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連載

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」 vol.16

この家は呪いがかかっている――そう発言した手癖の悪い叔父は、ある物と共に突然消えた。榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#4-4

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」

3.イッスンサキハ、ヤミ

 突然現れた男は、消えるのも突然だった。
 今朝まで信夫はまだいたはずだ。彼の寝泊まりしている客間で、冷房を必要以上に効かせてるのが、襖の隙間から漏れ出る空気でわかった。大学は夏休みだが、私は一般市民向けの夏期講座を受け持っているため、九時頃に伊能家を出た。そして夕方戻った頃には、相変わらず設定温度の低すぎるエアコンをかけたまま、しかも襖を開け放し、廊下までよく冷やして──信夫の姿は消えていた。荷物とともに。
 ほかにも、消えていたものがある。
「……ハヤト。これは……」
「…………」
 隼人は黙ったまま、じっと刀簞笥を見ていた。日本刀を保管する専用の桐簞笥で、鍵もついていた。だが解錠され、鍵は簞笥の上に載っていた。信夫がわざとそこに置いたのだろう、まるであざわらうかのように。
「……鍵のありを見つけられてしまったようです」
「納戸の金庫にしまってあったのでは?」
「叔父は金庫の番号を知っていますゆえ、別の場所に隠したのですが……どうやらこの数日、我々が留守のあいだに探しまくっていたようですな」
「どこに隠していたのです?」
ぬかどこです」
 あそこか!
 日本のピクルスを作るための、独特のにおいを放つ、不思議な土のような……いや、土ではなくライスブランなのだが、とにかくその中である。栄子に「かき混ぜてみる?」と聞かれたことがあるが、私にはまだ素手を入れる勇気がなかった。なるほど、あそこに隠していたのか。
「叔父は糠漬けが嫌いなので、よい場所かと思ったのですが……敵もる者……」
「もしかして感心してますか? そんな場合じゃないでしょう。ここにあった刀は、伊能家の家宝だというのに……警察に届けたほうがいいのでは」
 いいえ、と隼人は答えた。そして畳に膝をつけ、開けっぱなしだった四段の引き出しを、丁寧に一段ずつ閉めながら、「叔父は戻ってくると思いまする」と言う。
 その声はあまりに落ち着いていて、なぜそう思うのかと追及するのが躊躇われた。叔父と甥の関係は、私が考えている以上に複雑なのかもしれない。いや、血縁のあいだにあるものは、血縁であるがゆえに、いつだって複雑に決まっている。
 その午後から、強い雨となった。
 日本では夏から秋にかけて、台風が多いそうだ。日本家屋にはアマドと呼ばれるスライド式のシャッターがあり、強い風雨の時にはこれを閉める。さらに、ふだんは外に出ている自転車、鉢植え、庭道具など、強風で飛ばされそうなものは、屋内や風の入らない場所に移動させておく。また、水が流れ入ってくる可能性がある場所……たとえば半地下になっている駐車スペースなど、そういうところには土囊サンドバツグを積んでおく必要もあるようだ。
 栄子が来るはずの日だったが、休みになる。彼女はスクーターを使っているので、この天候では危険だ。
 夕刻には、雨足はかなり強くなっていた。
 隼人は地域の高齢者宅を回り、注意喚起をしたり、必要ならば土囊を配ったりと一日駆け回っていた。強い雨なので、さすがに和装ではなく、スポーツウエアの上にレインコートを着ての活動だ。私も買い出しを頼まれた。台風による強風は、しばしば停電を引き起こす。伊能家はあまりインスタント食品を置いていないので、二日分ほどの簡易な食べ物を買っておいた。気になっていたカップ麵を買うのも忘れない。日本のカップ麵のクオリティとバラエティは素晴らしいと思うのだ。カセットコンロ用のガスも購入しておく。
 スーパーからの帰り道、風雨はかなり暴力的になっており、私は何度もレインコートのフードを飛ばされた。
 隼人が戻ったのは、夜九時前だ。
