menu
menu

連載

藤井太洋「第二開国」 vol.9

リゾート建設が国家を揺るがすポリティカル・フィクション! 藤井太洋「第二開国」#11-4

藤井太洋「第二開国」

※この記事は、2020年1月10日(金)までの期間限定公開です。

>>前話を読む

      *

〈アマンコープ〉の照明を落とした昇が事務所の鍵を閉めてから外に出ると、町の方から、ざわめきに乗ったテープレコーダーの太鼓と笛の音が聞こえてきた。
 盆踊りの曲だったっけ、と思った昇はコブシのよく回る「はあああー」という歌い出しに背筋を伸ばした。

  みなと祭りの踊りの輪から
  ほんに瀬戸内心の輪から……

 十五年ぶりに聞く瀬戸内音頭だった。昇は、幼稚園に通っていた頃から、この歌に合わせて町をパレードしていたことを思い出した。昼間、事務所のテレビでパレードを見た時には音を消していたせいで、瀬戸内音頭のことを思い出せなかったらしい。
 帰ってきた。
 昇は湿った空気を大きく吸い込んだが、まるで祭りのことを思い出さないことにうろたえた。
 蒸し暑い夜の空気も、地面にあふれた焼酎が乾く時の甘い香りも、赤うるめや甲イカこうぐるの唐揚げの匂いも、一つ一つはよく知っているものだし、懐かしい。なのに思い出すのは焼けたコンクリート舗装の道路を歩いて踊るパレードだけだった。
 閉店の確認をするために、倉庫と店のエントランス周りをぐるりと歩いた昇は、町に向かう路上に、土産物屋がテーブルを出して酒盛りを始めているのに気づいた。
「なんだ、酒か」
 先週、役場で商工観光課の三木に言われた通り、みなと祭りを知っていると思い込んでいた昇は子供だったのだ。
 みなと祭りの初日、パレードから戻った昇は一風呂浴びてから父母に連れられてNTTの古仁屋局が駐車場に張るテントに向かうのが決まりだった。テントでもらえる瓶のコーラやサンキストオレンジと、ささの葉っぱに包まれた餅やかりんとうで小腹を満たした後、友達と連れ立って街灯に照らされた春日公園で遊んでいた。中学生になってからは、遊び場が中学校の裏山に変わった。
 二日目の夜は八月踊りだ。やはり父母と一緒に家を出た昇は、川沿いに下って古仁屋高校脇の交差点に用意される地区のテーブルに向かう。豚骨や唐揚げの並ぶテーブルの料理をつまんでひとしきり踊ったら、初日と同じように友達たちと遊びに行っていた。健全そのものだ。
 もしも高校生でみなと祭りに参加していれば、酒の一つも口にしていたはずだし、同級生や友達の線を踏み越えたい相手を探して、祭りにざわめく町を歩いていて、この空気を吸っただけで懐かしさに包まれたかもしれない。
 駐車場のスバル・サンバーの中をスマートフォンのライトで照らして忘れ物がないことを確かめた昇は、しげが夜店を出している〈たちがみ〉に向かうことにして、ちようちんが並ぶ通りを中心部の方へと歩き始めた。
 午後六時をわずかに回ったばかりだというのに交通規制が始まっていて、信号は赤と黄色の点滅に変わっていた。
 昇は、事務所のテレビで見たパレードの道をなぞって歩き始めた。
 テレビでは、浴衣にあみがさ姿の女性連絡協議会が先頭に立って踊っていたが、その集団に続いたのが〈ユリムンビーチ〉の女性スタッフたちだった。画面をちらりと見た徳田が「はげ、スーリヤの踊りはいがな」と言わなければ、法被はつぴを羽織り、ビニールテープで紅白にした竹の棒を盆踊りのリズムで打ち合わせる彼女たちのことを外国人だと気づかなかったかもしれない。出身地はミャンマーやタイなどの東南アジアやインドネシアの諸島部なのだという。古仁屋が二年目のスタッフも交ざっているせいか、二十人は完全にみなと祭りに溶け込んでいた。
 祝たちの狙いが実現すれば、来年はここにあと五千人の難民たちが訪れる。
 役場のディスプレイで自己紹介しているような人たちが大多数だとすると、頭髪を隠す様々な布が翻ることだろう。どうしても想像はできない。
 しばらくパレードも通った県道に沿って歩いていた昇が、焼酎の品揃えがいい土産物屋の〈せとうち物産〉の脇をすり抜けて〈立神〉の方に曲がろうとした時、太い声が昇を誘った。
「雄太ぁ、飲んでいかんな!」
