menu
menu

連載

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」 vol.23

【連載小説】武士をやめるという青年に、生徒たちの反応は。そして、武士少女との別れの日……。感動の連載ラスト! 榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#5-6

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

4.シェイプオブウォーター

 春夏秋冬の趣で言えば、私は秋が好きだ。
 実りの季節、木の葉が色づき、空の青は冴える。厳しい冬に向かっていく、静かな心構えを作る秋は、私の精神と一番シンクロしやすいのだろう。正直、夏は苦手だ、ことにこの厳しい東京の夏には辟易である。
 そんな私ですら、夏が終わりに近づいていることを感じると……なんとなく寂しさを感じるのはなぜだろうか。早く涼しくなればいいと口癖のように言いながら、朝晩が楽に過ごせる頃、ほんの少しだけ物足りない気もしてしまう。
 せみの声、激しい通り雨、花火の炸裂音……。夏は賑やかだ。けれど次第にそれは静まっていく。チリンと鳴る風鈴の音も、弱々しさを感じる。
 けれど、まだ夏が終わったわけではない。
 一週間の予定だったルリの滞在は、延長されることになった。
 言い出したのは隼人だ。ルリがここに来て最初の数日、自分は部屋に閉じ籠もってなにもしてやれなかった、そのぶんを延長したらどうかという提案だった。彼らしい律儀さだ。ルリはもちろん大喜びで北海道の家に電話で許可を求めた。父親は「ご迷惑ではないですか」と気にしていたが、最終的に許しが出て、ルリの滞在はさらに一週間延びた。ルリもだいぶ伊能家に慣れたので、残りの一週間、栄子は自宅に戻った。
 武士をやめた隼人。小さな武士のルリ。
 ふたりは毎日熱心に、剣道の稽古に励んでいた。隼人が武士をやめてしまったことに、ルリはずいぶん責任を感じていたようだが、隼人が根気強く説明した。
 ──以前から考えていたことであり、おまえのせいではない。今後は武士ではなく、剣士としての指導となるが、それでもよいか。
 隼人が聞くと、ルリは深く頭を下げ「もちろんでございます」と答えた。
 ルリが帰る三日前、伊能家でジンギカスンの宴が催された。
 羊肉の料理で、名前の由来はかのGenghis Khanからきているらしい。北海道では、人が集まるとよく振る舞われるそうだ。頼孝と誠、剣道教室の輝たちも来て、賑やかなランチパーティとなった。もちろん栄子も来てくれて、美味しそうな手料理が並ぶ。
「落ち着け! 子供たち落ち着けえ! 肉は逃げないから、いっぱいあるから! あっ、こら輝! なんで俺の皿から肉取るのおまえは!」
 快晴の下、頼孝が叫び、子供たちが走り回る。
 誠がバーベキューセット一式を持ってきてくれたので、庭でのジンギスカンだ。いつもは礼儀正しいルリですら、ほかの子に巻き込まれてはしゃいでいる。頼孝の言うことはちっとも聞かない子供たちだが、騒ぎすぎて隼人が「こら」とたしなめるとややトーンダウンし、さらに栄子が睨むともっと静かになった。栄子を怒らせれば、とっておきのデザートがなくなると知っているからだ。
「だってね、アンソニー様、デザートはアイスケーキなのですよ。手前は冷凍庫で見つけてしまいました。栄子様の手作りで、上にはフルーツがたくさんのってて、ものすごく美味しそうなのです!」
 ルリが私にそう教えてくれた。今日はいつもの作務衣ではなく、栄子が用意してくれた花柄の浴衣を着て、髪も女の子らしく結ってある。
「みなに話がある」
 デザートの前、隼人は子供たちを集めてそう切り出した。
 ルリも含め、六人の子供が隼人を取り囲むように集まる。ユニクロで買い出しをして以来、とりあえず洋服に困ることのなくなった隼人は、マスタードイエローのTシャツにハーフパンツの出で立ちだ。
「そ……私は、武士をやめることにした」
 子供たちがぽかんとした顔になる。
「もとい、やめた。今は手続き中だが、数日のうちに正式な書類が届き、それで私は武士ではなくなる」
 先日、剣道教室の夏稽古が終わり、ここで告げることになったようだ。事情を知っているルリだけが、やや俯いていた。子供たちはそわそわし始め、次第に落ち着きをなくす。ひそひそと話し声も聞こえるようになった。やめる? なんで? どういう意味……? あまりに突然で、彼らは状況をうまく摑めていない。