 幸い、この地域に停電はなかったが、嵐はやんでいない。全身水にかったようになっていた隼人は、さすがに疲れていたようだ。風呂から上がると、髪が湿ったままで茶の間に座り込む。ドライヤーを使う気力もなかったらしい。それでも、私が作ったカップ麵を食べる前には、ちゃんと手を合わせて「いただきます」と言う。隼人はしょうゆ味、私はトンコツをチョイスした。
 茶の間のテレビでニュースをチェックすると、公共交通機関の一部が運休になったと告げている。都内の道路が冠水する映像も流れていた。
「明日には収まるでしょうか……」
「そう願います。予報では、明け方には雨もやむと申しておりました」
「それまでに大きな被害がでないといいですね」
 隼人は大きく頷き、カップ麵を啜る。かなり空腹だったのか、スープまで全部飲みきり、広い額に少し汗が浮いている。日本人は全般的にの細かい人が多いと思うのだが、隼人もそうだ。とくにこうした風呂上がりなど、本当につるんと綺麗な肌である。私よりひとまわりほど若いんだよなあ、としみじみ見入ってしまった。
「……アイスは、冷凍庫にあったでござろうか……」
 そして若者はアイスクリームが好きである。
「あったと思います。雪見だいふくと、ガリガリ君が」
 中年イギリス人もアイスが好きだ。雪見だいふくは特に。
「停電になったら、溶けてしまいますな」
「そうですね。もったいないですね」
 これは本当であり、噓でもある。冷凍庫内に冷凍品が詰まっている場合は、互いが冷却剤の役割を果たすので、そう簡単には溶けないらしい。おそらく隼人も知っている。我々は単にアイスを食べたいだけだ。
「食べましょう」
 ふたり同時に、すっくと立ち上がったその時である。
 ブラックアウトした。
 いきなり真っ暗だ。目が闇になれず、自分の手も見えない。
「危のうござる。まずは座りましょう」
 隼人の声がして、私はそれに従った。座った状態で、それぞれのスマホを手探りで探す。あった。茶の間にポゥとふたつの明かりが生まれ、隼人はその明かりを頼りに、茶簞笥の開きから懐中電灯を取り出した。
 それを持って、廊下に出る。
 私もついていった。外の様子を確認するため、庭に面した雨戸を少しだけ開ける。途端に強くなまぬるい風と、雨が吹き込んできた。顔にあたる雨を拭いつつ、私は目をこらす。一帯が暗い。
「町内はほとんど停電しておりますな……」
 重い雨戸を再び閉め、隼人は浴衣ゆかたの袖で顔を拭いた。
「しばらく待機いたしましょう。長引かなければ、さほど問題はござりませぬ。納戸にランタンがありますので、それを出……」
 ドシン、と雨戸になにかぶつかった。
 風でなにかが飛んできて、衝突したのだろうか。それにしては低く、重い音だった気がする。ちょうど、人が体当たりしてきたかのような──。
 ドン、ドンッ、ドンッ。雨戸が続けざまに叩かれている。
 隼人は黙り、私に懐中電灯を渡した。
 そして雨戸に再び手を掛ける。私はそこを照らす。
 予感はあった。隼人も、戻ってくると言っていた。なぜそう思うのか理由は聞かなかったが、彼がそう言うのならばそうなのだろうと思っていた。
 それにしても、こんな嵐の夜でなくてもいいだろうに──本当に厄介な人だ。
 隼人は雨戸を一枚ぶん開け放った。濡れ縁越しに、さっきより激しく風雨が吹き込んでくる。
「おいおいおい~」
 信夫はやっぱり笑っていた。
 いつもの人を食ったような笑みの上で、雨が流れを作っている。
「参ったな~。やられたよ~」
 懐中電灯をめぐらせると、その右手に握られているものが照らし出された。私は顔をしかめる。以前、隼人が教えてくれた白鞘……拵のない、日本刀だ。
「可愛くて素直だった甥っ子が、ずるい大人に育って、叔父さんはほんとガッカリですよ。……ったく、武士なんてろくなもんじゃないよなあ? まあとりあえず、入れてくれ」
「お断りいたしまする」
 濡れ縁に上がり、屋内へ入ろうとした信夫の肩を押し返し、隼人ははっきりと拒絶した。
「いやいや、ふざけてる余裕ないんだよ。雨が痛いほどなの」
「お引き取り下さい」
「ここは俺んちだろうが」
「もはや然にあらず。骨董の類、お様の古い貴金属、引き出しの中の現金……そこまでは見て見ぬふりをして参りました。けれど叔父上は、とうとう刀簞笥に手をつけてしまわれた」
「だって、ほかに金目のもんがなかったし。……けど、まんまと騙された」
 信夫は白鞘を挙げ、頰を歪ませる。笑っているのか怒っているのか、よくわからない。隼人に近づき、「本物の長船はどうしたよ?」と問う。目がとろんとし、酒臭い息も感じられた。飲んだ勢いで、ここまでやってきたらしい。
