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連載

全部読んだか? 東野圭吾 vol.8

どうしても殺したい男がいる。なのになぜ、殺せない? ページをめくる手がとまらない、殺意と友情の物語。東野圭吾試し読み#4『殺人の門』

全部読んだか? 東野圭吾

全部読んだか? 東野圭吾――第4回『殺人の門』


東野圭吾『殺人の門』(角川文庫)

東野圭吾『殺人の門』(角川文庫)


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 ◇ ◇ ◇

   1

 人の死を初めて意識したのは小学校五年の時だ。正月が終わり、三学期が始まって間もなくの頃だったと思う。私にその体験を与えてくれたのは祖母だ。その時は彼女の正確な年齢を把握していなかったが、後に両親らから聞いたところでは、七十歳になったばかりだったらしい。
 私が生まれ育った家は、当時としても古い日本家屋だった。玄関を入ると正面に長い廊下があり、その廊下を挟むように和室が並んでいた。一番奥は台所だった。当時はまだ土間であったから、食事の支度をするのにも履き物が必要だった。流し台の脇に勝手口があり、近所の酒屋や米屋が、よく御用聞きに来たものだ。
 台所の手前を右に曲がると、庭に建てられた離れへ続く廊下になっていた。その離れが祖母の部屋だった。わりと広かったように記憶しているが、それは私が子供だったからだろう。小さな簞笥が置いてあるだけで、あとは布団を敷けばさほど余裕がなかったから、せいぜい四畳半程度だったと思われる。元はもっと小さい茶室だったところを改築して、祖母の介護用の部屋にしたらしい。
 私の記憶の中では、祖母はいつも寝ていた。目を覚ましていることもあったが、布団から出ているのを見た覚えがない。食事の時、上半身を辛そうに起こしているのを何度か見ただけだ。足が悪かった、という意味のことを父が話していたような気もするが、さだかではない。お婆さんがいつも寝ているという事実を、特別なことだと意識したことがなかったから、詳しい話を訊こうとも思わなかった。私の物心がついた頃には、すでに彼女はそういう状態だった。もっと後になって友達の家に遊びに行った時、そこのお婆さんが元気で動き回っているのを目にして、そちらのほうを奇異に感じた覚えがある。
 食事をはじめ祖母の身の回りについては、トミさんが世話をしていた。トミさんというのは近所に住んでいた女性だ。彼女がいつから私の家に出入りしていたのかも、私は全く覚えていない。祖母が寝たきりになるのとほぼ同時に、両親が彼女の介護を主目的にトミさんを家政婦として雇ったのだろう。
 父の健介けんすけは歯医者で、家の隣に小さな診療所を開いていた。二代目ではなく、父自身が開業したのだ。元々うちの家は材木問屋を営んでいたのだが、一人息子の父が家業を継ぐことを頑なに拒んだという話だった。
「ものを売る商売は景気に左右されるからな」
 祖母が死ぬ前の夏だったと思うが、父がなぜ歯医者の道を選んだかについて話してくれた。夕食を終え、父は新香をつまみにビールを飲んでいた。どういう話の流れで、そういう話題になったのかは覚えていないが、たぶん私の将来の夢についてでも話し合っていたのだろう。
「その点、医者には不景気がない。どんなに景気が悪くても、病気にはかかるからな。いや、不景気のほうが人間は無理をするから、病気にかかりやすい。金がなくても病気じゃ働けんから、ほかを切り詰めてでも、仕方なく医者のところへ行くだろ」
 どうして歯医者なのかと私は訊いた。父は、よく訊いた、とでもいうように自分の太股をぴしゃりと叩いた。父はすててこ姿で胡座をかいていた。
「じゃあ、どういう医者がいいと思うんだ」父は逆に問いかけてきた。
「内科とか外科とか、いろいろあるじゃないか」
 私がいうと、父はにやりと笑った。釣りを趣味にしていた父はいつも日焼けしていて、真っ黒だった。そのせいか、年のわりに深い皺が多かった。笑うと目がその皺に埋もれた。
「どうして、そういう医者のほうがいいんだ?」
「だって、風邪とかが流行したら、患者がいっぱい来て儲かる」
