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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.19

【連載小説】ガマの中で炎に焼かれたわたし。目を覚ました場所は――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#6-1

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。



前回までのあらすじ

仲間とはぐれ、ひとり彷徨うわたしを助けてくれたのはキンジョーという男だった。彼とともに逃げこんだガマに、投降を訴えかける米兵の声が届く。小説家志望の私は、勝負作として沖縄戦と慰安婦の物語を書くことを思い立ち、沖縄へと飛んだ。ガマや離島での取材を終え、意欲に燃える私であったが戦争体験者の聞き取りをしている女性から厳しい言葉を投げかけられて⋯⋯。

 潮がひいた砂浜でアサリを集めながら、ふと手を止める。早朝のやわらかなしがわたしを包み込んでいる。心地よさに思わずまぶたを閉じると、波音がやさしく耳に響いた。
 父とともにこの海で遊んだことが思い出される。泳ぐのが楽しくて仕方なかった幼いころの記憶。貧しくても、笑い声がそこかしこに満ちていたあのころ。
 目を開けて、水平線を遠く見やる。きらめく水面は美しく、わたしを沖へといざなう。だが、いまはもう、海に入ることはない。岸辺に来るのは、貝や海草を探すためだけだ。そうやって働くばかりの日々がずっと続いている。それに、海女でもないのに女の身で泳いだら、はしたないと、白い目で見られてしまう。
「なにをぼうっとしているの」
 姉さんにどやされて、慌てて貝集めの作業に戻る。地主の家に住み込みで下働きをして、三ヶ月が過ぎている。それまでは、伯父さんの家で網をつくろったり、魚を仕分けたり、貝や海草を採るのを手伝っていた。地主の家の仕事はまだ不慣れで失敗も多く、ともに働く姉さんは、いつもわたしにいらち、「あんたがのろまだとあたしが叱られる」とぼやく。姉さんには、きょうだいが七人もいて、十歳にならないうちから外に出され、この家で働いているという。
「あんたんとこは、弟だけでしょ」とたびたび言われる。だが、漁師だった父は弟が生まれてすぐに事故で亡くなり、その後働きすぎてからだを壊した母はたいした仕事ができず、わたしの家も、極貧であることに変わりはない。そもそも、貧しさを比べても、なんの意味もない。ごく一部を除いては、集落のほとんどが貧しいのだ。
 おけの半分ほど集めたアサリをたずさえ、地主の家に戻った。明日はチユソク茶礼チヤレがある。その準備のため、人の出入りが激しい。食材を届けに来る人々に加え、手伝いに来る人など、ほとんどが同じ集落の見知った顔だ。そのなかに、軍服姿の男が、なまりや風情からして地元の人間ではなさそうな男と一緒に来ていて、主人が丁重にもてなしていた。
 なぜよそものの彼らが、茶礼の前日にここに来ているのだろう。
 んできた水でアサリを洗いながらいぶかしんでいたが、しょせん自分には関係ないので、それ以上考えなかった。
 アサリを塩水につけると、ぷくぷくと泡をふいて砂を吐きはじめる。環境が変わり、もがいているのだろうか。まるで追い詰められて生きる半島の民のようだ。わたしはそのさまをしゃがんでしばらく眺めていた。
 アサリは人間に食べられて命尽きる運命だが、わたしたちはこの先どうなるのだろう。
「ちょっと話があるんだけど」
 声に振り向くと、奥さんが傍らに立っていた。話しかけられたことなどほとんどないので、驚いて身構える。
 なにか粗相をして姉さんに言いつけられたのだろうか。
 まわりがせわしく動くなか、ぼんやりとアサリを眺めていたことを、とがめられるのだろうか。
「すみません」
 頭を下げたら、奥さんは、あらどうして謝るの、といてきた。
「それは、そのう」
「いい話があるの。こっちに来てちょうだい」
 言われるがままついていき、ちゆうぼうから中庭に出た。茶礼につかう食器を拭いていた姉さんが、こちらを不思議そうに見ている。
 奥さんは、中庭の隅で立ち止まった。
「大陸で稼げる仕事があるらしいの。あなた、行ってみたらどうかしら?」
 わたしは、意外な提案にとまどった。
「なぜ、姉さんではなくてわたしに?」
 姉さんにちらりと視線をやると、まだこちらを見ていた。
「ああ、それはね。長くいるあのがいなくなるとうちが困るでしょう。あなたなら、日も浅いし。としも若い方がいいっていうから。あなた、たしか、十七、だったかしら」
「はいそうですけれど」
 つまり、わたしは、ここでは役立たずで、いらない人間だということか。いい話というが、喜ぶべきなのかどうかわからない。
「どんな仕事でしょうか」
「私もね、詳しくはわからないのだけど、部隊で兵隊の世話をするみたいよ。簡単な仕事ってことだから、きっと、洗濯とか、炊事じゃないかしら。いまあなたがここでしていることと、たいして変わらないでしょうね」
「それで、たくさん稼げるんですか」
「大陸まで行くから、給金もいいんじゃないかしらね。あなたが稼いだら、お母さんも助かるでしょう」
 そう言われても、大陸なんて遠いところに行くのは、気が進まない。それに、兵隊のそばで働くのも怖いような気がする。言葉も通じないし、戦地は危なそうだ。
 黙っていると、奥さんが、せっかくの、と続けた。
「いい話だから、行きなさいな。ずっと行きっぱなしってわけでもないでしょう。戦争に勝ったら帰って来られるんだから」
 そうだ、戦争には必ず勝つだろうから、そんなに長い間ではないだろう。そして、稼げる、という言葉は、魅力的だった。仕事もたいして難しくはなさそうだ。
 これで、母に楽をさせてあげられる。弟が空腹で泣かなくてすむ。もしかしたら、学校にも行かせてやれるかもしれない。
 わたしは、前向きな気持ちになっていた。
「はい、行ってみます」
 答えると、奥さんは、ほっとした顔で、よかった、と言った。
「じゃあ、早く支度なさい。荷物は最小限でいいそうよ。あっちには何でもそろっているんですって。身ひとつでいいくらいですってよ」
「これから支度するんですか? 母や弟に会ってから行くことはできますか?」
「それはできないの。すぐに連れて行く、ってことみたいだから」
 わたしは、そんな、としか言葉が出なかった。すると奥さんが、だいじょうぶよ、と力強く言った。
「私が、ちゃんとあなたのお母さんに伝えておきますから。この機会は逃さないほうがいい。ほかの娘が代わりに行ってしまうわよ。もったいない」
 わたしは、姉さんの方をふたたび見た。姉さんは、せっせと食器を拭いていて、もうこちらを見てはいなかった。
 たしかに、稼げる仕事を、ほかのひとに譲りたくはない。
「わかりました」
 三ヶ月前に別れたときの母は、おそろしく顔色が悪かった。わたしのてのひらを弱々しく握ってき込んでいた。そんな母とまだ幼い弟を置いていくのは心苦しいが、仕方がない。
 わたしは、奥さんに、「母によろしく伝えてください」と深く頭を下げた。すると、奥さんのチマについている、すいのノリゲが目に留まった。