「あの」
 意を決したように声を発したのは宙だった。
「それは、先生が剣道をやめてしまうということでしょうか」
「そうではない。武士でなくとも剣道はするからな」
「それでは、これからも僕たちに稽古をつけてくださるのですか?」
「無論だ。ただ私が武士ではなくなるというだけだ」
「先生が武士でなくなると、稽古が……あの、ちょっとラクになったりするのでしょうか?」
「それはない」
 ないのか、と小さくぼやいたのは輝である。宙は「そうですか……」と言ったものの、表情はまだすっきりしていない。子供たちが互いに顔を見合わせ、再びボソボソと話し出す。明らかに戸惑っているのがわかったため、隼人も小声の相談を止めることはなかった。ルリはほかの子からなにか聞かれ、小首を傾げつつ、なんとか答えようとしているようだ。
「隼人先生っ」
 しばらくすると、今度は輝がピッと右手を挙げた。
「つまり、なにも、変わらないということでしょうか!」
 その質問に、隼人「いや、だから……」と言いかけて言葉を止める。
 だから、武士をやめるのだ。その点が変わる。
 そう言うつもりだったはずだ。けれど気がついたのだろう。子供たちにとっては、実際なにも変わらないということに。今までも隼人は剣道着のまま体育館に行き、そのまま帰ってきていたので、服装にすら変化がないのである。
「…………そうだな……変わらんな……」
 自分に向かって呟くように、隼人はぼそりと言った。輝が「よかった!」とその名のように輝く笑顔を見せる。
「先生が変わらないならよかったです! あっ、髪は今のもかっこいいよ! だからデザート食べていいですか!」
 より大きな声でそう聞いた。
 栄子が大きな皿を手に、濡れ縁に姿を現したのだ。アイスケーキが溶けたらどうしようと、輝は気が気ではないらしい。ほかの子供たちもすっかり気持ちをアイスケーキに持っていかれ、隼人は溜息交じりに「食べてよい」と許可をした。
 子供たちはワッとアイスにたかる。
 その中には頼孝まで交ざっていて、まだ肉を食べていた誠が「でかい子供がいるぞ」と笑った。
「……変わらないと、言われました」
 隼人が誠に言った。誠は鉄板に残った肉と野菜を箸で集めつつ、
「そりゃそうだ。武士をやめてもおまえはおまえだからな」
 そう聞いた。隼人は「はぁ」と頷いたものの、釈然としない顔だ。
「子供たちへの接し方も変わらないだろうし、武士語が抜けるのも時間がかかりそうだしなあ。抜けたとしても、おまえは頼孝みたいに『あざまーす』とか言わないだろ?」
「……言いませぬな」
「なら、今と大差ない」
「さよ……そうでしょうか」
「うむ。左様にござるよ」
 誠が笑いながらわざとそんな言葉を使うので、隼人は微妙な表情を見せる。
 そうなのだ。変わらないのだ。
 私がこの数日見ている限りでも、大きな変化はない。ご近所さんたちはなにかあると「若さぁん」と頼ってくるし、そのお礼の品々も届く。誠の指摘どおり、言葉遣いもなかなか直らないし、率直なところ……着ているものが洋服になっただけという気もする。
 ただ、飾られていた刀はしまわれ、手入れをする姿もあれきり見ていない。
 ルリがアイスケーキの皿を手に、小走りに隼人に近寄っていった。自分より先に、師のぶんを確保するとは偉い子だ。
「はい、先生!」
 隼人は「ああ」と小さく頷いたが、皿を受け取りはしない。しばらくルリのことを見つめていたが、やがて右手を動かした。
 竹刀ダコのできた、大きな手がふわりとルリの頭を撫でる。
「おまえが先に食べなさい」
 不器用な優しさの滲む声で、そう言った。
 隼人がルリに触れたのは初めてだったかもしれない。隼人はもともと、スキンシップをほとんど行わないタイプなのだが、ルリに対してはとくに徹底されていたように思う。女の子だから遠慮しているのだろうが、もう少し距離感が近くてもいいのではないかと、私も常々思っていたほどだ。
 ルリはとても嬉しかったようだ。
 嬉しすぎて恥ずかしくなってしまったらしい。ほとんど強引に隼人に皿を押しつけて、言葉もないまま走り去り、栄子の陰に隠れてしまった。
 誠がその様子を見て「可愛いなあ」と笑う。
 隼人はなにも言わないまま、輪郭のゆるみだしたアイスケーキを食べ始めた。