 私の言葉に、父は今度は口を開けて笑った。芝居じみた笑い方で、ははは、と声を出した。ビールを飲み、団扇で顔を扇いだ。
「風邪が流行ったら、たしかに患者は増える。だけどな、こっちだって、その風邪を伝染うつされるかもしれないんだぞ」
 あっ、と私は声を漏らしていた。
 父は続けていった。
「ただの風邪ならまだいい。だが風邪の中には、たちの悪い病気がいっぱいあるんだ。そんなものを伝染されでもしてみろ、診療所を休まなきゃならなくなる。そういうことになったら大損だろうが。医者だからといって、病気にかからないわけじゃないからな。その点、歯の病気なんてものは、まず人には伝染らない。虫歯が伝染ったなんて話、聞いたことがないだろう? そういう意味でいうと、眼科や皮膚科はあまりよくない。目や皮膚の病気は伝染ることがあるからな」
「でも、風邪をひいてる人間が歯医者に来るかもしれない」
「風邪をひいてるような人間は、少々歯が痛くても我慢して家で寝てるんだよ。歯医者に来るのは風邪が治ってからだ。ついでにいうと、風邪だとか腹痛だとかいうのは、いろいろと薬があって、医者に行かなくても治ることがあるだろう? ところが歯だけは、自然に治るってことが絶対にない。治したいと思ったら、いつかは歯医者に行かなきゃいけないんだ」
「だけど、病気とか怪我で手術をすると、すごくお金がかかるっていうじゃないか。それは、医者がたくさんお金を貰えるっていうことじゃないのかな」
「手術をするのは外科だ」父はコップを食卓に置き、私のほうを向いて座り直した。「いいか、父さんが歯医者を選んだ理由はいくつかあって、それは今いったようなことだ。だけどな、一番大きな理由は別にあるんだ」
 いつになく真剣な顔つきをしていたので、私も少し姿勢を正して聞いた。
「それはな、人の死に関わらなくていい、ということだ。虫歯で死ぬなんてことは、まず考えなくていいからな。重病人の腹を切って内臓の悪いところを取るなんていう大変なことをやって、患者が助かればいいが、もし死んでみろ、どれだけ嫌な思いをしなきゃならないか。下手をすれば、患者の家族から恨まれたりもするんだぞ」
「でも一所懸命にやって助からないのは仕方ないじゃないか」
 だが父はゆっくりと首を振った。
「人が死ぬっていうのは、そんなふうに理屈じゃ割り切れないものなんだ。とにかく、人の死には関わらないほうがいいんだ。自分のせいじゃないとわかっていても、ずっと嫌な思いをしてなきゃならない」
 だから歯医者がいいんだ、と父は締めくくった。私は頷きながらも、今一つ感覚的には納得していなかった。人が死ぬということがどういうことか、わかっていなかったからだろう。
 母の峰子みねこは、活動的で勝ち気な女性だった。少なくとも私の目にはそう見えた。数字に強く、毎晩食卓の上に何やら書類を並べては、算盤をはじいていた。たぶん診療所の支出だとか収入を計算していたのだろう。時折横から父が口を出していたが、経理のことは母が任されているようだった。月に一度、どこからか税理士がやってきて、母といろいろ相談をしていた。いつも灰色の背広を着ている、瘦せた顔の税理士だった。
 母も診療所を手伝っていたから、私が学校から帰っても、家にいるのはトミさんと祖母だけだった。学校給食はまずくて殆ど食べなかったので、帰宅した時にはお腹がぺこぺこだった。そんな私のために、食卓の上には握り飯が用意されていた。母が作ってくれたものではなくトミさんの手によるものだということは、祖母が死んでから知った。トミさんが来なくなって以来、握り飯が食卓に載っていることがなくなったからだ。
 それにもかかわらず、後年の私にとって母親の味とは、あの握り飯だった。あの味を思い出すと、懐かしくも切ない気分になった。
 親子揃ってどこかへ旅行したことは殆どなかった。日曜日になると父は釣りに出かけるし、母も友人と遊びに行くことが多かった。トミさんの作ってくれた昼食を、白黒テレビを見ながら食べるというのが、私の日曜日の過ごし方だった。
 トミさんはおばさんに見えたが、こちらが幼すぎたからそう感じたと思われる。実際には三十前だったのではないか。母が誰かに対して彼女のことを「出戻り」と陰口を叩いていたのを覚えている。せっかくいい家に嫁に行ったのにたったの二年で戻ってきた、それで家でぶらぶらしていても仕方ないのでうちで働いている――そういう内容だった。