 土産物屋を経営しているとうごうだ。店の軒下と歩道をまたぐようにしてアルミニウム製のテーブルを出し、妻と息子夫婦と、このブロックの商店主たちとで料理と酒を囲んでいた。
「ごめんなさい」
 昇は答えて春日地区の方を指差した。
「繁野に呼ばれてるのよ」
「はげえ、平成三年生の仲の良さやあ。行くなら急がんばね。みんな集まってるみたいよ」
「へえ、そうなんですか」
「だからよ、一杯飲んでから行っても変わらんわけよ」
 東郷はスーパードライを紙コップに注いで昇に手渡した。
「と、じゃあ、いただきます」
 昇が紙コップをテーブルに掲げて一口飲むと、東郷がしゃがむように手招きした。
「座れ座れ」
「なんですか」
「恵美ちゃんのこと聞いた? 先週よ」
 塚田との話だろうか、と昇はいぶかしんだが、あの話題を叶の方から言いふらすようにも思えないし、塚田の口の堅さは誰よりも昇が知っている。
 昇は何も知らない顔をすることにした。
「はげ、だらしないがな。雄太がちゃんと捕まえとかんばダメよ」
「なんですか、一体」
「先週、役場に一緒に行ったんだろ。そのあとよ、恵美ちゃんは街宣車やってる東京の警察のところに行ったのよ」
 昇は思わず目を閉じた。間渕のところだ。
 何度か一緒に行動して、間渕自身がそれほどあくらつでないことはわかっているが、島の人たちとは全く異なる目的で動いているので、信用するわけにはいかない。だが、異なる目的というなら蒲生や祝も大して変わらない──昇は、そんなことを考えた自分が気に入らず、思わず舌打ちしてしまう。
 東郷はそれを別の意味に解釈したようだ。
「だろが。雄太、恵美ちゃんと話しておけよ、ほんと。この間は湊屋におったど。あの街宣車の連中と一緒よ」
んが言っても変わりませんよ」
「そんなことないっちば! あれは雄太のいうことなら聞くっちょ。右翼なんかと一緒におると、みんなからそっぽ向かれるど」
 昇はビールをもう一口飲んで「わかりました」と頭を下げる。東郷の理解とは異なるが、叶をそちらに押してしまったのは自分なのだ。
「ほんとに頼むど。明日、あの船がユリムンに来るっちゃがな。漁協が陸に揚げてた〈ネリヤ丸〉を下ろしてるの、知ってる? なんかしようっちしてる連中がいるのよ。恵美ちゃんを巻き込ませるなよ」
 立ち上がった昇はもう一度「わかりました」と言った。
「東郷さんも、明日何かしようとしている人がいたら、注意してあげてください」
「任せれ」と、東郷は胸をどんと叩いた。「見かけたらLINEするからよ、構わん?」
「お願いします」
 昇は半分ほどビールの残っているコップを掲げて〈せとうち物産〉を後にした。
 そのまま県道を渡り、あんきよの上を歩いて二つ目の角を右に曲がれば、百メートルほど先には〈立神〉がある。繁華街を横に突っ切る通りだが、商店は多く、通りにテーブルを出している家も多い。
 昇は、あっという間にぬるくなったビールを一口ずつ含みながら、〈立神〉の方へと歩いて行った。遠目にも通りに出した四本のテーブルに人が群がっていて、繁野がその間を縫うように歩いているのがわかった。確かに同窓ばかりのようだ。大きななかと、やたら背の高いいれが繁野を手伝っていることがすぐにわかった。繁野以上に動いている人影は、案の定というかなんというか、塚田だ。
 だが、昇の目はいつの間にか、一番店に近いテーブルの真ん中に陣取る鮮やかなパレオに吸い寄せられていた。祝だ。だいぶ前から腰を据えているらしく、テーブルには紙の皿と紙コップが何枚も重ねられていた。
 店の会話が聞こえそうになったところで、繁野が昇に気づいた。
「雄太! 遅かったがな」
「ごめん。店を閉めてたから」
「開けとけばいいがな。そしたら食材が足りんくなったらすぐに取りに行けるのによ」
「何言ってんだよ」と、言いながら昇は繁野に紙コップを差し出した。「生、飲める?」
「あったりまえなんだけどや──あ、何よ」
 いつの間にか繁野の背後にいた塚田が、繁野の肩をつついていた。繁野が慌てて両手を合わせ、頭を下げる。
「ごめん雄太。悪いけど、アレを連れてってくれんね」
 目配せをした方向で、緑とオレンジ色のパレオが舞い上がった。
だいすけ、今の聞いたからね。客にアレとは何よ!」
 繁野は目をいて祝に顔を突き出した。
がなんかち? 決まってるがな。酒食すえぐれえよ。もう一時間も粘って飲み続けてるがな。もう出す酒なんかない」