 ルリが北海道に戻る日、羽田空港まで送っていくこととなった。
 ルリの父親は伊能家まで来ると言ってくれたのだが、あまり負担をかけたくないという隼人の気遣いだ。栄子も朝から来てくれ、ルリに手作りの菓子を持たせていた。
「またおいで」
 玄関先で栄子は言った。ルリは来た時と同じ藍色の剣道着で、髷風に結いあげた髪の結び目には、青紫のリンドウgentianaの造花が飾られている。もちろん栄子の心遣いだ。
「……来れるでしょうか」
 どこか不安げにそう聞いたルリをぎゅうっと抱き締め「うん。きっと」と答える。
 そうなるといいと、私も思う。また次の休み、今度はちゃんと両親の許可を取って来ればいい。
「さあ、そろそろ出ましょうか。忘れものはないですね? あれ、ハヤトは?」
 まだ玄関に現れていない。栄子が「隼人さぁん?」と呼ぶと、「今しばらく」と自室のほうから声がした。
「武士語、抜けないねえ」
 栄子が呆れ声を出し、私も「抜けませんね」と笑う。
「『それがし』もちょいちょい出てますよ」
「洋服なのに、無意識に刀の位置直そうとするよね」
「してますしてます。あれはちょっと面白いです」
「あれってさ、コンタクトに変えたばかりの人が、かけてない眼鏡の位置を直そうとしている感じよね!」
 そんなことを喋っていた私たちに、ルリが口を尖らせて「隼人様は頑張っておられるのです」と割り込んだ。ごめんごめんと、ふたりで謝る。
「お待たせいたした」
 やっと現れた隼人を見て、私たちは軽く目を見開く。
 羽織はかまに大小を帯刀──あとは髷があれば、まるきり武士だ。
 着物の生地こそ違うものの、私を出迎えてくれた時とほぼ同じスタイルである。いくらか決まり悪そうな隼人は、「急がねば」などと言いながら、ぞうに足を入れる。もちろんをはいている。
「隼人様……もしや、やめたのですか?」
 ルリが聞いた。
「武士をやめるのを、やめたのですか?」
 その声は弾み、嬉しそうだった。隼人は「うむ」と短く答えた。私たちとは目を合わさず、「晴れてなにより」などと言っている。栄子が笑いを堪えながら顔をそむける。
 やめるのを、やめた。
 つまり隼人は武士に戻った。自分の意志で、そうすることに決めたのだ。
 別れがつらくてしょげていたルリが、たちまち元気になる。再び栄子に抱きつき「きっと、また来ます!」と自分で言う。
 三人で、空港へと出発した。
 隼人とルリが並んで歩いていると、人々が注視するのがわかる。電車の中でも、モノレールでもチラチラと見られる。桜もまだだった春先、初めてこの国の地を踏み、初めて隼人とモノレールに乗った時を思い出す。武士と外国人という組み合わせは目立ち、ずいぶんジロジロと見られたものだ。だが今、隼人とルリに向けられている視線はみな柔らかい。微笑みを浮かべている人も多い。
 凜々しい青年武士と、可愛らしい少女剣士。
 女の子は青年を見上げ、その瞳は憧れを語っている。青年は物静かで礼儀正しく、荷物を抱えた高齢の紳士が乗ってくると、その荷物を持とうと申し出る。女の子もそれを真似する。もちろん外国人の私も、手伝いを申し出る。
「ありゃあ、すまないねえ……親切なお侍さん、こっちのお侍さんは可愛らしいねえ……おぉ、がいじんさん、あんた日本語がずいぶん達者なんだねぇ……」
 私は微笑んで答える。なにしろサムライと同居していますからね、と。
 無事に空港に到着し、ルリの父親に会えた。
 父親は私たちに何度も頭を下げ、両手いっぱいの乳製品を持たせてくれた。
 保安検査場の前での別れ際、ルリは両の眼を充血させたが涙を零すことはなかった。隼人が「冬休みにまた稽古いたすぞ」と言ってくれたからだ。
「必ず、必ず参ります」
「うむ」
