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連載

深沢潮「翡翠色の海へうたう」 vol.15

【連載小説】傷つけられ、ひとりぼっちのわたしを救ってくれたのは――。深沢潮「翡翠色の海へうたう」#4-3

深沢潮「翡翠色の海へうたう」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 殺されはしなかったが、心は死んでしまっている。いっそ殺してくれたらよかった。顔は見えなかったし、見ようともしなかった。だけど、あれは、敵の側の人間だった。これまでの男たちとは違う体臭だったし、聞いたこともない言葉を発していた。
 大男がいなくなっても、しばらくぼうぜんとして動けなかったが、ようやくからだを起こし、はぎとられた着物とモンペを手繰り寄せる。モンペは破れて使い物にならなかった。
 キクさんにもらった白いかすりがらの着物は無事で、わたしは座ったままそれを羽織る。そして、着物の上から自分のからだを包むように抱きしめた。
 股の間から、ぬるっとした白い粘液があふれ出てくる。わたしは、自分の歯でモンペを引きちぎり、股を開くと、ひまし油をそこに塗った。それからモンペの切れ端にもひまし油を塗ると、それを自分のなかに突っ込み、ひたすらに搔き出した。布が粘膜にこすれてひりひりと痛むが、奥まできっちりと入れては出す、を繰り返す。敵の生臭い体液を、一滴たりともわたしのなかに残したくなかった。
 けれども、ふとあることに気づいて手を止める。
 あれがあるじゃないか。もういい加減、あれで、楽になろう。
 着物やモンペがあったあたりを見ると、青酸カリの瓶は無事で、地面に転がっていた。そしてその横には泥だらけになった芋が一片ある。わたしは四つんいになって青酸カリの瓶に手を伸ばす。
 まさに手が届きそう、というときに、誰かの手が瓶をとりあげた。
「やめなさいね。死んだらいかんね」
 男の声がして、わたしは慌てて体勢を立て直す。そして、素早く破れたモンペで股を隠し、着物の前を合わせておさえた。
 浅黒い顔の、背の低い男だ。軍服ではないので、おそらく島の人間だろう。
 こんどはこの男にやられるのかと半ば諦めの境地で、逃げもせずに放心していると、男は人ひとりぶんの距離以上は近づいて来なかった。
「だいじょうぶかね?」
 わたしは無反応で、座っていた。
「ほら」
 男は手に持っていたものを投げてくる。それは、血のついた軍服のズボンだった。
「それをはくといい。さっき急いで日本兵の遺体から失敬したズボンだけど」
 素直に従い、座ったまま着替える。腰が抜けたのか、立ち上がることができなくなっていたのだ。わたしは、上に着物、下にズボンといった格好になる。腰のひもをきつく締め、足元は丈が短くなるように裾を折り込んで調整した。
 男は、一歩、二歩とわたしに近づき、手が届く程度の距離をあけて座ると、ポケットからかつおぶしのかけらを出して、わたしにくれた。それから、水筒の水もわけてくれる。わたしは、黙ってそれらを口にした。鼻の奥にこみあげてくるものがあって、鰹節の味がわからない。
「名前は?」
 名前、名前。わたしの名前はなんだっただろうか。
「こっちは、キンジョー」
 キンジョーは、黙っているわたしに、身の上話を始めた。歳は五十で、三日前に妻と娘、孫を亡くしてひとり生き残ったそうだ。キンジョーが食料を調達しに行ってガマに戻ると、そのガマにいた人たちは、軍民ともに手榴弾で死に絶えていたらしい。二歳の孫は、頭に銃弾の跡があったという。
「ぜったいに、わたしを置いて死ぬわけない。無理に殺されたんだ」
 キンジョーは、震える声でそう言うと、顔を近づけてきて、わたしを見つめた。キンジョーの瞳は、濡れていた。
「死んじゃいかん。なにがあっても命は大切にしなければいけないよ」
 わたしは、キンジョーの視線が重くて、目をそらした。
「あんた、チョーセナーだろう。ヤマトの言葉は、日本語は、わかるかねー?」
 こくりとうなずくと、キンジョーは、それなら、と続ける。
「ここは、危ないから、逃げないといかんね。ほら、立って。一緒に行こうね」
 わたしは、なにか言おうとするが、声が喉につっかかって、出てこなかった。答える代わりに、うんうんと首を縦に振って立ち上がり、キンジョーについていく。すると、ドロッとしたものが股から出てきて、粘っこい塊がズボンの股を濡らした。
 わたしは、一瞬歩を止めたが、ぐっと唇をかみしめて、キンジョーのあとを追って豚小屋を出た。

 キンジョーは、道に明るく、どこになにがあるかもよく把握していた。わたしはキンジョーとともに戦火から逃げ、亀の甲羅のような屋根を持つ巨大な墓を見つけて隠れた。そこには軍人と、男と同じような軍服を着た女が先にいて、ふたりはわたしとキンジョーを拒まず墓に入れてくれた。男の部隊も解散し、ふたりで逃げているなか、この墓を見つけたということだった。どうやら女はわたしと同じように部隊で男の相手をさせられていたようだが、もともとは内地の遊郭にいたという。ふたりはわたしとキンジョーの関係を特に不審がることもなかったし、なにか訊いてくるということもなかった。
「あんた、色が白かとね。チョーセンから来たんでしょ。こんな遠くまでねえ」
 女はわたしに微笑ほほえむと、黒砂糖をわけてくれた。コハナ姉さんぐらいの歳だろうか。
 ありがとう、と言おうとしたが、声が出ない。わたしは、サトウキビ畑での一件以来、声を発することが、話すことが、できなくなってしまっていたのだ。
 だが、故郷のことばで話す仲間もいないのだから、しやべれなくてもいい、と思っていた。逃げ回る上で、口を開かなければ半島から来たと簡単にばれなくていいとも考えたが、それは甘いようだった。いまのように見た目でわかってしまう。
 その墓に二日ほどいると、また敵が近づいてきたので、キンジョーと逃げようとしたら、軍人の男が、もう逃げるところもじきになくなるから、きみたちは投降したらいい、と言ってきた。
「敵に見つかったら殺されるんじゃ?」
 キンジョーがいぶかしむ。
「きみは軍人ではなく、沖縄の民間人だし、殺されることはないはずだ。朝鮮人もね」
 眉根を寄せて、そうですかね、とキンジョーが答える。わたしは、豚小屋での記憶がよみがえり、ぶるぶると頭を振った。投降なんかしたら、また酷い目にあう。
「あなたはどうするのですか?」
 キンジョーが問い返す。
「うむ。私は……陛下のせきとして、軍人として、日本男子として恥じない最期を求めているんです。私の上官は、自決を選ばず部隊を解散したから、こうして宙ぶらりんになってしまった。だけど、もうすぐ敵もここに来る。堂々と死ねる。すがすがしく、待ち遠しいです。華々しく散ります」
 軍人の笑顔は、かなしいまでに晴れやかだった。そして、傍らの女も、やわらかく微笑んでいた。

 雨と暑さ、ひもじさに耐えながら、ガマや小屋、民家、防空壕を転々として、半月ほど経っただろうか。キンジョーは偶然に民家の井戸につながる自然のガマを発見した。
 入ってみると、細長くガマは延び、奥行きはかなりあった。数十メートル続いている。誰もいないのかと進んでいくと、離島の瓦屋ほどの広さの空間があり、そこには二十人くらいの人がいた。みな島の人間で、軍人はいないようだ。ほとんどが老人と女性、子どもたちだった。
 水もあり、ここなら長く隠れられるのではないかと思った。ガマからの出口はいくつかあり、周りは沢や林に恵まれ、食料を確保するのにも苦労がなかった。実際、キンジョーはカエルやかたつむりをつかまえてきた。ハブをとってきたこともある。ただ焼いたりとか、煮たりするだけの簡単な調理だったが、これらはかなり美味しく、まわりの人とも分け合った。飢えていたわたしたちにはたいそうなごちそうだった。
 ここでは、顔やからだが薄汚れてきたからか、半島の人間だと言われなくなっていた。ひょっとすると、わかっていても、知らぬふりをしてくれていたのかもしれない。ガマのなかの雰囲気は軍人がいるのとは大違いだった。子どもが泣くと緊張が走ったが、外に漏れてはいないようで、激しく責める人はいなかった。
 キンジョーとわたしがガマに来ておよそ一週間後、ひとりの男がガマにあらたに逃げてきた。縦じまの黒っぽい着物が着崩れていて、島の者のようだが、なんとなく違和感があるし、どこか見覚えがあり、じっと見つめてしまった。
 目が合うと、男はかなり動揺して顔を横にそむける。
 間違いない。男は、ヤマダだった。
 斬り込みに行ったはずの男が、なぜ、民間人になりすまして逃げ回っているのか。
 わたしは、だれかにヤマダのことを訴えたかったが、声が出なくて、告発できなかった。すると、最初はわたしのことを警戒していたヤマダもわたしの失語を知り、安心したようだった。しかしそのうちに従来の粗暴で横柄な性格が顔を出し、ガマのなかで人のとってきた食料を奪ったりしはじめた。

#5-1へつづく
◎第4回の全文は「カドブンノベル」2020年10月号でお楽しみいただけます。


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