 祝がテーブルに置いてある紙コップを掲げた。
「ちょっと、何言ってんのあんた。こんな小さなコップでまだビール三杯目よ。すえれなんて、酔っ払うぐらい出してから言いなさいよ」
 祝の口ぶりは酔っているようには見えなかったが、振り返った繁野は昇の両肩に手をかけた。
「そんなわけで、連れてってくれんね」
「どこに?」
 繁野は後ろ指をさした。
「アレが決めるはずよ。もちろん雄太が決めてもいいんだけどや」
「ちょっと意味わかんないんだけど」
「いいから、行けっちょ」
 塚田が背後から手渡してきた紙コップを、繁野は昇に押し付けた。中にはビールがなみなみと注がれている。
「今日は払わんでいい」
 繁野は振り返って祝に言った。
「わかった? 雄太をつけるから、これで構わんな?」
 きっと繁野を睨んだ祝は、紙コップを突きつけた。
「もう一杯ちょうだい」
「聞いてなかったわけ? 酔っ払いに酒はやらん」
 繁野は、手をついていたテーブルの水割りセットに手を伸ばし、トングで氷を三つつまんで祝の紙コップに放り込んだ。
「ちょっと! 氷なんか入れて、あんたそれでも飲み屋のマスター?」
「客の健康管理も飲み屋の仕事になったからや」
「いつから」
「ついさっきから。はい立った立った立った」
 繁野は祝の座っていた椅子の背もたれをガタガタと揺すった。頰を膨らませた祝が仕方なしに立ち上がると、繁野はその背中を昇の方に押しやった。
「雄太、コレがギャーギャー言うようだったら、の店の前にあるフェリー乗り場に連れて行けばいいど。ちょうど手すりもないし、黙らんかったら突き落としてくればいい」
 苦笑いした昇は、祝の手を取って繁野に言った。
「わかった。どうしようもなくなったら突き落とす」
「ばーか!」
 布団屋の角を曲がって、〈立神〉が見えなくなったら祝は自分で港の方に歩き始めた。足取りはしっかりしていて、小さな紙コップにビールを三杯飲んだだけというのは、噓ではないようだ。
「どこ行くの」
「さっき繁野が言ってた、前のフェリー乗り場でよくない?」
「いいよ」と、頷いた昇が車道側を歩こうとすると、祝が肩を押し付けてきた。
「なんだよ」
 言いながらも心臓がとくんと脈打つが、祝はコンクリート舗装の道路を指差した。
「車こないんだし、真ん中歩こうよ」
「了解」
 コンクリート舗装の中央に走るアスファルトの目地を挟んで、港に向かって歩いていく。昇は子供の頃から何百回通ったかわからないこの道が、港に向かってわずかに下っていることに気づいた。道路は真新しい工事の跡で縦横に切り刻まれていて、上下水道を入れ替えたらしい場所には茶色の、多孔質舗装が施されていた。
 よく見ると、工事の跡は重なっていない。
「何見てるの?」
「あ、ごめん」
「謝るな!」と、祝が肩をどつく。「それが一番腹たつのよ! 何か悪いことした?」
「いや。ごめん、ちょっと舗装が気になったんだよ」
 瞬時に切り替えた祝が道路に目を走らせる。
「舗装って、これ? ああ、コンクリートね。懐かしい」
「県道とか国道を黒い道って呼んでたの、覚えてる?」
「懐かしい! 西古見の中の道もコンクリートか舗装してないかだったもんね。古仁屋に来たら黒い道が多くて驚いたの、覚えてるよ。まだ残ってるんだね」
「もうすぐなくなるよ」
 昇は真新しい茶色の帯を指差した。
「誰に聞いたか忘れたけど、この舗装は水を吸い込むし草も生えるんだってさ。これから工事のたびに入れ替えていく計画なんだって。ユリムンビーチが続く限り」
「へえ、そうなんだ」
「知らないの? ユリムンビーチで使ってる材料だよ」
「知りませーん」
 祝は昇の手から紙コップを取り上げて、一口飲んだ。
「なんで知ってる必要が、あ、る、ん、で、す、かー」
「やっぱり酔っ払ってる?」
「まさか」と祝は首を横に振った。「ちょっとはしゃいでるだけ。お祭りなんて何年ぶりだろう」
「立神で追い出されるようなこと、したの?」
「まさか。裕子と大介が変な気を回しただけよ」
 店から追い出す時の、してやったり、という感じの繁野と塚田の顔を思い出した。確かにそんなところだろう。何か言おうとして顔を上げると、アマンコープのある筋までやってきていた。
