それとも、同じ目線の高さでいられるなら、書いてもいいのだろうか。
しかし、慰安婦と痴漢を単純に結びつけるのには異和感がある。
どうしても彼女たちは私にとって身近ではなく、異常な環境下に置かれた特別な存在に思えてしまう。
だから、なかなか同じ目線になることは難しいように感じている。
題材を変えるべきなのだろうか。昨年のように、自分、が、当事者、の小説に。
だけど、なぜ、今日初めて会った人の言葉によって、小説を書く是非を悩まなければならないのだろうか。
しばらく頭をからっぽにして星を眺める。昨晩、波の音を聞きながら眺めた満天の星はちっとも見飽きなかった。しかし、どこからかこもった人の声が聞こえる中途半端な静けさの中で眺めるそれなりの星空は、つまらない。私は、スマートフォンを手にして、メッセージアプリやメールをチェックし始めた。タブレットも一応ベランダに持ってきたが、取材の復習をする気分ではなかったのだ。
会社の同僚の
私は、「ご無沙汰しております」という件名のメールをすぐさま開いた。
河合葉奈様
お世話になっております。暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
そろそろ、応募作品の執筆を始められた頃ではないかと思い、メールをいたしました。どんな感じでいらっしゃいますか。とても期待しています。次は、ぜひ、河合さんに大賞を獲っていただきたいと思っていますし、獲れると信じています。
河合さんは、もっとはじけて、化けることができると思います。
もし、なにか私が手伝えることがありましたら、遠慮なくいつでもご連絡ください。お原稿を読んで意見を差し上げるだけでなく、テーマの相談などでも構いません。
深瀬真紀拝
これこそ天の助けだ。神様は私を見捨ててはいなかった。
私はタブレットでメールサーバーを開きなおし、深瀬さんに返信をうった。書こうとしている題材についての詳細、取材に来ていることとその成果、平良さんに言われたこと、それに対し自分が思うこと、すべてをあらいざらい吐露した。そしてどうしたらいいかわからず混乱しているのでアドバイスが欲しいと伝えた。その結果、とても長いメールになった。
文字を入力し終えて、ひとつ深呼吸をする。
こんなに赤裸々に書いてしまってよいのだろうか。
いざとなると、腰がひけてくる。恥ずかしい。だけど、
ひとりで悩まなくていい、そう思うと、疲れがどこかに飛んでいく。軽く興奮もしていた。私はもう一本缶ビールを買って部屋で飲もうと、ベランダを出る。すると、二階の部屋のひとつから、声が漏れ聞こえてきた。どうやらさっきの若い子二人のようだ。二階にいるということはやはり客ではないらしい。くっ、くっ、ははは、という笑い声に、テレビだかネットだかの音声が重なって聞こえてくる。お笑い番組かなにかを
笑い声っていいものだなあ、などと明るい気持ちで階段を降り、食堂に行くと、比嘉さんが
「ごちそうさまでした。とても
私は声をかけて、小鉢と盆を返す。
「いえ、お粗末さまです。わざわざ持ってきてもらってすみません。置きっぱなしでよかったのに」
「ちょうど、缶ビールをもう一本いただこうと思っていたので」
「あら、そうですか。ちょっとお待ちください」
比嘉さんは、冷蔵庫からオリオンビールを出して、はい、と差し出し、にこりと笑う。誰のものであれ、人の笑顔を見るのは、やはりいい。楽しそうにしていたことを覚えているというキクさんの気持ちがよくわかる。とくに比嘉さんはよく笑い、その笑顔は、とても素敵だ。こちらの気持ちが思わず和む。そういえばさっきのあの子たちも、よく笑う。血縁なのだろうか。
「あのう、二階にいた女の子たち、ご親戚ですか?」
「ああ、あの子たちですか? 実は、ここ、一階はゲストハウスにしていますが、二階はシェルターなんです。最近始めたんですけれど」
「シェルター?」
「はい。行く場所のない子たちや、困った境遇にある女性、子連れのシングルマザーなんかが逃げてこられる場所にしたいなと思っています」
「じゃあ、あの子たちも?」
「家庭に問題があって、家出した子たちです。あ、大丈夫です。ゲストハウスのお客さんに迷惑をかけたりするようなことはありませんから。せいぜい掃除や洗濯を手伝わせるぐらいです。安心してください」
「いえ、そういう意味じゃないんです。明るそうで、そんな境遇の子たちには見えなかったから」
「小説家としては、気になりますか?」
「まだ小説家ではないですけど、そうですね。なぜ比嘉さんがシェルターを始めたのか、が気になります」
「じゃあ、一緒に飲みましょうかね。未来の作家さんに特別に教えてあげましょうね」
比嘉さんはそう言うと、棚から泡盛の瓶を出してきたのだった。
▶#6-1へつづく
◎第5回の全文は「カドブンノベル」2020年11月号でお楽しみいただけます。