「それまでどうぞお元気で。アンソニー様、隼人様をよろしくお願いいたします」
 よろしくお願いされた栄誉に私は胸を張り「おまかせください」と請け合った。
「次は勝手に参ってはならぬ」
「はい」
「きちんと許可をいただくのだぞ」
「はいっ」
「母上に」
 隼人はスイと身をかがめ、目の高さをルリに合わせる。
「──母上に伝えてくれ。それがしは健勝であると」
 ルリが目を見開き、その表情が固まる。隣で聞いていた父親もまた、明らかに緊張したのがわかった。父親がなにか言おうとした時、隼人は再び姿勢を戻し、
「そろそろ搭乗なさったほうが」
 とふたりを促す。父親はルリの手をしっかり握ったまま、少し苦しそうな顔で言葉を探す。けれど結局、見つからなかったようだ。深々と今一度頭を下げ、娘を促した。そして保安検査場の列に入っていった。
 ルリは何度も振り返る。そして大きく手を振る。
 私は手を振り返した。隼人は動かず、けれど視線は少女から離さない。
「妹なのです」
 私を見ないままで隼人が言った。
「母が再婚したことは存じておりました。子供がいることも。名字や、どこに住んでいるかは知りませんでしたが……栄子殿はご存じだったと思いまする」
 ああ、それでかと腑に落ちた。
 栄子は最初からわかっていたのだ。北海道から突然やってきた少女が、隼人の妹だということを。だからこそなかば強引に、彼女を受け入れたのだろう。それはルリのためだったのか隼人のためだったのか──たぶん、両方だ。
 そしてもうひとつ理解する。
 ルリが以前話してくれた、超かっこいい少年剣士。あれこそが、少年だった頃の隼人だ。どういう経緯でかはわからないが、隼人の母親が持っていた映像を見て──それ以来隼人は、彼女の憧れとなったに違いない。
「ハヤトはいつ気がついたのですか」
「あの子が突然現れた時から、もしやとは思うておりました。驚くほど……母親に似た顔つきをしておりまする」
「なるほど」
 もうふたりの姿は見えない。それでも私たちは、同じ場所に立ったまま同じ方向を見て話し続ける。
「母は……よく祖父と言い争っておりました。それがしが武士になるのを強制しないでほしい、と。とくに父が亡くなってからはいっそうです。それがしはふたりのいさかいを見るのがつらく、自ら武士になりたいという素振りをいたしましたが──本当のところ、自分がどう考えていたのか、今はもうわかりませぬ」
 隼人の母は、息子を置いて出ていった。彼女なりの事情はあっただろう。そうするよりほかになかったのかもしれない。それでも、残された子供は傷つく。時に血の繫がりゆえに、傷は深い。
「ルリにはあのように申して恰好つけたものの……実のところ、いまだ母親を許せてはおりませぬ」
「そう簡単に許せるものではないでしょう」
「左様にござりましょうか」
「でもいつか許せるといいですね。……などと言ってみましたが、私だってこの歳だというのに、まだ自分の家族とうまくつきあえません。それはそれで、仕方ないと思います。家族は理解しあうもの、などというのは幻想に過ぎません」
 もちろん、理解しあえれば素晴らしい。私もそれを否定する気はない。けれど正直なところ、私は家族であれ誰であれ、他人を理解できたと思った瞬間など一度もない。いつも、わからない。隼人のことだってわからない。かなりわからない。それでも私は隼人という人間をとても好ましく思っている。それで十分な気がする。
 アナウンスのソフトな声が、各国の言葉で高い天井に流れていく。
 人波は途絶えず、老若男女が保安検査場に吸い込まれる。
「…………それがしは」
 隼人の言葉が途切れる。