 私が一人でいると、「カズ君、寂しそうだね」と、よく話しかけてきた。それから私が持っているゲームの相手をしたり、綾取りの変わったやり方を教えてくれたりもした。「お父さんやお母さんには内緒よ」といって、ホットケーキを焼いてくれたこともある。ただ小麦粉を水で溶いたものを焼いていただけのものだったが、私にとっては御馳走だった。溶けたマーガリンの香りさえ、いつもとは違っていた。
 当時のトミさんがどういう顔をしていたのか、正確に思い出すことができない。長い髪を無造作に後ろで縛っていたということと、顔の輪郭が丸かったことだけを、おぼろげに思い浮かべられるだけだ。
 ただ、肌の色が白かったことだけは鮮明に覚えている。いや、肌の色というのは厳密ではない。正確にいうならば尻の色だ。
 土曜日だったと思う。その日私は珍しく、勝手口から家に入ろうとした。台所で昼食の支度をしているに違いないトミさんを驚かしてやろうと思ったのだ。
 裏木戸には鍵がかかっていた。だが塀の一部が壊れていることを知っていた私は、たやすくそこから中に侵入した。そして家の勝手口の戸を、そっと開けた。
 流し台のところにトミさんの姿はなかった。ガスコンロの前にも彼女はいなかった。私は戸をさらに開けて台所の中を見渡した。一見したところでは、彼女はいないように思われた。
 だがトミさんは、土間を上がってすぐの和室にいた。こちらに背中を向け、しゃがみこんでいるように見えた。私はこっそり近づこうとした。しかし彼女のスカートがまくりあげられ、下半身が丸だしになっているのを目にして、金縛りにあったように身体を硬直させた。
 彼女の下には誰かいた。紺色の靴下を履いたままの足の裏が二つ、こっちを向いていた。足首までズボンが下げられていた。そのズボンの色は灰色だった。
 私の目は和室の隅に置かれた鞄をとらえていた。それは税理士のものに違いなかった。
 仰向けになった税理士に跨り、トミさんの尻が上下していた。その時になって初めて気づいたのだが、二人は激しく喘いでいた。税理士は呻き声のようなものを漏らしていた。
 見てはいけないものだという思いが私を襲った。身体を硬直させたまま、外に出て静かに戸を閉めた。さらに、入った時と同じようにして塀の外に出た。
 私は走りだしていた。たった今見た光景を頭から振り払うためだった。しかしトミさんの尻の白さは、それから何十年も経った今でさえ、はっきりと思い起こすことができる。
 近頃では小学生でも男女の性行為についてはそこそこの知識を持っているだろうが、当時の私にそんなものはまるでなかった。それでも自分の目にしたものが大人たちの秘め事であることは、直感的に理解していた。私はその出来事を両親に話さなかった。両親だけでなく、誰にも話さなかった。
 それ以後私のトミさんに対する態度は、明らかに変わったと思う。自分からは決して口をきかなくなったし、極力近づかないようにした。しかし彼女を嫌っていたのかといわれると、それとも少し違うような気がする。おそらく私は幼いながらも、彼女に大人の女を感じていたのだ。だから彼女の本性が自分とは遠いところにあることを知り、気後れしていたのだと思う。
 トミさんと税理士の関係がどの程度のもので、いつまで続いていたのか、私は全く知らない。あの日以後、二人のそうした関係を暗示させる出来事に遭遇したことがなかったからだ。そのかわりに、私は彼女と別の男との関係を知ってしまうこととなった。別の男とは、いうまでもなく私の父である。
 その日は祝日で診療所は休みだった。父は例によって釣りに出かけていった。だが私は浮き浮きしていた。映画に連れていってもらう約束を母としていたからだ。
 ところが家を出る直前に母に電話がかかってきた。母の友人からだった。電話を終えた母は、申し訳なさそうに私にいった。
「ごめんなさい。お母さん、大事な用ができちゃった。映画はまた今度連れていってあげるから、今日は我慢してちょうだい」
 当然のことだが、私は半泣きになって抗議した。ずるいや、約束したじゃないか、お母さんの噓つき――。
 母はこういう場合、しばらくは困惑した顔で謝っていても、ある一線を過ぎると逆に怒りだすというタイプの人間だった。その時も文句をいい続ける息子に、最後には怖い顔をしていった。
「うるさいわね、映画、映画って。大事な用なんだから仕方がないでしょ。今度連れてってやるっていってるじゃない。それより学校の宿題はどうなの。あるんでしょ。遊ぶことばっかり考えてないで、ちょっとは勉強しなさい」
 私はべそをかきながら階段を上がった。といっても二階に自分の部屋があったわけではない。その頃の私には個室など与えられていなかった。二階にあったのは、客用の布団や和簞笥わだんすなどを置いておく部屋だけだった。嫌なことがあった時、私はよくその部屋で泣いたのだ。
 母は泣き虫の息子などほうっておけばいいと思ったのだろう、様子を見に来ることもなく出かけていった。
 この時トミさんは家にいたはずだが、後から考えると、どうやら母と私のやりとりを聞いてはいなかったようだ。母が私を残して出ていったことも知らなかったと思われる。
 母が外出してから少しして、階下で声がした。父の声だったので、びっくりした。釣りに行った日は、夜まで帰ってこないからだ。
 トミさんの声もした。二人で何か話しているようだが、内容まではわからなかった。
 やがて階段を上がってくる気配がした。私は慌てた。前に布団部屋で泣いているところを父に見つかり、ひどく叱られたことがあったからだ。
 私は咄嗟に押入に隠れ、息をひそめた。
 襖が開き、誰かが入ってきた。二人だということが気配でわかった。
「婆さんは?」父の声が聞こえた。いつもよりも低い声だった。
「さっき御飯を。今は寝てらっしゃると思います」相手はやはりトミさんだった。
 服を脱ぐ気配がした。トミさんが何か声を漏らした。甘えたような響きがあった。
 それからのことはよく覚えていない。聞こえてくる物音や二人の声を、必死で拒絶していたせいかもしれない。押入の襖の向こうで何が行われているか、私は察知していた。前に目撃したトミさんと税理士の姿が頭に浮かんでいた。トミさんの白い尻も鮮明に思い出していた。
 どれぐらいそうしていただろう。たぶん三十分程度だったのではないか。事を終えた二人は部屋を出ていった。それでもしばらく私は押入の中で膝を抱え続けていた。動けないでいた。
 隙を見て一階に下り、こっそりと外に出た。その時父の姿はなかった。私は改めて、玄関から家に入った。その際、わざと大きな音をたてた。奥から出てきたトミさんは意外そうな顔をした。「あら、もうお帰り? お母さんは?」
 映画には行かなかったのだと私はいった。トミさんは驚いた。
「じゃあ今までどこにいたの?」
「公園」
「公園? 一人で?」
「うん」
 私はトミさんの脇を抜け、テレビのある居間へ行った。彼女の顔をまともに見られなかった。
 夜になって父と母が相次いで帰宅した。父は魚を見せて、今日の収穫だといった。どこかの魚屋で買ってきたのだろう。その魚をトミさんが料理した。
 魚好きの私が、その夜は刺身に箸を伸ばさなかった。どうしたのかと皆が訊いたが、私は答えなかった。母は、映画に連れていってもらえなかったので拗ねているのだろうと父に話していた。
 あの広い家で、私は徐々に居場所を失っていった。
 倉持くらもちおさむと親しくなり始めたのは、ちょうどその頃だった。彼とは五年生になってから、同じクラスになった。席が隣同士だったのだが、その時には、まさかこの男が自分の人生を変える存在になるとは想像もしなかった。
 倉持は特に目立つ存在ではなかった。どちらかというと、クラスの中では孤立していたほうだろう。皆が集まってドッジボールなどをしていても、白けた顔で遠くから眺めているだけで、仲間に加わろうとはしなかった。
 私も友達を作るのが苦手なほうだったから、いつも群から少し離れていた。それで孤立している者同士、親しくなったということだろう。もっとも彼にしてみれば、私と同類と思われるのは心外だったかもしれない。彼はいつもこういっていた。
「俺はみんなで楽しくチイチイパッパってのが大嫌いなんだ。どうせいざとなったら自分が一番かわいいはずなんだから、仲のいいふりだけするなんてくだらない。それがあいつらにはわからないんだからな、ガキだよ」
