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連載

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」 vol.4

『日本のヤバい女の子』著者による、思考実験エッセイ はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」#4

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」

>>第3回 男の子がコスメと生きるのはダメじゃないんじゃない

第4回 女に性欲があるのはダメじゃないんじゃない



 突然だがセフレを探している。パートナーがおらず、突然怒鳴ったりせず、割り勘ができる程度には経済的に自立していて、もろもろのリスクヘッジに積極的で、お互いの生活に干渉しない、良好かつ穏便な関係を築ける人がいい。

 ……と、こんな風に女がセックスの相手を探していると、(笑)という空気になることがしばしばある。
 もちろん募集の告知に向かないTPOがあるのは理解しているし、相手が誰だろうと、何人だろうと、性交の管理を怠る危険性があることだって知っている。しかし同時に、時と場所を選び、マナーを守り、細心の注意を払ったとしてもこの(笑)を浴びる場合があることも、やっぱり私は知っている。

『ダメじゃないんじゃないんじゃない』は「別にダメじゃないのに、なんかダメっぽいことになっている」ものについて考える連載だ。だから「ダメっぽいことになっている気がする……」という体感からスタートする。体感的な訴えは、過ぎてしまえば「気のせいだったんじゃない?」「あなただけじゃない?」「誰もダメだなんて言ってなくない?」と簡単にとぼけられ、分からないふりをされる。点と点をつながないようにうまく回避し、「いつでも安定して検証できるわけじゃないから」と半ば意図的にタイミングを逃されてしまう。そのタイミングを半ば意図的にキャッチするために、体感を、取るに足らない気の迷いではなく、耳を傾けるに足る仮説として取り上げている。

 というわけでさっそく体感をベースとした話で恐縮だが、セックスの話題になると、聞き手の反応は話し手の所属するカテゴリーに大きく左右される。それも「女」か「男」かという、血液型占いよりも雑なカテゴリーに。そして女性がセックスの相手を探していると、しばしば「欲求不満w」「モテないの?w」「恥じらいがないw」「男あさりw」「ヤリマンw」というタイプの(笑)が繰り出されるのである。ちなみに男性は「やりたい」と発言してもあまり笑いには発展しないが、なぜか経験の有無や技術力、リソースのサイズをやたらとイジられる。

(笑)はどこから来るのだろう。

 それを探るために、ひとまず「フレンド」よりも先に「セックス」の方からやっつけようと思う。なぜならフレンドという関係を構築するためには複数の人間が必要だが、セックスなら一人から始められるからだ。
 そう、セックスは一人でも始められる。平たく言うとマスターベーション、オナニーである。いつでも好きなときに、自分のペースで進められ、よきタイミングで終えられる。補助器具も無数に流通し、ユニバーサル・デザインのセックス・トイも随分増えた。
 環境は申し分なく整っているのに、主語が全体の約4分の1くらいを占めるであろう「女」になった途端、プレイヤー本人たちはいっせいに口をつぐむ(さすがに「女」「男」の2分割で話を進めるのが心苦しいので、超雑に「自由回答」「無回答」を足して単純計算で4分の1にしてみた。それでようやく血液型占いとトントンである)。

 本人たちが口を噤んでいるなら、そもそも口を噤んでいたこと自体、彼女たちが存在していること自体、誰も気づかないのではないか、と思われるかもしれない。なぜ人類が「女もマスターベーションする」という事実に気づいたかというと、最近になってプレイヤー本人ではなくその周辺が、今まで以上に活発に話し始めたからだ。
 雑誌『an・an』のSEX特集号で、じ込み付録としてアダルトヴィデオが同梱され話題になったのは2012年。翌2013年には株式会社TENGAによって女性向けのセルフケアグッズブランド「iroha」が立ち上げられ、それ以来マスターベーションを指す「セルフプレジャー(自分を喜ばせる)」という単語も頻出するようになった。
 エポックメイキングだった2010年代前半から「セルフプレジャー」業界はますます発展を進めている。女性向けであることを強調した小~中規模のブランドがどんどん立ち上がり、Instagramアカウントがバンバン更新される。その画像がどれもコケティッシュから他人の視線だけを抜き取り、自分自身の悪ふざけだけを残した絶妙な塩梅なのだ。
 そのイケまくっているセルフプレジャーグッズメーカーのうちのひとつ、シンガポールの「smilemakers」が今年1月、パリの展示会「Interfilière(アンテルフィリエール)」に出展した。「Interfilière」は年2回開催されるランジェリー・インナー向け資材の展示会だが、近ごろセルフプレジャーグッズがランジェリーとごちゃ混ぜに並ぶようになったのは特筆すべき変化だ。smilemakersのウェブサイトにもself、そしてpleasureという言葉が躍っている。要するに、色んな人が「さすがにそろそろ、もうちょい話しやすくなってもいいんじゃないの」と心を砕いてくれているのである。