 私は続きを促そうかと思ったのだが、黙って待つことにした。私たちの横を、五、六歳の男の子がはしゃぎながら、すごい勢いで走っていった。その後ろを慌てふためいた男性が追いかけていく。見たところ、父親というよりは祖父だろう。なんとか追いついて、孫は叱られる。迷子になったらどうするんだ、は広いんだぞ、みんなと二度と会えなくなるぞ……そんなふうに言われても、孫はまだはしゃいで笑っている。さらに母親が追いついて、怖い顔をした。子供は少し神妙になる。
「それがしは取り返しのつかないことをいたしました」
 話の続きはふいに始まった。
「病床ですっかり弱っている祖父に、こう申しました。武士になど、なりたくなかった。なりたいと思ったことなど一度もない。そのせいで母さんは出ていった。ぜんぶあんたのせいだ。あんたを許さない。死んでも許さないから……よく覚えておけ」
 私は返事もしなかったし、あいづちもうたなかった。隼人の顔を見ることすらしなかった。できなかった、が正しいかもしれない。隼人が悪態をついたことがショックだったわけではない。やはり彼がそこまで追い詰められていたという事実が、つらかった。
「実際はもっと口汚く罵りました。祖父はなにも言わず、ただ泣き出しました。子供のように泣くのです。とてもその場におられず、家を飛び出し……しばらくして戻ると」
 もう死んでおりました──淡々と、隼人は言った。
「叔父がいて、怒鳴られました。おまえはなにをしてたんだ、親父はひとりで死んでたぞ、と」
 次第を語る口調に乱れはなかった。その声は震えず、安定している。もうずっと前から、誰かに告白することを準備していたかのようだ。
 隼人はいったい、何百回思い出したか。
 悔やみ、苦しみ、夢に見たのか。
 そんなに気に病む必要はありません、お祖父さんはちゃんとわかってくれてますよ、悔やんだところで過去は変えられないのです──私の頭にいくつかのセリフが浮かんだが、どれも口にする気にはなれなかった。気に病むことは意識的にやめられるものではないし、先代がどう思ったかを私が知るよしもないし、過去が変えられないなんて自明の理をふりかざすのも意味がない。こんな時、言葉は無力だ。
 いや、私が無力なのだ。決して容易ではなかったはずの告白をしてくれた、この若い武士に、言葉ひとつかけてやれないなんて。なんと情けなく、役立たずなのだろう。
 隼人が小さな子供なら抱き締めてあげられるのに。
 そう、いつか隼人が、宙にそうしたように。
「ハヤト」
 声をかけ、隼人のほうに身体ごと向けた。
 隼人は「はい」と返事をしてこちらを見る。向かい合う形になり、私はつかのま躊躇ったが、思い切って両腕を広げてみた。やはりどうしても、ハグ以外に思いつかなかったのである。隼人は成人男性だが私よりだいぶ年下だし、私は外国人だし、ぎりぎりありなのではないだろうか。
「…………」
 だが、隼人は怪訝な顔でこちらを見るだけで、動かない。
 私が三歩前進すればハグできる距離ではあるが──いや、これは違う。そういう雰囲気ではない。ぜんぜんだめだ。周囲の人がチラチラ見ている。なんだこの空気は。困った。
 私は腕を閉じる。
 降参して、聞いてみる。
「どうやったら、きみを甘やかせますかね?」
「……は?」
「ハヤトを甘やかしたいんです」
「すみませぬ。仰る意味が……」
「だってそうでしょ。子供の頃のぶんを取り戻さないと。きみはもっと甘やかされるべきなんですよ」
 気恥ずかしさで、若干切れ気味の私を見つめ、隼人は「はあ」と困惑声だ。
「しかし、それは難儀ですな……なにぶんそれがしは武士にござりますゆえ」
「……どうしてまた、武士に戻ったのです?」
 この質問は予測していたのだろう。隼人の返答は早かった。
「なんら、変わりませなんだ」