 県道よりも一本港側を東西に走るその筋は、繁盛していたことを昇も覚えていないほど昔から寂れていたシャッター商店街だ。
 昇は、心なしか大股になった祝に合わせて足早にアマンコープの方に歩を進めた。
「古仁屋、小さいなあ」
「ほんとにね」
 そのしんみりとした声を聞いた昇は、ずっと聞こうと思っていたことを尋ねることにした。
「佳乃さあ、難民キャンプはどこでもよかったんだよね」
 首を前に突き出した祝は、昇の表情を確かめてから答えた。
「そう。西古見じゃなくてもよかった。たまたま土地を持ってたけど、この計画ならロハで貸してくれる場所だってあるからね」
「どうして西古見にしたの?」
「まだ間に合うと思ったし、一回、帰っておきたかったから」
「なるほどね」
 昇が、一歩ごとに近づいてくるアマンコープを見つめたままその言葉について考えていると、祝が横で吹き出した。
「なんだよ」
「どうして意味を聞かないの?」
「自分で考えてみたくて。間に合う、の方はわかるよ。古仁屋がどうしようもなくなる前にってことだよね」
「まあ、そうね。十年遅れたらただの乗っ取りになっちゃうでしょ。本当はもっと早ければよかったんだけど。帰っておきたかった、の方は本当に帰っておきたかっただけ」
 祝がそう言った時、二人は古仁屋港に向かう道との交差点に差し掛かった。
 右手のブロックは港に面した筋らしく、土産物屋や、軽食を食べられる食堂が軒を連ねている。ブロックの裏手には、街宣車で乗り込んできた政治団体が宿をとる湊屋が暖簾のれんをはためかせているはずだ。
 港は、左側だ。
 防波堤で囲われた、直径八十メートルほどの小さな港には、手前側から海上タクシー、遊覧船、プレジャーボート乗り場が続いていて、その向こう側には昇が毎週二回も使う〈フェリーかけろま〉が停泊している。
 ぽつぽつと歩く人がいたせいか、昇と祝は口を閉じたまま歩みを速めて、正面のアマンコープの手前にある古い桟橋を目指した。
 街灯がなくなったところで、祝が息を詰めていたかのような声を出した。
「古仁屋に帰ってきてよかった」
「それはよかった──ごめん!」
 言った瞬間、昇は顔をしかめて謝っておく。
「からかったわけじゃないから」
「わかってるよ」と言った祝は、アマンコープの脇を通り抜けて、繁野が教えてくれた古い桟橋に向かう階段を登った。
 旧型の〈フェリーかけろま〉に乗船するための桟橋は、記憶よりもずっと広かった──いや、実際に広げてあるのに気がついた。どうやら、釣りを楽しむためらしく、水際には腰掛けるのにちょうどいい段差があった。
 昇と祝は、どちらからともなく、その段差に腰掛けて、少し開いた脚の間で、ぬるくなったビールの紙コップを支えた。
 祝が口を開いた。
「どうしてみんな政治の話にしちゃうかな」
 昇は思わず吹き出した。
「佳乃がそれ言うか」
「なんで」
「なんで、って……自覚がないの? 中学の時からそうだったじゃない。生徒会だって、おれは押し付けられて立候補したわけだけど、佳乃は校則を緩めるんだって言って、自分から立候補しただろ」
「それ、政治?」
「……違うかな。今回だって、政府が認めていない難民を連れてくるなんて最高に政治的な話じゃないか」
「反対することが、政治的って言いたいわけ?」
 何も言い返せない昇をじっと見てから祝は言った。
「もちろんわかるけどさ。賛成と反対の他に、何も言えないのっておかしくない? そんな選択肢なら、どっちかが諦めるしかないじゃない」
「それは、仕方ないんじゃないかな」
「仕方なくない。髪型を、手帳に書いてある三つ以外から選ばせろってだけじゃないの」
「校則の話はいいよ。でも、ユリムンビーチは賛成か反対かだろ。難民キャンプを作らせるか、作らせないかじゃないか」
「ほらそうやって二つに分ける」
「他にあるのかよ!」
 思わず声を張り上げてしまったが、その声は港に吸い込まれていった。周りに誰もいないこと、そして相手が祝のせいで、気が緩んでしまったらしい。
「ごめん、でも賛成か、反対かだよ」
 祝は首を横に振った。
「説明会のときにさ、とくのおばあさんが言ったことを覚えてる? 鶏飯の話」
「なんだっけ──ああ、せいすいにあったっていう施設の話か。国民宿舎だよな。そこのレストランの鶏飯がおいしかった、って話だっけ」