 五年生の子供が同級生のことをガキ呼ばわりするというのも滑稽だが、実際倉持にはかなり大人びたところがあった。あまり皆から注目されることはなかったが、成績もなかなか優秀だった。私は彼からいろいろなことを教わった。学校では教えてもらえないことばかりだった。たとえばうちの学校の近くには頻繁にテキ屋が出没したが、彼等の手口を解説してくれたのも倉持だった。
 一回十円でくじ引きをさせるテキ屋がいた。一等トランシーバー、二等カメラといった具合に景品を見せ、子供たちの気をひくのだ。ところが大勢の子供たちが引けども引けども、誰一人景品は当たらない。すると頃合を見計らって、テキ屋は自分で箱に手を突っ込み、くじを引いてくる。開いてみると当たりくじだ。このようにちゃんと当たりは入っている、インチキじゃない、というわけだ。
「インチキだよ」倉持はこっそりと私の耳元でいった。
「おやじは箱に手を突っ込む前に、当たりくじを指の間に隠してるんだ。箱の中に当たりなんか入ってるものか」
「だったら、みんなに教えてやらないと」
 私がいうと、いいんだよ、と彼は顔をしかめた。
「馬鹿はほっとけ。余ってる金があるんだから、勝手に使わせときゃいいんだ」
 たぶん倉持は、テキ屋そのものは嫌いではなかったのだと思う。その証拠にテキ屋が現れると、彼は連中が去るまで眺めていた。彼自身は決して金を出したりしない。今から思うと、あれは彼にとっての授業だったのかもしれない。人を騙して金をとるテクニックの授業だ。
 倉持の家は豆腐屋を営んでいた。彼は長男だったから、順当にいけば店を継ぐことになるはずだった。しかし絶対に自分はやらないと彼はいった。
「夏はいいんだよ。水を触ってりゃ気持ちいいからな。問題は冬だ。何もしなくても霜焼けになりそうな時に、水に手を突っ込むなんてことやりたくないよ」
 それに、と彼は付け加えた。
「一丁何十円なんて商売、まどろっこしくてやってられねえよ。商売するなら、一発でどかんと儲かるのがいい」
「でかいものを売るのかい? 家とか飛行機とか」
「それでもいいけど、一つ一つは小さくても、一気にたくさん売るって方法もあるよな。それから、形のないものを売るって手もある」
「形のないもの? 何だよ、それ。そんなもの売れるわけないじゃないか」
 私が笑うと、倉持は馬鹿にしたような顔をした。
「おまえは何も知らないんだな。この世の中には、形のないもので商売してる人間なんていっぱいいるんだぜ」
 彼がこういった考え方をどこから仕入れてきたのかを私が知るのは、もう少し後のことだ。この時には、変なことをいう奴だなと思っただけだった。
 私を初めてゲーム場に連れていってくれたのも倉持だった。その頃はゲームセンターというものは少なく、デパートの屋上にある遊技場の一部にゲーム機が置かれていた。もちろん今のテレビゲームのようなものはなかった。その頃よく置いてあったのはピンボールマシンと射撃ゲームだ。
 倉持が自分の金を使うことは殆どなかった。まず彼はゲーム機のところへ私を連れていき、それがどれだけ面白いかを説明するのだ。その時の彼の舌は、じつに滑らかに動いた。また彼の話には、こちらの心を引きつける力があった。
 私がその気になった頃を見計らって彼はいう。「どうだ、一回やってみないか」
 うん、と私は即答する。そして財布を取り出す。
 ところが金を機械に入れる時になって彼はいうのだ。「まず最初に俺が見本を見せてやろうか」
 こちらとしても手本は欲しかった。それで、いいよ、と答えてしまう。こうして一回目のプレイは彼がすることになるのだった。
 高得点を出せばもう一回遊べるという機械の場合には、必ずといっていいほど彼が最初にやった。その時でも硬貨を機械に入れるのは私だった。実際彼は高得点を出すことが多いから、追加の金を投入することなく私も遊べるのだ。だが、仮にしくじって高得点を出せなくても、彼はその時の分を払うとはいわなかった。ただ不機嫌になり、機械に当たり散らすだけだ。私も金を返せとはいえなくなってしまう。
 金魚すくいやスマートボールの店にも、倉持はよく私を連れていった。縁日以外でそういう店を見たことがなかったから、初めて行った時には少し驚いた。
