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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.4

【連載小説】 前線を離れ、南方の島へと移動することになったわたしは――。 深沢潮「翡翠色の海へうたう」#1-4

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。

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 軍医に、朝から診察を受ける。性病に侵されていないか、大きなはさみみたいな金属の器具をつかって点検される。
 奥が腫れて裂け、出血までしているのに、軍医は問題なしとした。性病にさえなっていなければ、気に留めないのだ。胸が痛いと訴えてみたが、ろくに診てくれなかった。
 ウメコはこの軍医に最初に犯された。さぞ怖かったことだろう。
 監視が厳しくて、逃げようにも逃げられない。たとえ逃げたところで、右も左もわからない大陸で生き延びることなどできるはずもない。絶望してクレゾールを飲み、死を選んだウメコの気持ちはよくわかる。
 黒縁眼鏡をかけ、めったに硬い表情を崩すことのないこの軍医にウメコの代わりにふくしゆうしたいが、手立てがない。それでも、梅毒防止の六〇六号を注射されながら、軍医が泡を吹いて倒れるさまを思い描いてひとり楽しむ。この黄色く光る注射液をどれくらい打ったら軍医を死なせることができるだろうか。
 しかし、そのうちにげっぷがあがってきて、想像の楽しみは途絶える。自分の口や鼻から放たれる六〇六号の腐臭で気持ちが悪くなる。
 わたしのからだは、汚れきって腐っている。もう、故郷には帰れない。
 薄い布団しかない一間程度の広さの板張りの部屋に戻って、からだを横たえた。すきま風に寒気をおぼえ身震いする。ごわつく着物を重ねて着こみ、からだを丸めた。
 とりあえず、きょうは、将校が来る夕方まで休めるはずだ。だが、からだのあちこちがうずき、なかなか寝付けない。ようやくまどろみかけていると、おかあさんにたたき起こされた。
「荷物をまとめなさい」
 慌てて身支度をすると、ほかの女たちとともに、追い立てられるようにそこから出され、並ばされた。ほとんど外出することはなかったが、あらためて見ると、民家を改装したたいして大きくもないその建物に十人近くの女が詰め込まれていたとは信じがたかった。
 わたしは、フミコやウメコの顔を思い浮かべてしばらく建物を眺めていた。
「ぐずぐずするなっ」
 兵隊にどやされ、トラックの荷台に乗せられた。
 どこに行くのか、尋ねたところで答えてはくれまい。ここに来たときもそうだった。
 黙って従い、数時間ふきさらしの荷台で揺られ続けた。果てしなく続く荒涼とした景色は、わたしの心とからだを冷やしていく。橋を渡るとき、トラックから降り、河に飛び込んでしまいたくなったが、立ち上がる気力も体力もなかった。女たちはみな絶望の表情を浮かべ、互いに話すこともない。
 汽車に乗り、数日を経て大きな港に着いた。大型船や小型船が泊まっている。誰も教えてくれないし、看板があっても字が読めないので、どこにいるのか、まったく見当がつかない。だが、このあいだまでいたところよりは暖かい。
 濃紺の海を見て、故郷の港町を思い出し、胸が張り裂けそうになる。きっとこの海は故郷の海とつながっている、そう思うと、せめてここで死にたいと、海に飛び込んでしまいたくなったが、見張られていてできないし、そんな勇気もない。
 わたしたちは、大型船の貨物室に入れられた。おかあさんとはここで別れた。貨物室には、同じような女たちがたくさんいた。みな、わたしたちと同じ半島出身だった。だが、互いに話してはいけないと厳しく言われていた。
 それからは昼も夜も定かでなく、何日過ぎたか、正確には覚えていない。からだの痛みはましになっていたが、ずっと空腹だった。たまに握り飯程度の食事を与えられてもとうてい足りなかった。
 途中、港に立ち寄るものの、わたしたちは貨物室から出られず、そこがどこなのかやはりわからなかった。やがて内地に着いたと言われ、さらに大きな船に乗り換えた。兵隊も乗り込んだが、彼らは甲板にいて、わたしたちはまた貨物室に入れられた。女は増え、なかには内地や大陸出身者も交じっている。アヘンが切れて震えている女もいた。
「この船は南方の島に行くらしい」
 あらたに乗ってきた女たちがそっと教えてくれた。内地の言葉がよくわかるらしいハルコという女に、どこの島かといたが、そこまでは知らないと言われた。
 乗り換えた船はなかなか出発しなかった。
「向かう予定の島が空襲されたので、出発を見合わせたらしい」
 ハルコが誰かから聞いてきてささやいた。ハルコとは同じ歳のせいかどこか通じ合うところがあり、監視の目をかいくぐってよく話をした。
 朝晩、甲板にあがって兵隊と並んで点呼をとられた。狭いところに雑魚寝だったがこうして船にいるほうが、穴にされるよりはよっぽどましだと思った。
 遭難したらいざというときに海上で食べなさいということで、乾パンとあめだま、星形の小さな氷砂糖が配られたが、私とハルコはすぐに食べてしまった。いざというときなんて考えてもしかたない。いま、この瞬間、すこしでもいいこと、楽になることをしておきたい。氷砂糖はとても甘くて舌で溶ける感じがたまらなかった。ハルコは目を閉じてしみじみと味わっていた。
 わたしは、ずっとこのまま出発しないでいてほしいとすら願った。だが、残念ながら一週間ほどして、船は出航した。何日経ったかということを考えても、泊まっている間は辛くなかった。十月の末だとハルコが言っていたが、この先はまた月日を数えるのが無意味になる。
 船は揺れた。胃がしめあげられるようで、わたしは薄暗い貨物室のなかでなんどもえずいた。船酔いした女たちはそこかしこに吐き、バケツからふん尿にようがこぼれてあたりは汚れ、耐えがたい臭いが満ちた。そのために、また吐き気があがってくるが、吐くものはなかった。全身汗ばんで、島に着いたときには、立ち上がるのがやっとだった。
 足取りもおぼつかなく桟橋に下りると、海の色は見たこともないほどやわらかい緑色だった。
 こんなにれいな海があっても、わたしは故郷でしたように貝を拾うことも、岸を歩くこともできないだろう。
 そう思うと、海の美しさは悲しさを呼び起こすものでしかなかった。だから私はなるべく海を見ないようにした。
 大陸の乾いた風とは異なるねっとりとした風が生ぬるく、肌にまとわりついてくる。生命の気配を色濃く感じさせる重みのある匂いは故郷でなじんだ潮の香りだ。だが、人はほとんどいなかった。
 空襲の傷跡がなまなましく、家々の塀や壁には弾の跡があちこちにある。住民はみな避難してしまっているようだった。わたしたちは、空いている病院を仮の宿として泊まった。アヘンの女はいつの間にかいなくなっていた。
 周囲には、浅い壕がそこかしこにある。この島は、穴、だらけだった。
 数日後、女たちは十人程度ずつに分けられ、港からそれぞれ小ぶりな漁船に軍の荷物とともに乗せられた。どこに行くのかはわからない。わたしは、振り分けられた七人と、スズキという男と一緒だった。大陸にいた頃に一緒だった女たちとは別々になった。幸い、ハルコとは一緒だった。
 小さな船だったので、みな甲板にいた。荒い波に船はよく揺れ、わたしたちはたびたび顔に波をかぶった。ハルコは泳げないから怖いと言って、わたしの手を握っていた。
「着いたらまた兵隊と、させられるんだよね」
 ハルコが故郷の言葉でささやく。
「それしか、用がないからね」
 吐き気に耐えつつ投げやりに答えると、ハルコが絞り出すような声で、もういやだ、と言った。わたしはうなずいて、ハルコの手を強く握った。
「名前、ハルコじゃないよ。スンヒ。覚えておいて」
 スンヒはそう言うとわたしの手を振りほどいて立ち上がり、海に飛び込んだ。
 スズキがなにやらわめき、船内は大騒ぎになって、エンジンが止まった。だが、スンヒは瞬く間に波にのまれ、あおい海に消えていった。みな、なすすべもなかった。
 わたしはスンヒが沈んでいったあたりの潮を見やり、死ねるスンヒが羨ましい、と思った。わたしだって生きていたくないのに、死ぬ覚悟もない。
 船は、とても小さな島に着いた。陸にあがると、そこから見える海岸はここに来る前の島の海岸よりも、もっともっと綺麗だった。こんなに美しい景色がこの世にあるとは信じられない。夢を見ているようだ。いっそすべてが夢であってほしい。
 海は、地主の奥さんがつけていたノリゲのようなすい色で、砂浜は洗いたてのチマとチョゴリのように白い。
 故郷を離れてから、ずっと着物かワンピースを着せられている。もう二度とチマとチョゴリを着ることはできないだろう。
 こんなに遠くに来てしまった。
 両親や弟の顔が目に浮かび、立ち止まって海岸を見つめていた。するとスズキがわたしの肩を押して歩かせる。
「人に見られるだろ。はやく歩け」
 わたしたち七人の女とスズキは、海を背にして山の方に向かった。迎えに来た兵隊とともに集落を通り過ぎたが、道には誰もおらず、静まりかえっていた。
 集落のはずれの奥まったところに、二軒の赤瓦の家があった。一軒からは、豚の鳴き声が聞こえる。
 わたしは、ここでふたたび、穴、に、される。

#2-1へつづく
◎第1回の全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2020年1月号

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