「信頼できる方に預けました」
「偽物が入ってんのに、わざわざ鍵を糠床に隠すとはねえ」
 ……偽物? はたと、私は思いつく。
 数日前、誠が再び訪れたのだ。玄関先で話しただけなのだが、例のちょっと錆びてしまった刀を、研ぎ師に預けに行くのだと言っていた。隼人と連れ立って出かけ、その時隼人も一本……ではなく、一口の刀を手にしていた。あれが、本物だったのではないだろうか。研ぎ師は貴重な刀をいくつも預かるので、刀用の金庫を持っているとも聞く。つまり隼人は叔父が貴重な刀を盗み出すことを予見し、対策を取っていたのだ。
「おまえは俺を試したんだろ? 泥棒かどうか、試したわけだよ。はいはい、俺は泥棒でした~。警察でもなんでも呼べばいい。けどなあ、隼人。仮にも血縁の俺を、叔父を、試すってのはどうなんだろうなあ。卑怯だよなあ。武士の風上にもおけねえ」
 ふっ、と隼人が笑った。
 私の持つ懐中電灯は信夫のほうを照らしていたので、その顔を見たわけではない。それでも、ニュアンスはつたわってきた。それは明らかに嘲笑であり、そんなふうに笑う隼人を私は知らなかった。
「叔父上に武士の何が語れると?」
「おまえ……」
「そもそも、叔父上は確認なさらなかったので? 白鞘から抜けば、それが居合の稽古用だとおわかりになったかと。さすれば、そのまま元の場所に戻せたはずです。……ああ、もしや、見てもおわかりにならなかった? わからぬまま、しめしめと、おおかた不正な品物を扱う業者にでも持っていき、突き返されたのでしょうか? これは笑止。まさしく笑止千万。愚かにも程がありましょう」
「この野郎」
 信夫の顔から、不自然な笑みが消え失せる。隼人の浴衣の衿を摑んですごんだが、それも一瞬のことだった。隼人は衿を摑まれたまま、身体を引くことなく、逆にズンと前に出た。濡れ縁に踏み込み、さらに進む。
「う、うわっ」
 信夫は押される形になり、後ろ向きのまま強引に庭に下ろされる。靴脱ぎ石を踏み損ね、身体のバランスを大きく崩してベシャリと尻餅をついた。落とした白鞘が石にあたる、カツンという音がする。
「ははっ、なんだよ、これ。ひでえな」
 土砂降りの庭、信夫は泥の上に座り込んだまま、立とうとはしない。酔いが足に回っているのだろうか。隼人はその前に立っていた。裸足はだしのままだ。
 強い雨がふたりに降っている。
 降っているというより──打ちえている。
「これは返していただきます」
 身をかがめ、白鞘を拾う。
「ひでえなあ」
 信夫はまた同じことを言った。
「笑えるほどひでえわ。女に逃げられて、いよいよ金がなくて、卑屈にへらへらしながら実家に入り込んで、くせえ糠床に手ぇ突っ込んでようやく鍵ゲット、うきうき気分で長船を盗み出したら偽モンで、まんまと甥っ子にめられた悔しさで安酒あおって、その勢いで文句くらい言ってやろうと思ったら、この素敵な天気だよ! ずぶ濡れんなって、自分ちの庭で説教されてる。死んだ兄貴の息子からな。なにがひでえって、俺はちゃんとわかってんだよ、自分が最低の野郎だってわかってる。そこがもう、救いようもなくひでえ。なあ、アンソニーさん、あんただってそう思うだろ?」
 突然の問いかけに、やや困惑する。確かに最低だなと思うが、本人がもう自覚しているなら、他人がそれ以上言っても意味はないだろうし──人をけなしていやな気分になるのもご免だった。廊下に立ち尽くしている私も、降りかかる雨でずいぶん濡れている。
「もはやこれまで」
 隼人が言った。
「武士の魂たる刀を売り払おうなどという者は、叔父とは思いませぬ。お帰り下さい。当家の敷居をまたぐこと、二度とあいなりませぬ」
「ああ、そぉ」
 ようやく、信夫は立ち上がる。暗いだけの空を見上げ、雨で顔を洗うようにし、次には大きく伸びをし、腰を反らせ、「わーかーりーまーしーた!」とふざけるように叫んだ。そして身体を戻すと、今度は「あはははははは!」と笑いだす。耳障りなこれは、キレ笑いというやつだろう。
「来るかよ! 二度と来るか! わかってたさ、おまえはそういう奴だ。冷たいんだ。なにが武士の魂だ。おまえなんか、魂も心もねえじゃねえか。自分勝手で、冷酷で、外面ばっかよくて、いい子ちゃんのふりした偽善者じゃねえか!」
 ……彼はいったいなにを言っている?