 この瞬間、隼人のほおが柔らかくなった。ほんの少しだが、私にはわかる。
「武士であろうとなかろうと、たいした変化はございませんでした。それがしは勝手にクサクサしておりましたが……周囲の人々の態度は意外なほど変わらず、武士をやめたと伝えても、多少驚きはするものの、やめるなと仰る方もおらず……」
 そのとおりだ。みんなわかっていたのだ。
 隼人が武士をやめたところで、隼人が隼人でなくなるわけではないということを。
 地域の人々に必要なのは、隼人という人間であり、武士であるというオプションは必需ではなかった。
「どんな器に入っていても、中の水は変わらないものです」
 私の言葉に、隼人は呟く程度の音量で、
「それがしの器は、空なのではないかと思うておりましたが……」
 そう言った。まさか。空のはずがない。だが私が否定しなくても、隼人はすでにわかっているだろう。周囲の人が、彼に気づきを与えてくれたのだ。隼人という水は、綺麗に透き通り、少し厳しいほどの冷たさで器に満たされている。もちろん大切なのは中身の水なのだが、水は自身だけで姿を保つことができない。そこに在り続けるために、どうしても器が必要なのだ。
 だから私たちは、器を探し続ける。
 美しい器、素朴な器、実用的な、ユニークな、繊細な、頑丈な……自分という水にとってふさわしい器を探し、右往左往する。ぴったりな器が見つかるかどうかはわからない。見つかったとしても、それが最適だと気がつけない場合もあるだろう。逆にふさわしくない器の中で、ずっと耐え続ける人生もあるのかもしれない。いっそのこと、自分で新しい器を作り出す人もいるかもしれない。
 そしてひとの形が決まる。
 大切なのは、その器が正しいかどうかではない。その気になれば、器などいつでも変えられるという点だ。
「……プリン」
 唐突に、隼人が言った。私は思わず彼の顔を見る。
「コンビニのプリンをおごってくださると、甘やかされた気分になりまする」
 ああ、その話に戻ったのか。私が頷き「十個買ってあげます」と言うと、少し顔をしかめて「買いすぎです」と返されてしまう。
「では五個」
「……六個だと、三日食べられまする」
「一日二個食べたいんですね?」
「朝晩プリンは、それがしにとってぜいたくの極み……」
「わかりました。六個。せっかくですから、どこか菓子店patisserieを探してみましょうか」
「コンビニの、いつものがよいのです」
「了解です。では、コンビニに寄ることにして」
 帰りましょうか、と私は言う。
 隼人も言った。帰りましょう、と。
 伊能家へ帰ろう。プリンを買って帰ろう。私も自分のぶんを買わなければ。隼人はしっかり派、私はとろとろ派なのである。こればかりはあいれない。
 同じタイミングで、踏み出す。
「お、武士発見」
 どこからか、そんな声が聞こえてきた。
 さらに「でもマゲがないじゃん」と続くと、隼人はやや申しわけなさそうな顔になり、自分の頭にゆっくりと手をやった。

※本作は、書き下ろしを加え小社より単行本として刊行予定です。
◎最終回の全文は「カドブンノベル」2020年7月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年7月号

「カドブンノベル」2020年7月号


関連書籍

MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年11月号

10月10日 配信

怪と幽

最新号
Vol.005

8月31日 発売

小説 野性時代

第204号
2020年11月号

10月12日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP