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連載

全部読んだか? 東野圭吾 vol.14

「医療ミスを公表しなければ、病院を破壊する」大学病院に突然届いた脅迫状。交錯する疑念と怒りに、手に汗握るサスペンス。東野圭吾試し読み#7『使命と魂のリミット』

全部読んだか? 東野圭吾

全部読んだか? 東野圭吾――第7回『使命と魂のリミット』


東野圭吾『使命と魂のリミット』(角川文庫)

東野圭吾『使命と魂のリミット』(角川文庫)


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 ◇ ◇ ◇

     1

 麻酔の導入は問題なく完了した。手術台上の患者の体位も決められ、手術を施す部分の消毒も行われた。
「始めます。お願いします」執刀医の元宮もとみや誠一せいいちが言葉を発した。いつもと変わらず、よく響く声だった。
 氷室ひむろ夕紀ゆうきは元宮と向き合う位置にいた。目礼をしてから、こっそりと深呼吸した。緊張をほぐさねば、と自分にいい聞かせていた。もちろん、そんなことばかりを考えて、自分のすべきことに集中できなくなっては意味がない。
 手術の内容は、冠動脈バイパス術だった。それも人工心肺を使用せず、拍動下で手術を行う、Off Pump CABG、通称OPCABだ。
 夕紀の大きな役目は左腕の橈骨とうこつ動脈を採取することだった。この場合、その動脈をグラフトといい、バイパス血管として使用するのだ。胸の内側にもグラフトとして使用できる動脈はあるが、どちらがいいと思うかと元宮から質問された際、橈骨動脈と夕紀は答えた。そちらのほうが血管が太いし、何より患者は糖尿病を持っていた。内胸動脈を使用した場合、手術後に縦隔炎を起こすリスクがあった。彼女の解答に指導医は頷いた。
 もちろん夕紀は事前に左腕から動脈を採取することを患者に告げている。
「傷跡は残ります。それでも構いませんか」
 彼女の質問に、七十七歳の老人はにこやかに笑った。
「今さら腕に傷跡が増えたって、どうってことないですよ。それに、胸にだって傷跡が出来るわけでしょう?」
 それはもちろん、と彼女は答えた。
「だったら、先生が一番いいと思う方法を選んでください。私は先生を信用しますよ」
 老人には夕紀と同い年になる孫娘がいるということだった。それで彼は最初から、若い女性の研修医に好意的だった。しかし彼は例外といっていい。大抵の患者は、夕紀を一目見るなり疑わしそうな表情を作る。男の先生に診てもらいたいのだがね、と露骨にいわれたこともある。
 グラフトの採取は問題なく終わった。吻合部ふんごうぶの固定、それからグラフトの吻合は元宮が行う。見事な手さばきだ。彼は夕紀の指導医の一人でもあった。テクニックを盗もうと彼女は目を凝らしたが、あまりに速くて目が追いつかない。
 止血を行った後、ドレーンを挿入し、胸骨を閉鎖する。筋膜、皮下組織、表皮と縫合していき、手術は完了だ。いつものことだが、腋の下にたっぷりと汗を搔いていた。首の後ろがずきずきするのも毎度のことだ。夕紀が心臓外科手術に本格的に参加するようになって二週間が経つが、まだ慣れない。
 患者をICUに移し、術後管理を始める。じつはここからが長い。血圧、尿、心電図などをモニタリングしながら、呼吸器や薬を調節しなければならない。状態が変化した際には再手術を行うことも、無論ある。
 心電図モニタを睨んでいるうちに、意識が遠のくのがわかった。
 やばい、しっかりしなきゃ──。
 意識を明敏に保とうとするが、断続的に脳の芯が痺れたようになる。
 突然、がくんと膝の力が抜け、はっとして夕紀は顔を上げた。うとうとしてしまったようだ。目の前で元宮が笑っていた。
「姫、限界らしいな」