 しかしそんな動向に反して、「セルフプレジャー」なる言葉はときどきの対象となる。インターネットで「セルフプレジャーって何だよ、結局はオナニーだろ」というちようしようのコメントを見かけるたび、根底に「従来のえげつない『真実』から目をらし、きれいな言葉でキラキラと体裁をつくろい、している」と糊塗に見せかけようとする糊塗を感じ取る。まるで「セルフプレジャー」という言葉遣いでは辿たどり着けない、「ほんとうの、真実のエロの姿」がどこかに存在するかのようだ。
 しかし「えげつない」アウトプットが「きれいな」アウトプットに比べて真理に近いなんて、誰が言い切れるというのだろう。言い切れる人がいたら神かもしれない。すごい。



 正しいエロのあり方は神ではない人間には分からないので置いておくとして、次はフレンドである。セックスは一人でもできるが、二人以上でもできる。この二人以上というのがまたややこしい。人間が二人以上いると必ず関係性が発生し、思いもよらないが起きる。

 フレンドに限らず、女がセックスの相手を探していると、(笑)の空気にさらされると最初に書いたが、恋人ではなくセックスフレンドという相手を求めると、風当たりはひときわ強くなる。
 避妊が必要な相手の場合は避妊を、そしてどんな相手でも感染症予防を行い、なおかつ他の人間関係に支障がない場合、楽しいセックスの相手を探し求めるのは責められることではないはずだ。それでは何が、悪くないことを悪いことに変えているのだろう。

 ふと思い出したことがある。子供の頃、弟と二人で胡坐あぐらをかいてテレビを見ていたら、私だけが祖母に「女の子がそんなに足を開いて、はしたない」と怒られた。もしかするとこの「はしたない」という感覚が全ての根底に脈々と流れているのかもしれない。
 足を広げて座るなんてはしたない。
 ミニスカートを穿くなんてはしたない。
 胸の開いた服を着るなんてはしたない。
 処女じゃないなんてはしたない。
 セックスしたがるなんてはしたない。
 セックスのための人間関係を構築したがるなんてはしたない。
 私たちは何億回この言葉で注意されてきたか分からない。「はしたない」を辞書で引くと「慎みがなく、みっともない」と書かれている。「慎み」とは控えめにふるまうことだ。「控えめ」の対義語は「積極的」や「図々しい」だ。積極的にセックスしたがることは図々しいのだろうか。

 例えば、どこかに「ほんとうの、真実のセックスの姿」があるとすれば──そしてそれが「必ず男女二人で行い、女が男に一方的に選ばれ、求められ、与えられて初めて実現するもの」だけを想定しているとすれば──なるほど、与えてほしいと要求するのはいっそ図々しいのかもしれない。お歳暮を自ら要求する行為が図々しいように。
 あるいは、気持ちよくなりたいと思ったときに取るべき正しい方法が「男性によってもたらされる機会を待つ」だったとすれば、「ひとり」は「一人」ではなく「独り」であり、選ばれず、求められず、与えられないからやむなく独りでせざるを得ないことになるのだろう。与えられなければセックスにアプローチする方法がないとすれば、欲求不満は単なる「身体からだのステータス」ではなく、与えてもらえないみじめな状態を指すのだろう。自分から気持ちよさを探求しにおもむくことは、男性からの寄贈に満足していないという表明になるのだろう。

