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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.14

【連載小説】暗いガマの中、殺人を命じられたわたしは――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#4-2

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。

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 壕に入ると島民の生活する場所がまずあり、その奥が二手に分かれ、右に行くと病棟、左に進むと部隊の居住する場所となっていた。病棟とはいっても、軍医は一人しかおらず、医療品もたいしてなく、島の女たちやわたしたちのような即席の看護婦が世話をしているので、きちんとした治療や介護など、とうていできなかった。しかもあかりもろくになく、暗い。昼間に天井から入る光があって、やっとなんとか処置ができるといった具合だ。
 わたしは、壕に戻るやいなや、汲んできた水の入った桶を病棟に持っていく。コンペイトウをくれた下士官が左足を切断して高熱を出し、しきりに、水、水、とうわごとのように言っていたので、まっさきに飲ませてあげたかったのだ。
 急に周囲が明るくなって、懐中電灯を持った軍医が病棟にやって来る。真夜中だというのに、こんな時間に来るなんて、めったにないことだ。どうしたのだろうか。
「なにしているんだ。お前ひとりか?」
 軍医は、私の顔に懐中電灯を当ててきた。
「はい。水を……飲ませに……」
「なんだ、お前、歯を折ったのか? 口のまわりが血だらけだぞ」
 眼鏡のつるをつかんで、こちらを見てくる。
 わたしは口に手を当て、歯を触り、唇を拭った。痛いところなどない。歯もちゃんとある。
 手の甲が赤くなっているのを見て、そうかと合点し、桶の中を見る。私の視線を追い、軍医も懐中電灯を桶に当てた。そこには、赤い液体が入っていた。暗くていままでまったく気づかなかった。
「それを飲んだのか?」
 きっと泉の水に、死んだ人たちの血がたくさんまじっていたのだ。泉では、あまりにも喉が渇いていたからか、水の味なんて認識できず、血がまじっているなんてわからなかった。そういえば、泉のまわりには、遺体がいくつもあった。
 つまりわたしは、死人の血を飲んでいたのだ。
 しかし、それが判明したところで、なんとも思わない。驚くこともなければ、気持ちが悪いわけでもない。感情は摩耗していて、よほどのことでなければ、心が動かない。コハナ姉さんの血でもない限り、知らない人の血を飲むぐらいどうってことない。
「まあ、いい。ちょっとこっちに来い」
 そう言って、軍医はわたしを手招きする。ついていくと、瓶に入った粉薬を差し出してきた。
「敵が近くまで来ている。よって、この壕からただちに出ることになった。それで……これを、動けない患者たちに飲ませろ。あの水に混ぜればいい。よし、お前に頼んだぞ。水だと言って、飲ませるんだ」
 軍医は、わたしがげんそうな顔をしたのを見逃さなかった。
「いいか、すぐに始めろ。終わったら、出てこい。先に行っているからな。すぐに出発だ」
 わたしは、てのひらの上の薬瓶を握りしめる。ひやりとした感触に寒気が走った。
 きっと、これは、青酸カリだ。男が見せてくれたことがあり、覚えている。ほんの少し口にしただけで死ねるんだ、とその男が得意げに話していた。捕虜になりそうになったらこれを飲むんだ、とも言っていた。
 軍医は、わたしに、殺人を押し付けるつもりなのだ。
 よりによって、敵ではなく、友軍の兵隊を。
 冗談じゃない。そんな役割はまっぴらごめんだ。さんざんわたしを穴にし、さくしゆし続けた男たちだけれど、殺してしまったら、こんどはわたしが彼らに対して罪の意識を背負わなければならないではないか。そんなことは耐えられない。これ以上わたしを苦しめないでほしい。
 きびすを返し、軍医の目を盗んで瓶を懐にしまい、かわりにひまし油の入った瓶を取り出した。瓶の色かたちはほとんど同じだった。
 わたしは瓶の中身のひまし油を桶の中にあけるとき、細心の注意を払った。粉でなく液体だとばれないように、軍医から見えないようにと桶に深く瓶を入れた。軍医と距離があったのが幸いし、気づかれなかったようだ。
 軍医はわたしがひしゃくで桶の水を混ぜているのをたしかめると、病棟を去った。
 わたしは、ランタンを持ってただちにコンペイトウをくれた下士官のところに行った。彼はもうろうとしているように見えたが、意識はしっかりとあった。
「水、飲んでください」
 ひしゃくに入った水を口元に持って行くと、押し返された。
「聞こえていたよ。ここに薬が入っているに違いない。きっと青酸カリだ。これを飲んだら死ぬ。部隊はこの壕から出て行くんだろう? 俺たちが足手まといだから始末するんだな?」
 わたしは、応えずに黙っていた。
「死ぬのは、むしろ、誇りだ。それに足がないまま生き恥をさらしたくはない」
 そこまで言うと、声を詰まらせ、だ、だけどな、とつぶやくと、わたしにだけ聞こえるほどの小声で、やっぱり、と続ける。
「死ぬのはこわい」
 わたしはかすかにうなずき、男の目を見つめた。男は目のふちに涙をためている。この男の気持ちは理解できる。わたしだって死ぬのがこわくて、ここまでみじめに生きながらえている。
「俺は、コジマシンノスケ、だ。なあ、これを飲む前に、コハルのほんとうの名前が知りたい。朝鮮では何て呼ばれていたんだ?」
 コジマは、消え入りそうな声で頼んでくる。ほんとうの名前なんて、思い出したくないし、言いたくない。
 死にかけているコジマをびんだと思うし、コンペイトウをもらったことはうれしかった。だからと言って、この男にわたしの心を開きたくはない。からだを奪っただけでじゅうぶんではないのか? まさか、心まで差し出せと言うのか。すべてを搾り取るつもりなのか?
 わたしは、コモリを追って死んだコユキとは違う。ぜったいに男たちに情がうつることはない。ミハルみたいに、からだも心も、なじむ、ことなんてありえない。だから、大切な名前を告げるわけがない。黙っていると、男は、そうか、と目をしばたたいた。
「わかった……名前はいい。じゃあ、せめて、最後に、あの演芸会でうたった歌を、聞かせてほしい」
 わたしは、首を振って、拒んだ。
「一節だけでいい」
 弱々しいながら、先ほどより声を大きくして食い下がるコジマにうんざりする。わたしはどこまで行っても、男を慰め続けなければならないのか。
「お願いだよ。ここにいるみんなも聞きたいはずだ」
 コジマの言葉に、たのむ、うん、そうだ、うたってくれ、とあちこちから声が聞こえてきた。
「コハル、たのむ」
 わたしはコジマから視線をそらしてうつむく。すると、膝から下のないコジマの左足が目に入った。
 観念して、大きく息を吸った。そして、演芸会のときと同様に、アリランの歌を内地の言葉でうたった。壕の中は歌声がよく響く。わたしは、内地の言葉の歌詞も、ちゃんと覚えていた。
 コジマはわたしの歌を聞き終えると、涙を流して感じ入っていた。えつしている男もいた。アーリラン、アーリラン、と、自らうたい始めるやからもいる。
 わたしは結局コジマにも、ほかの男たちにも、血とひまし油のまじった水を飲ませることなく病棟を出てきて、コマチ、アケミ、シノブ、そしてコガ隊長率いる二十人足らずの男たちと、壕の入り口近く、島民のいるところで合流した。軍医は素知らぬ顔でこちらを見ようともしなかったし、病棟に確認に行くようなこともなかった。島民たちはそのまま居残るようで、部隊とわたしたちを表情のない顔で見つめてくる。ヤマダが、こっちを見るな、と怒鳴ると、彼らは目をそらしてうつむいた。

 機銃掃射や艦砲射撃の合間を縫うように、さらに南へと壕を移る。部隊はあとずさりし、身を隠しながら戦いを続けていく。負傷者や亡くなるものは増えていくばかりで、戦況がかんばしくないのは、誰の目にも明らかだった。雨が続き、蒸し暑いなか、軍民がまじりあい、じりじりと敵に追い詰められていくうちに、男たちの精神状態は極まっていった。彼らは、敵に投降すれば男は虐殺され、女は犯されるとおどしつけ、ちょっとしたことで暴力をふるった。そして、子どもからも食料を奪った。特にヤマダは残虐さに拍車がかかっている。島民を壕やガマから追い出すのは序の口で、泣きやまない赤子を銃剣で突き刺したり、投降の呼びかけに応じようとする島民を背後から銃殺したりしたこともある。
 わたしはそういった状況に遭遇するたびに、目を閉じ、耳をふさぎ、心を空っぽにした。
 強い日差しが照り付ける日だった。わたしたちは比較的大きなガマに隠れていた。部隊の男たちは、死を覚悟してみずさかずきをあけ、ヤマダを先頭に、たけやりと木箱に入った爆雷を持った島の少年たちをともない、斬り込みに出ていった。残った兵隊はコガ隊長を含め、数人にも満たなかった。
 このガマのなかほどには、天井に両手を広げた大きさぐらいの穴があいていた。そこから自然光が入ってくる。わたしたち四人の女は、差し込む光を頼りに、ガマの下手を流れるせせらぎで、衣服を洗い流し、手足を綺麗にしていた。水は冷たく、涼しい風が吹き抜け、つかの間のさわやかな心地だった。
 ひゅーっという音がやけに近くに聞こえてきたと思ったその瞬間、大きな爆音とともに、意識が飛んだ。気づくと、水の中にいた。からだを起こし、顔を水面に出すと、目の前は真っ白だった。煙で目を開けていられない。火薬の臭いと煙で苦しく、激しくせきむ。
 どうやら天井の穴から爆弾が投じられたようだった。この攻撃で、三人の兵隊が即死した。島民も多くがけがをし、死んでいる。しかし、コガ隊長はわたしたちのいるせせらぎまで吹き飛ばされたものの、かすり傷程度ですんでいた。女たちも、打撲したぐらいで、めだったけがはしていなかった。
 コガ隊長、部隊の残った男たち、そしてわたしたち四人の女は、ガマの裏口から出て、とりあえず、空き家の狭い防空壕に入る。そこでわたしたちは、さて次はどこに逃げるのかと、からだを縮こまらせ、ぎゅうぎゅうに詰めながら、コガ隊長の指示を待っていた。
「部隊をここで解散する。お前たちはどこにでも好きに行ったらいい」
 コガ隊長はそう言うと、さあ、ここから出ていけ、と、わたしたちを防空壕から追い出した。
 いまさら、こんな状況で自由にされても。
 戦火のなかに放り出すなんて、ひどすぎる。
 土地勘もない。内地の言葉が巧みなミハルやコハナ姉さんもすでにおらず、人に話しかけることもはばかられる。そもそも、わたしたちが半島の人間だと知られれば、ましてや何をしていたかを知られたら、どんな目にあうかわからない。
 とりあえず近くにあった豚小屋に身を隠した。そこには見知らぬ人の死体があったが、豚も人も見当たらなかった。
 ぎらぎらと容赦ない陽光を放つ太陽から逃れ、どうにか人目のつかない場所に隠れたものの、なすすべもなく途方に暮れていた。すると、民家の防空壕の方から、手榴弾の爆発音が複数ほぼ同時に聞こえてきた。
 男たちが、消えた。
 やっと穴をふさぐことができる。
 喜ばしいことのはずなのに、わたしは、ただ、あ、死んだ、と事実を把握しただけだった。感慨深いわけでもなく、思わず顔がほころぶわけでもない。むしろ、むなしさでからだの力が抜けた。コマチ、アケミ、シノブの顔をうかがうと、彼女たちの表情もうつろで、そこにはなにも感情が映っていなかった。
 男たちぬきでこの先どうしたらいいのか。
 この国が戦争に負けたら、わたしたちはどうなるのだろう。
 そう思うと、心もとなくて仕方なく、どうしていいかわからない。