 薄い唇の間から白い歯が覗く。この笑顔が素敵だと騒いでいる看護師は多い。元宮は三十代後半だが、まだ独身だ。テニスが趣味というだけあって、年中真っ黒に日焼けしている。
 夕紀は首を振った。「大丈夫です」
「昨日も緊急オペで、ろくに寝てないだろ。少し休んでこいよ」
「平気です」
「俺が平気じゃないんだよ」元宮の顔から笑みが消え、目つきが険しくなった。「使い物にならない医者は医者じゃない。当てにできない人間がいると思うと、俺が落ち着かないんだ」
「だから、もう大丈夫です。当てにしてもらって結構です」
「当てにできるかどうかは俺が決める。だから休めといっている。休んで、使い物になって戻ってこい。そのほうがありがたい」
 夕紀は唇を嚙んだ。それを見て、元宮は笑顔に戻った。小さく頷く。
 残念ながら彼のいっていることのほうが正しかった。術後管理の最中にうたた寝をしてしまった以上は何もいい返せない。
「じゃあ、一時間だけ」そういって立ち上がった。
 ICUを出たところで、看護師の真瀬ませのぞみを見つけた。小柄で丸顔の彼女は、ふつうにしていても愛想よく見えるが、実際廊下で顔を合わせた時などには、必ずといっていいほどにこやかに笑いかけてくる。今もそうだった。
 夕紀は立ち止まり、当直室で仮眠するから何かあったら起こしてくれと彼女に頼んだ。
「先生、大変ですね。このところ、オペ続きじゃないですか。前は研修医が三人いたけど、今は氷室先生だけだし」
 真瀬望は二十一歳だ。自分も下っ端なので、夕紀に親近感を覚えているのかもしれない。何かと気を遣ってくれるし、伝票整理などの事務処理も殆どやってくれる。
「これぐらいでへばっちゃいけないんだけどね」夕紀は苦笑した。
 当直室で横になったが、すぐに襲ってくるはずの睡魔が、なかなか降りてこない。少しでも眠らなければと自分にプレッシャーをかけているせいに違いなかったが、それを取り除く術がなかった。
 帝都大学医学部を卒業したのは去年のことだ。それから同大学の研修プログラムを受けている。すでにこれまで、内科、外科、救急といった部署で研修を受けた。そして現在は心臓血管外科にいる。
 夕紀の最終目標である部署だ。
 ようやくここまで来た、という感慨などはまるでない。むしろ、まだこんなところにいる、という思いが強かった。研修を無事に終えたからといって、心臓血管外科医になれるわけではないのだ。卒業後、最低七年の修練期間が必要だし、学会へも積極的に参加していかねばならない。せいぜい助手程度の働きをしているだけなのに体力の限界を感じているようでは、到底夢など叶わない。
「あたし、医者になる。医者になって、お父さんみたいな人を助ける」
 ある秋の夜、中学三年だった夕紀は、母親の百合恵ゆりえに向かって宣言した。不意打ちをくらったような顔をしていた百合恵の顔を、夕紀は今も鮮明に覚えている。
 その少し前に、彼女の父である健介けんすけが他界していた。彼は胸に巨大な大動脈りゅうを抱えていた。それを切除する手術がうまくいかなかったのだ。危険を伴う手術であることは事前にわかっていて、健介自身も覚悟していたという話ではあった。
 夕紀が心臓血管外科に移ってきて、すでに何人かの大動脈瘤患者を診た。父と同じ病気だと思うと、切なさに胸が痛む。何とか完治させてやりたいと思うのはほかの病気でも同じだが、彼等が手術を受ける時、夕紀が味わう緊張感は特別に大きい。
 幸い、これまでのところ、すべての手術が成功に終わっている。家族たちの安堵する顔、そして何より患者本人の元気そうな様子を見ると、夕紀も心の底からほっとする。
 しかし同時に彼女の胸の内では、全く別の思いが首をもたげてくる。
 お父さんみたいな人を助ける──その言葉に噓はない。だがもう一つ別の、ある意味もっと大きい動機が彼女にはあった。ただしそれは他人には決して気取られてはならないものだった。指導医は無論のこと、母親にさえも隠し続けていることだ。

 目を覚ました時、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。当直室だと思い出した後も、毛布の中で少しぼんやりしていた。だが手探りで引き寄せた目覚まし時計の針を見て、目を見開いた。六時半になっていた。仮眠をとるつもりが、もう朝なのだ。
 あわてて飛び起き、簡単に顔を洗ってICUに向かった。呼び出しがなかったのだから、何も異変はなかったはずだが、元宮の言葉が気になっていた。睡眠不足で疲れきっている研修医など当てにならないと、別の医師に応援を頼んだ可能性もある。もしそうだとしたら大恥だ。
 だがICUに元宮の姿はなかった。居合わせた看護師に尋ねると、彼は四時頃に帰宅したという。特に変わったことはなかったようだ。
「もし異状があれば、当直室にいる姫君を叩き起こせといっておられましたよ」看護師はくすくす笑いながらいった。
 夕紀は照れ笑いを浮かべながらも安堵した。とりあえず元宮は、夕紀を当てにしてくれたようだ。
 昨日手術をした患者の容態は安定していた。売店で菓子パンと缶コーヒーを買ってきて、採血のデータなどをチェックしつつ、朝食を済ませた。
 その後、病棟に移動し、回診を始めた。夕紀が担当している患者は現在八人だ。全員が六十歳を超えている。人が心臓の異変を訴えるのは、大抵そのあたりからなのだ。
 中塚なかつか芳恵よしえは七十九歳になる。三日前に入院してきた。腹部に大動脈瘤を抱えている。こぶの大きさは鶏卵大。判断の分かれるところではあるが、腹部大動脈瘤の手術は成功率が高い。ふつうならすぐに手術だろう。
 夕紀の顔を見ると、中塚芳恵は不安そうに瞬きした。
「手術の日、決まりました?」
 彼女はいつも、真っ先にこれを訊く。余程気になっているのだろう。
「今、担当の先生と相談しているところです。中塚さんの体調次第ですね」
 検温してみる。少し熱が高い。そのことを告げると、中塚芳恵は顔を曇らせた。
「やっぱり肝臓のほうからきているんでしょうか」
「その可能性は高いですね。後でもう一度血液検査を行います。今日、御家族は?」
「娘夫婦が来てくれるはずです」
「じゃあ、お見えになったら看護師に声をかけてください。山内先生が今後のことをいろいろとお話ししたいといっておりましたので」
 中塚芳恵は黙って頷く。一体何の話だろうと怯えているのだ。夕紀は改めて笑顔を作り、ではまた後で、といってベッドから離れた。
 正確にいうと彼女が病んでいるのは肝臓ではなく胆管だ。そこが炎症を起こしている。その検査の過程で大動脈瘤が見つかったのだ。しかも単なる胆管炎ではない。おそらく癌細胞に冒されている。したがって、そちらの処置も急ぐ必要がある。
 癌と大動脈瘤、どちらの手術を先に行うか、それが最大の難問だった。外科の担当医と毎日のように相談しているが、まだ結論は出ない。
 中塚芳恵の娘夫婦にはすでに事情を話してある。彼女らは両方同時に手術できないかと訊いてきた。一度に済ませたいという気持ちはわかるが、医師としては論外だと断言するしかない。高齢の中塚芳恵には、どちらか一方の手術でも大変な負担なのだ。それにそもそも技術的に不可能だった。
 いずれの手術を優先するにせよ、次にもう一方の大手術を行えるまでに彼女の体力が回復するには、相当の時間を要する。その間に残った病巣がどうなるかが問題だ。癌は進行するし、大動脈瘤は膨らみ続ける。どちらにもタイムリミットがあるのだ。
 デスクに戻って中塚芳恵の検査オーダーなどをまとめていると、彼女の主治医である山内はじめが現れた。彼もまた夕紀の指導医だ。山内は太っていて、いつも顔の血色がいいので若く見られるが、じつは四十歳を過ぎている。
「氷室先生、目やにがついてますよ」
 山内にいわれ、はっとして手を目にやった。それから、そんなはずがないことに気づいた。起きてすぐ、顔を洗ったのだ。
「昨日も当直室だったそうだな。化粧ぐらいは落とさないと肌が荒れちゃうよ」
 夕紀は彼を睨みつけるが、腹を立てているわけではない。山内は研修医の面倒見がいいことで知られている。また、夕紀が化粧をしないことも彼は知っているはずだった。
 中塚芳恵のことを報告すると、彼も浮かない顔つきになった。
「何しろ高齢だからな。癌がどうなるかだな」呟いた後、何かを思い出したように夕紀を見た。「そうだ。教授が呼んでる。部屋に来いってさ」
西園にしぞの先生が……」