 私の中でも、なにかがキレたようだ。大股で、庭へと下りた。靴脱ぎ石に雨に打たれたサンダルがあったが、それを履くことすらなく、裸足のままでべちゃべちゃと芝を踏む。感情を制御するのは、脳の中でも前頭葉だと聞くが、この瞬間、私の前頭葉は怒りを制御しきれなかったらしい。だが構わない。制御する必要はないだろう。なにも言わずに立っている隼人の代わりに、今、私が怒る必要がある。
「いい加減にしたらどうです?」
 信夫の顔にライトを当て、私は言った。信夫は眩しそうに顔を歪める。
 ひどい雨に全身を叩かれたが、気にしている余裕などないほど、腹が立っていた。それでも怒鳴らなかったのは、この男にぶつけたい感情を日本語に変換する必要があったからだろう。翻訳に必要な冷静さだけは残しておかねばならなかったのだ。
「みっともない。誰が自分勝手ですって? 自分勝手というのは、自分が金に困った時だけやってきては、家の中のものを持ち出して金に換え、対策を講じられると逆ギレして台風の中を戻り、馬鹿みたいにわめき出すあなたのような人を言うんですよ」
 私の言葉に、信夫はうっとうしそうに「他人は黙ってろよ」と返した。
「そのとおり。私は他人ですが、黙っていません」
「うぜえなあ。ただの居候だろ? 外国での家族ごっこがそんなに楽しいか? ジャパンでサムライと仲良くなりました、オー、ハラキリ、ファンタスティック!って、帰ってから自慢したいのかよ?」
「……あなたという人は……」
「叔父上、お帰り下され」
 私の背中ごしに、隼人が言う。
「はいはいはい、帰りますよ」
 信夫の口調が、人を小馬鹿にしたいつもの調子に戻った。
「安心しなよ、もう来ない。もともと来たくて来てたわけじゃないしな」
 信夫は顎を上げ、雨に打たれる日本家屋を見る。その時、ふいに明かりがいた。電気が復旧したのだ。廊下の照明が庭にもいくらか届く。
 私は懐中電灯を消した。
 信夫の顔は歪み、生まれ育った家を懐かしんでいるようには見えない。
「ここが嫌いだ」
 そのセリフがもし、吐き捨てられる口調だったならば、勢いが言わせた負け惜しみに聞こえただろう。けれど信夫の声は雨のけんそうの中、かろうじて聞き取れる程度のもので、だからこそむしろ、真実味を帯びて聞こえたのだ。
「大嫌いだ。だからさっさと出ていった。それを悔やんだことはない。ほんとだぜ。金もないが、後悔もないんだよ。隼人。俺は何度も言ったよな? 早くここを出ろって。ジジイのことなんかいいから、逃げろって」
 逃げろ──その言葉に、私はどうしても思い出してしまう。隼人が、武士としてとても厳しく教育されていたことを。それは虐待といえるほどのしつけだったことを。
「でもおまえは逃げなかった。武士だからなのか、思考停止ってやつだったのか、俺にはわからんけどな。本当におまえはわからん。いったいなにを考えてるやら……そういうところは兄貴にそっくりだよ。ジイサンの言うことを聞きながら、突然消えた兄貴にな。まあ、けど、おまえはある意味兄貴を超えたよな。ジイサンに従いながら、ジイサンを嫌ってた兄貴を超えたよ。だっておまえはジイサンを──」
 雨が強すぎる。
 だから私は聞き違えたのだと思う。きっとそうだ。そうに決まっている。
 私は振り向き、隼人を見る。隼人はなにも言わない。ただ立っている。白鞘の刀を手に、雨に打たれている。白っぽい浴衣に、廊下の明かりが届いて、濡れそぼった幽霊のようだ。顔も見えたが、その目がどこを見ているのかはわからない。
「ハヤト」
 声を掛けたが、反応もない。
 叔父を見ているのだろうかと再び振り返ると、信夫の姿はもう消えていた。
 雨はやまない。どうしようもなくやまない。ほかのすべての音を、声を、消したいかのようにやまない。
 だっておまえはジイサンを
 
 聞き違いだ。絶対にそうだ。いくら信夫でも、そんなことを言うはずがない。そんな、馬鹿らしく、突拍子もないことを。
「……左様」
 もう信夫はいないのに、隼人は返事をした。
 さっきまで叔父がいた虚空を見つめ、彼は言った。

 それがしが殺したのです、と。

つづく
※次回は7月号に掲載予定です。


「カドブンノベル」2020年5月号

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◎第4回全文は「カドブンノベル」2020年5月号でお楽しみください。


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