 ノリゲの薄い緑色が溶けるように広がり、やがて海となる。沖には穏やかに波がたち、白い砂浜が目の前に現れた。
 わたしは、岸辺にたたずみ、翡翠色の海に向かってうたおうと、息を吸う。
 しかし、声が出ない。苦しい。
 顔がひりついて、ものすごく痛い。
「ほら、水さ、水」
 声がしたと同時に、翡翠色の海が視界から消えていく。
 唇が湿り、口内が潤ってくる。わたしはそのわずかな水をごくりと飲みこむと、目を開けた。まぢかに、しわだらけの浅黒い顔がある。
「気がついたね」
 男は、わたしの手をとって、よかった、よかった、と目じりを下げた。
 この人は誰だろう。見たことがある。声も聞き覚えがある。
「ドクター、ドクター」
 男が叫んだ。
 何を言っているのだろう。意味がわからない。
 そしてここは、どこだろう。わたしは、海辺に立っていたのではなかったか。
 あたりの様子を探ろうと首を動かしたら、激痛が走った。
「動いちゃいけないね」
 男が、わたしの頭をそっともとにもどした。すると見えるのは、大きな布が張られた天井だ。
 頭をはたらかせて、自分の置かれた状況をつかもうとするが、痛みが走り、深く考えることができない。意識もまだもうろうとしていた。
 また違うだれかが顔を寄せてくる。見たことのない瞳の色だ。青みがかった灰色。そして、高い鼻。白い肌に赤茶色い髪の毛。
 わたしは、息が止まりそうになる。
 敵だ。
 次の瞬間、豚のふんの臭いが、敵の男の身の重さが、なまなましくよみがえった。
 からだががたがたと震え、制御できない。この場から逃げたいが、手も足も硬直して思うように動かせない。それでもせめてと、喉の奥から声を絞り出すが、ひゅーひゅーと息が漏れるだけで、意味を成す言葉にならない。
「大丈夫さ。怖がらなくていい」
 ああ、そうだ。この男は、キンジョーだ。やっと思い出した。豚小屋で途方に暮れていたわたしを助けてくれた。しかし、なぜ、キンジョーは、敵の男と一緒にいるのだろう。
「このひとは、医者さ、医者。あんたを治してくれる」
 敵の男は、わたしにほほえみかけてくる。
 なにがなんだかわからない。
「ここは、収容所だ。あんたは、ひどいやけどを負ったんだ。まる一日意識を失っていた」
 やけど? なぜ?
 わたしは記憶をたどっていく。
 猛烈な熱さとガソリンの臭い。髪が、皮膚が、服が燃えるばちばちという音。
 すさまじい痛みと苦しみ。
 ああ、あれは、ガマのなかのできごとだ。わたしは、炎にみまわれた。
 すべてを理解する。つまり、さっきまでわたしは、故郷を離れた日のことを夢に見ていたわけだ。
「痛いかね?」
 わたしはかすかに顎を引いてうなずいた。
 ずきん。
 刺すような強い痛みが首元を走り、けいれんした。
「モルヒネをうってもらったら、すこしは楽になるさ」
 キンジョーは、鼻の高い医者に、うん、と合図をした。すると、医者は、わたしと視線を合わせてまばたきをした。まつげが長い。
 医者は、そっとわたしの腕をとった。わたしはもう抵抗しなかった。医者は優しいし、キンジョーもそばにいるから、悪いようにはされないだろうと信じた。そして、注射針を刺されながら、大陸で六〇六号を打たれたときのことを思い出していた。あのときの軍医は、ろくにわたしの顔を見ることなく、乱暴に器具をつっこんできたのだった。