「ちょっとだけ告げ口したから、何かいわれるかもしれないな。まあ、悪く思うなよ」山内は顔の前で掌を立てた。
 夕紀は彼に気づかれぬように深呼吸し、席を立った。廊下に出て、同じ階にある教授室に向かう。無意識のうちに拳を握りしめていた。掌に汗が滲んでいる。
 ドアの前でもう一度深呼吸した後、ノックした。
 はい、と西園の声が聞こえた。十数年前から変わらない、少なくとも夕紀にはそう聞こえるバリトンだ。
「研修医の氷室です」
 答えたが返事がない。いぶかっていると、突然ドアが開いた。少し白いものが混じった髪を後ろになでつけた、西園陽平ようへいの笑顔があった。
「忙しいところをすまなかった。入ってくれ」
 失礼します、といって夕紀は足を踏み入れた。この部屋に入るのは初めてだった。
 机の上ではパソコンのモニタが作動していた。三次元の画像が表示されている。さらに横のボードには、胸部X線写真が四枚、並べて貼り付けられていた。
「二日続けてのオペだったそうだね」椅子に座りながら西園が訊いてきた。
 はい、と夕紀は立ったまま答えた。
「一昨日の緊急オペは山内先生の執刀だったそうだけど、何か印象に残ったことは? 君は前立ちだったそうじゃないか」
 執刀医の正面という意味だ。
「正直いって無我夢中でした。止血に手間取りました」
「うん。突発的な出血に、一瞬顔をそむけたそうだね」
 夕紀は黙り込んだ。記憶になかった。だがそんなことは絶対にないとはいいきれない。
「最初はよくあることだ。だけど忘れるな。出血は最後の警告信号だ。どこから出血したかを見逃したら、その患者は助からない。出血部からは絶対に目をそらさないように。わかったか」
「わかりました。申し訳ありません」謝りながら、山内のいっていた告げ口とはこのことかと合点した。
 西園が椅子の背もたれに体重を預けた。軋み音が鳴った。
「とまあ、説教はここまでだ。どうだい、心臓血管外科には慣れたかい」
「皆さんには、大変よくしていただいています。未熟な点が多くて、迷惑のかけっぱなしですけど」
 西園が吹き出した。
「そんなに硬くなることはないだろう。とにかく座りなさい。こっちが落ち着かない」
 もう一つ椅子があったので、お借りします、といって引き寄せ、夕紀は腰を下ろした。両手は膝の上だ。
 西園はX線写真を振り返った。
「一昨日から入院している例の患者だ。どう思う?」
「VIPの患者さんですか」夕紀はいった。「真性のようですね。しかもかなり大きいみたいですけど」
「直径で七センチある」西園が受ける。「三か月前に初めて診た時には五センチだった」
「自覚症状はあるんですか」
「うまく声を出せないことがあるらしい。嗄声させいだな」
「癒着は?」
「何?」
「動脈の癒着はあるんでしょうか」
 西園は夕紀の顔をじっと見つめた後、ゆっくりとかぶりを振った。
「わからない。あるかもしれない。血管の状態は画像でわかるが、どこかとくっついているのかどうかは開胸しなければわからない。これが患者のデータだ」カルテを差し出した。
 拝見します、といって受け取った。いくつかの数字に目を通す。
「かなりの高血圧症ですね」
「動脈硬化がひどい。不摂生が祟ったんだろうな。六十五歳だが、酒も煙草もやめる気はさらさらないそうだ。大食らいで、運動といえばカートで回る接待ゴルフ。血管がつわけない。合併症があまり出てないのは奇跡だ」
「手術はいつ?」
「検査の結果次第だが、早ければ来週にでも行う。そこで提案だが」西園は上体を起こした。「君に第二助手をやってもらいたい」
「あたしに、ですか」
「嫌か」
「いえ、やらせていただきます。がんばります」夕紀は顎を引いた。
 西園は彼女をじっと見つめて頷いた後、ところで、と声の調子を変えた。
「おかあさんには時々連絡しているのかい」
 虚をつかれた思いだった。彼からこんなにあっさりと百合恵のことを口に出されるとは思っていなかったからだ。咄嗟に言葉が出なかった。
「連絡、してないのか」重ねて訊いてきた。
「いえ、たまに電話は……」
「そうかな」西園は唇の端を曲げ、首を傾げてみせた。「私が聞いている話とは、ずいぶん違うな」
 夕紀は彼の顔を見返した。今の言葉は、彼がやはり頻繁に百合恵と会っていることを仄めかしている。
「母があたしのことで、何か先生にいいつけたんですか」夕紀は尋ねてみた。
 西園は苦笑した。
「そんなことはない。でも話していればわかる。おかあさんのほうが私に訊いてくるからね、君のことをいろいろと。君からこまめに連絡していれば、そんなことはないはずだろ」