 そこでも倉持は一切自分の金を使わなかった。ただし、さすがに私の金で遊ぼうともしなかった。私がしているのを横で見て、時折あれこれと指示してくるだけだ。倉持はしないのかい、と訊いたことが何度かある。彼の答えはいつも決まっていた。
「俺はいいんだ。さんざんやったから、もう飽きてる。それに、こうして人がやってるのを見るのが好きなんだ」
 倉持と遊んでいると、小遣いがどんどん減っていった。しかし彼との付き合いをやめようとは思わなかった。彼と一緒にいれば、次々に新鮮な出会いがあるからだ。その新鮮さは、家での居場所を失いかけていた私にとって慰めになった。
 倉持と遊ぶ予定がない時などは、私はよく離れへ行った。祖母は私の手を握ったり、頭を撫でたりしながら、私の学校での話を楽しそうに聞いていた。
 だがじつは私は、祖母のことが嫌いだった。
 まず嫌だったのは、祖母が身体から発する臭いだ。えた臭いに、ほこりかびの臭い、さらに膏薬こうやくやナフタリンの臭いが混ざっていた。祖母は長い間風呂に入っていなかった。彼女の身体を拭くのもトミさんの仕事だったが、トミさんがそれをしているのを私は殆ど見たことがない。
 祖母の皮膚の感触も、私には憂鬱なものだった。皺だらけのがさついた手で触られると、背筋がぞくぞくとした。彼女の顔を見るのも、正直なところ、あまり楽しいことではなかった。目も頰も窪み、髪はすっかり抜け落ち、広い額がむき出しになっていた。骸骨が薄く張りのない皮膚で覆われているだけのように見えた。
 それほど嫌っていたのに、なぜ祖母の部屋に行ったかというと、下心があったからだ。ひとしきり学校での話などをしてやると、祖母は決まってこういうのだ。
「ああ、そうだ。お小遣いをやらなきゃねえ」
 布団の中でごそごそした後、祖母は布製の財布を出してきた。そこから小銭を取り出すと、「お父さんたちには内緒だよ」といって私にくれるのだった。
 私は素直に受け取り、礼をいった。寝たきりなのに金だけは持っているというのが、子供心にも不思議だった。だがもちろん、このことを両親に話したことはない。我が家は他の家に比べて裕福だったはずだが、どういうわけか父も母も金には細かく、私にも使い道がはっきりしていないかぎりは、一銭たりとも小遣いらしいものをくれなかった。祖母からお金を貰ったなどといったら、たちまち取り上げられるに決まっていた。
 母が祖母を嫌っていることは確実だった。彼女がよく電話で、祖母の悪口をいっているのを聞いたことがある。
「まさか、あの歳で寝込まれるとは思ってなかったわよ。鬱陶しいわよ、そりゃあ。でもねえ、おかげで顔を合わせる必要もなくなったし、世話はお手伝いさんにやらせりゃいいし、こっちのほうがよかったかなって気にもなってるの。動けてごらんなさいよ、前みたいにあの調子で、うるさいことをいわれたらたまんないわ。えっ? ああ、そりゃあね、早いところそうなってくれるともっといいんだけど。ふふ」
 ところどころで声を極端に殺したり、時折漏らす含み笑いに、私は彼女の底知れぬ憎悪を感じ取っていた。「早いところそうなってくれると」の意味は、私にもわかった。ずいぶん後になってから、母は嫁いできて以来、姑の嫌がらせにひどく苦しめられ続けたのだという話を、親戚の人間から聞かされた。
 父が自分の母親のことをどう思っていたのか、私にはよくわからなかった。父が祖母について何か話すのを聞いた覚えが殆どないからだ。しかし、老いた母親と勝ち気な妻の板挟みになって、父なりに苦しんでいるのだろうということは察せられた。父が母の目を盗むようにして離れに足を運んでいたことを私は知っている。そんな時の父の背中は、やけに小さくて、丸まって見えた。
 ただ、あの押入の中で聞いたトミさんの喘ぎ声を思い出すと、私は少々混乱する。父は家の中に愛人を囲い、その愛人に老いた母親の面倒を見させていたことになるのだ。その心境がどういうものなのか、今となっては全く謎だ。
 とにかく我が家にいる人間の心は、離れで寝ている老婆を軸に、歪みきっていたように思われる。その歪みは限界に達していたかもしれない。
 その老婆が死んだのは冬の早朝だ。見つけたのは、ほかならぬ私だった。

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