 わたしは、包帯を巻きつけられ、目と口、耳と鼻の穴が出た状態で、テントの中にあおけで寝かされている。キンジョーによると、おもに、からだの前面にやけどを負っており、頭と顔、首がひどいらしい。服も燃えたが、すぐにキンジョーが火を消してくれたので、肩から下は軽度ですんだという。
「熱もあるし、傷にもよくないから、動いちゃいかん」
 キンジョーは、らした布をわたしの口に当て、水を飲ませてくれながら、「ほんとうに、生きていてよかったさ」と、しみじみとした調子で言った。
 そうだろうか。わたしは、生きていてよかったのだろうか。
 痛みにさいなまれて動けない、口もきけない。こんな状態なら、死んだ方がましだったのではないか。
 けれども、こうして、わたしが生きていることを喜んでくれるキンジョーがいるなら、死なずにいた意味もあるのだろうか。
「やけどがよくなれば、動くこともできるさ、きっと」
 キンジョーは、自分に言い聞かせているかのような口ぶりだ。
「あんたのこと、娘だって言ったのさ。じっさい、死んだ娘と歳も近いからね」
 それからすこし間をおいて、だけど、とささやくように言い、周りを見回して続ける。
「チョーセナーの女たちは、別の収容所に集められているって聞いた」
 つまり、その収容所に行けば、コマチやアケミ、シノブが見つかるのだろうか。
 わたしは、三人に会いたくてたまらなくなった。なんとか、生き延びていてほしい。
 だが、そこは安全なのだろうか。
 敵の男たちに、どういう扱いをされるのだろうか。
 さっきの医者みたいに、人間扱いをしてくれるのだろうか。
「とにかく、だ。やけどが治るまでは、私といればいい」
 うん、と顎を動かすと、さっきよりは痛みがましだった。
「娘の名前は、シズコだ。これからはあんたをシズコと呼ぶよ。シズコ、腹が減っただろう。なにか持ってこようね」
 キンジョーは立ち上がって行ってしまった。
 シズコ、シズコ。わたしはシズコ。
 心のうちでくりかえして、新しい名前を頭に刻み込んだ。

#6-2へつづく
◎第6回の全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2020年12月号

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