 夕紀は俯いた。百合恵と西園がどこかのレストランで、向き合って食事をしている光景が浮かんだ。二人の容姿はなぜか十年以上前のものだ。
「今日、これからの予定は?」西園が訊いてきた。
 なぜそんなことを訊くのだろうと思いながら、夕紀は頭の中を整理した。
「退院する患者さんがいるので、サマリーを書こうと思っています。あと、事務処理がいくつか」
「オペは入ってないんだな」
「今のところは」
「うん。今日は山内君がずっといるし、後で元宮君も来てくれるはずだな」西園は考えを巡らせる顔で天井を見上げた後、よし、と頷いた。「今日は五時で上がりなさい。その後、準備をして、七時に赤坂だ」
「赤坂?」
 西園は机の引き出しを開け、一枚の名刺をそこから取り出した。夕紀のほうに差し出す。
「この店に来るように。おかあさんには私から連絡しておく」
 名刺にはレストランの名称と地図が印刷されていた。
「あの、せっかくですけど、母に会いたい時には勝手に会いますし、わざわざこんなことをしていただかなくても……」
「会いたいからといって会えるわけじゃないだろ」西園はいった。「研修医には土曜も日曜もない。ここから徒歩五分の寮にさえも帰る時間がない。帰ったところで、ファーストコールで呼び出される。そんなことはよくわかっている。こうでもしないかぎり、君は研修期間を終えるまで、おかあさんに声も聞かせられないだろう」
「わかりました。じゃあ、今夜にでも母に電話します」
「氷室君」西園は腕組みをし、夕紀の顔を見据えてきた。「これは指示だよ。教授からの指示だ。研修医への指導といってもいい」
 夕紀は目を伏せた。名刺を両手の間に挟んだ。
「山内君や元宮君たちには私のほうから話しておく」
「でも、あたしだけが特別扱いされるのはやっぱり……」
「強制的に休ませたり、家族に会わせたりということは、今までの研修医にもやってきた。君だけを特別扱いしているわけじゃない。誤解するな」
 ぴしゃりといわれ、返す言葉がなくなった。わかりました、と小さく答えた。
 部屋を出た後、大きなため息をついた。短い時間だったが、やけに疲れた。
 病棟に戻ってオペ伝票の処理をしていると、後ろから肩を叩かれた。元宮だった。
「さっき教授から聞いた。今日は五時に上がっていいよ。たぶんICUのほうも問題ない」
「すみません」
「なんで君が謝んの? 西園先生は研修医の精神面でのケアにうるさい人だからね、俺も研修医の時には配慮してもらった」
「元宮先生は」少し迷ったが、以前からの疑問を口にすることにした。「どうして帝都大だったんですか」
「俺? 難しい質問だな。まあ正直にいうと、あまり深く考えてなかった。自分の実力とか、世間の評価とか、いろいろと天秤にかけた結果だな。君は?」
「あたしは……あたしも同じようなものです」
「君は心臓血管外科が志望なんだろ」
「そうです」
「だったら、この大学を選んだのは正解だ。あの人の下で学べるからね」
「西園教授?」
「そう」元宮は頷いた。「あの人の技術を盗めるだけでも幸せだ。技術だけじゃない。医師として優れた人間性を備えた人だと思う」
「尊敬しておられるんですね」
「尊敬か。まあ、そういうことかな。あの人が心臓外科医になった理由を知っているかい」
「いいえ」
「あの人自身が、生まれつき心臓に疾患を抱えている。子供の頃、何度となく手術を受けたそうだ。今自分が生きていられるのは医学のおかげだと信じておられる」
「……そうだったんですか」初めて聞く話だった。
「本当はこんな激務に耐えられる体質ではないはずだ。だけど医学に恩返しがしたいという一念で、節制し、身体を鍛えて、何十年も心臓外科の第一線で活躍してこられた。すごいことだと思わないか」
 頷きながらも夕紀は複雑だった。西園が優れた医師だということは彼女もわかっている。しかしそれだけに釈然としない思いがあるのも事実だった。
 それほどの名医がなぜ──。
 なぜ自分の父親だけは救えなかったのだろう、と思ってしまうのだった。

〈このつづきは製品版でお楽しみください〉

▼『使命と魂のリミット』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/200902000439/

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