 豚小屋の中で三日が過ぎた。少なくとも逃げまどう人たちが、ここにわたしたちがいることに気づくことはなかった。ただ問題は、食料だった。最初は大事に持ち歩いていた黒砂糖を分け合っていたが、それも底をついた。雨の季節のため、貯めた雨水を飲めるので喉は潤ったが、空腹は限界に近い。それに、四人ともぐったりしてきた。とくにコマチは具合が悪そうで、目がうつろで心配だ。
「食べものを探してこよう」
 あたりを見回し、誰もいないのをたしかめてから、わたしが口を開いた。ちょうど雨も降っていない。
「危ないんじゃない?」
 アケミが、同意しかねると言わんばかりに、顔をしかめる。
「目立たないように気を付けるから。ほかの隠れ場所も見つけられるかもしれない。ずっとここにいるわけにはいかない」
「そりゃそうだけど、外に出るのはこわいな」
 シノブは不安そうにこちらを見た。
「わたしひとりで行ってくるから、みんなは待っていて」
「あたしも姉さんと一緒に行く」
 コマチがか細い声で言った。
「大丈夫。必ず戻ってくるから。コマチは動かない方がいい」
「だけど姉さん……はなればなれはいやだ」
 コマチは、めずらしく粘ったが、わたしは譲らなかった。
 ひとり豚小屋から出て、付近を探ったが、何も成果はなかった。サトウキビ畑を見つけたものの、青々とした葉が茂っているだけで口にできるものはなさそうだったし、砲弾でほとんどなぎ倒され、畑にぼこぼこと穴があいていた。
 行き倒れている人の服からも、食べものらしきものは出てこない。誰かが取っていってしまったか、もともと持っていなかったのだろう。また、隠れられそうなところは、すでに人があふれていた。諦めて戻ろうとしたが、壊され、焼き尽くされ、穴だらけの景色はどこも似ていて、わたしは道を見失ってしまう。みんなのいる豚小屋がどこなのかわからず、ぐるぐると何時間も歩き回った。疲れ果て、井戸を見つけて近寄ると、そこは遺体で埋まっていて、枯れていた。
 ようやく、コガ隊長たちが隠れた防空壕のある民家にたどり着く。最後の望みをかけて、防空壕を開けると、きつい腐臭が襲ってきたが、意を決し中に入る。真っ暗ななか、手探りで、ばらばらの肉体に張り付いた衣服をまさぐり、食べられるものを見つけ出す。
 軍服のズボンのポケットに、芋が一片入っており、収穫はそれだけだった。それでも、なにもないよりはましだと、芋を懐にしまった。一口ずつでも、飢えはしのげる。
 急いで豚小屋に向かったが、そこに、三人の姿はない。ただ、かなりの量の軍票がまるでばらまかれたように落ちていた。私は気が遠くなり、その場にしゃがみこんだ。
 すると、後ろから口をふさがれ、ぐいっと引っ張られた。

#4-3へつづく
◎第4回の全文は「カドブンノベル」2020年10月号でお楽しみいただけます。


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