 正規の手続きを踏まなければ辿り着けない「ほんとうの、真実のセックスの姿」は規範から外れた人々を(笑)で包む。包まれるのは女性だけではない。男性がなぜか経験や技術力、リソースのサイズをイジられる謎のセオリーもここから発生している気がする。
 しかし宇宙の法則、原理原則、完全に正しい「ほんとうの、真実のセックスの姿」なんて、考えるだけで字面が面白すぎる。宇宙的に正しいセックス。SFである。



「真実のエロ」「真実のセックス」という字面で2時間くらいは笑えそうだが、実は全く笑っている場合ではない。この一見マヌケな(笑)が危険なのは、「欲求不満w」「モテないの?w」「恥じらいがないw」「男漁りw」「ヤリマンw」の後に高確率で「じゃあ、何をしてもいいんでしょw」と続くからだ。

 セックスしたがっている女には何をしてもいい。Twitterにて、客のルール違反に苦言を呈するセックスワーカーの女性に「自分で選んだ仕事だろう」とリプライが投げかけられるのは全く珍しくない現象だが、これは

自らセックスワークに就く女性
↓↑
自らセックスしたがっている女性
↓↑
セックスに関することなら何をしても許される存在

をめちゃくちゃに混同し、さらにセックスワークが成立してきた過程に存在する構造的さくしゆから目を逸らした結果起こる。「真実のエロ」「真実のセックス」を信じるあまり、架空の真理を見出してしまうのだ。この理論でいくと「能動的にセックスに関わらない『普通の』女」と「セックスが大好きだから何をされても受け入れる女」の二種類のみが「ほんとうの、真実の女の姿」ということになる。
 しかし人間をせいぜい二つだか三つだか四つだかに分けただけの「真実の姿」とやらに人間の方をむりやり合わせるとなると、人類全員を二つだか三つだか四つだかのミキサーにかけてならすくらいしか思いつかない。あまりにもグロい。

 構造的搾取といえば、昔交際していたパートナーに「セックスワークを構造的搾取だからといって救済しようとするのは、誇りを持って、好きでその仕事をしている女性に失礼じゃない?」と言われたことがある。
 構造的搾取に大いに影響されながら職業が形成されてきたことと、たった今、この瞬間にも生きて、セックスワークに従事する人を否定したり批判したりジャッジしたりすることは全く別物だ。既に存在してしまって(過失ではなく現在完了)いる職業を良いとか悪いとか断じることは誰にもできない。だって今も生きているのだから。
 何も断罪しなくていいとなると、やっぱり「気のせいだったんじゃない?」「あなただけじゃない?」「誰もやれなんて言ってなくない?」と言われるかもしれない。私だって、全てを「何時・何分・何秒・地球が何回回ったときに違和感があった」とは記録していない。だけど体感としてのみ違和感があるということは、全くなかった証明にはならない。違和感は「そういうこともあるのかもしれない」証明である。「そういうこともあるのかもしれない」証明のけんろうが個人的に信じられないときにできることは、「堅牢度」の「堅牢性」を探すことではなく、「そういうこともあるのかもしれない」と思ってみること、そしてその原因を探してみることだけだ。

 冒頭でセックスフレンドを募集していると言ってはみたものの、実は私はいわゆる一般的なセックスがかなり苦手である。そういえばやはり2010年代前半に「添い寝フレンド」なるものがったのを思い出してノスタルジーに浸ってしまった。添い寝フレンドにセックスは含まれないという定義だったはずなので、やはりセックスをするためにはセックスフレンドを作らなければならない。それでは私はセックスフレンドの解像度を上げ、セックスが苦手でも友好な関係を続けられるセックスフレンドを探してみようと思う。生きている間に一人か二人見つかればありがたい。もしも見つかればそのときだけは、個人的に「ほんとうの、真実のセックスフレンド」と呼んでもいいかもしれない。


つづく 
※次回は3月号に掲載予定です。 

「カドブンノベル」2020年1月号より


「カドブンノベル」2020年1月号


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