 祝は頷いた。
「あの時みんな笑ったけどさ、みんなもあんな風に、わがままになればいいと思うよ」
「わがまま?」
「そう、わたしや蒲生さんはひどいわがままを言ってるんだし。同じように言ってみればいいじゃない」
 答えきれずにいる昇を、祝はまっすぐに見つめていた。顔をらすと、祝は昇に体を寄せて顔をのぞき込んできた。
「考えてもいないんでしょ。何やりたいか」
「そんなことない」
「噓だね、絶対雄太は考えてないね。じゃあ聞くよ。いつまで島で暮らすつもり?」
「と、当分だよ。父さんのことが決まるまではいる」
「じゃあ、いつかは離れるの?」
「……たぶん」
「いつ? どうなったら東京に戻るの? 四十歳になったら仕事なんか選べないよ。なんか考えてたんなら言いなさいよ」
「流通なら、できるよ」
「十年も休んでいた人を雇うと思う?」
「休んでないだろ。規模は大したことがないけど、アマンコープでは一通り全部の仕事してるんだから」
「配達ばっかりじゃない」
「そこしか見てないわけ? 仕入れもさばきも全部おれがやってるよ。それにユリムンビーチが始まればもっと複雑な仕事も──なんだよ!」
 祝は立ち上がっていた。
「決めたら、また話そう」
 頭上から、風に溶けてしまいそうな小さな声でそう言った祝は、桟橋の奥の方へと駆けていった。手すりのないその向こうは、夜の港だ。
「ちょ──佳乃!」
 立ち上がった昇の目に、祝の姿は見えなかった。わずかに遅れてとぷんという音がした。
 慌てて岸壁に駆け寄ると、とろりとした港の水に波紋が広がっていくところだった。
「佳乃!」と叫ぶと、波打つ水面の下を、白い影が動いていくのが見えた。
 水面を小さな頭が割る。
「なにやってんだよ、上がってこい!」
「ごめーん。パレオ拾っといて!」
 祝は立ち泳ぎの姿勢になって、自分が飛び込んだ桟橋を指差した。そこには確かに、さっきまで体に巻きつけていたパレオがしわくちゃになって落ちていた、
 祝は港の反対側を指差した。
「気持ちいいから泳いでく。もうすぐ時間なのよ」
 いつの間にか山の間から登った満月の光に白く輝く祝の指は、向かいの海上タクシー乗り場を指差していた。
「実久?」
「そう。明日は実久の浜から船を出して〈エデンの園号〉を迎えにいくの」
 加計呂麻島の西の端にある実久の浜から船を出せば、東シナ海を北上してくる〈エデンの園号〉が西古見に入ってくるまでずっと追いかけることができる。最高速度は確か二十五ノットだったはずだが、自動車以上にすぐには止まれない五十万トンの船だ。海峡に入ったところで大きく速度を落とすだろう。
 シーカヤックでも、距離をおけば並走できるだろうし、水上部分だけで五十メートル近くある
「わかった、気をつけて!」
 昇が答えると、祝はこちらに振った腕をそのまま水の中へと差し込み、体を反転させて水中へと頭を沈めた。一瞬、水中で静止したかのように見えた祝は、まるで壁を蹴ったかのような勢いで昇から遠ざかる。ほうっと見とれていると、祝の半身がとろりとした海面から現れて、月光で真っ白に輝く腕の抜き手が水を円形に宙に舞わせる。昇が、そういえば留学先でトライアスロンをやってたんだっけと思い出す頃には、祝はもう港の半分に差しかかろうとしていた。
 防波堤に囲まれた港に祝の航跡ウエーキが広がっていく。
 その波は、昇のいる桟橋の根元に届いたらしい。
 足元でたぷんという音がした。
「佳乃!」
 昇は思わず声をかけていた。祝はくるりと体を反転させて、背泳ぎの姿勢でこちらに顔を向ける。
「〈エデンの園号〉は、いつ来るの?」
「夕方の五時」
「おれも行くよ!」

▶#11-5へつづく ※11/11(月)公開
◎第 11 回全文は「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2019年11月号

「カドブンノベル」2019年11月号


※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。


関連書籍

カドブンノベル

最新号 2019年12月号

11月10日 配信

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP