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連載

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」 vol.10

小学生男子の身体にあったあざについて、金髪武士と話した英国紳士が新たに知ったのは。榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#3-1

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」

※この記事は、期間限定公開です。



前回までのあらすじ

日本の大学で教えるため来日した英国人・アンソニー。空港に迎えに来た青年は、キモノにカタナ、チョンマゲの武士だった! その彼・隼人が言うには「地域防犯への奉仕ならびに伝統文化の保持を目的とする新しい武家制度」として現代の武士は存在するらしい。英国紳士と青年武士の奇妙な同居生活が始まった。隼人の剣道教室を訪れたアンソニーは、生徒の小学生・宙の身体に痣があることを知るが、宙の友人の輝は、家の人がやったのではと口にする。

詳しくは 「この連載の一覧
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1.How to HARAKIRI

「イギリスの国の花って、なんすか?」
 その質問を投げかけた後、よりたかは「やっぱり、それぞれあんのかな?」とつけ足した。それぞれ、とはUnited Kingdomの構成要素である、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドをさしているのだろう。
「イングランドではテューダーローズですね」
「あー、戦争の」
「そう。赤薔薇と白薔薇が合わさったデザインで、国王の紋章にも使われています。スコットランドはアザミthistleで、北アイルランドはクローバーshamrock、ウェールズは……スイセンdaffodilだったかな……日本は菊ですか? パスポートに模様がありますね」
「パスポートはそうっすねー。でも菊はどっちかっつーと、皇室のイメージかな。やっぱ日本の花っつーと…………あ、ほら」
 ひら、ひらり。
 薄紅の花びらが数枚、伊能いのう家の庭に舞い込んできた。この庭に桜の木はないのだが、近所の公園から風に運ばれたのだろう。頼孝はそれを眺めつつ「散り盛りだよねー」と言った。
「チリザカリ……初めて聞きます。花盛り、はわかりますが」
「うん。『盛り』は『勢いがある』っていう意味なんで、『散る』にくっつけるのは、もしかしたら間違ってるかも。けど、桜って、散る時もワーッて感じっしょ? ワーッと咲いて、ワーッて散るよねー」
 なるほど、散り盛りのニュアンスが私にも伝わってきた。
 そめよしも終わろうという頃である。
 ここ数日、花冷えchilly spring weatherが続いたが、昨日からだいぶ春らしい陽気が戻った。長閑のどかな昼下がり、私と頼孝は日当たりのよい縁側に腰掛けている。頼孝は、この家のあるじである隼人はやとを訪ねてきたのだが、タイミング悪く留守だったのだ。そこで、今日は講義もない私が応対しているわけである。
「しっかし、アンソニーは日本語堪能っすよね! 難しい言葉もよく知ってるし。叔母さんが日本人なんでしたっけ?」
「そうです。叔母がロンドンに来た頃、彼女はまだ英語がそれほど得意ではなくて。子供だった私と、お互いに教え合ったり……一緒に日本の映画やドラマもよく観ましたよ」
「へー。どんなのを?」
「クロサワ、オヅ、イチカワ……」
「イチカワ?」
「コン・イチカワ。叔母がヨコミゾのミステリが好きで、その映画です。ほら、あれです、スケ……スケ……」
「スケスケ?」
「湖から脚が出てる……」
「あっ、スケキヨか! 『犬神家の一族』ね! 叔母さん……なかなかディープな趣味だなあ……」
「今回の来日が決まってからは、比較的最近のコンテンツもチェックしました」
 マグカップを持って私は言った。頼孝は客なので、カップ&ソーサーで出してはいるが、中身は同じティーバッグの紅茶だ。それからひとしきり、映像コンテンツの話になる。頼孝はTrainspottingがお気に入りだそうだ。
「いやー、しかし、ここの庭はいいっすよね~。なんか落ち着きすぎて……眠たくな……」
 言葉の途中で大あくびをする頼孝の髪が、日に透けて光る。金髪だからだ。金髪だけれど、着物にはかま。そしてかたわらに置かれた刀。頼孝は武士だ。ここの主、伊能隼人もまた、武士である。頼孝風に言えばふたりは『ブシダチ』だそうだが、隼人のほうは「そのような言葉はござらぬ」と否定していた。
 英国から訪れた私は、現代日本に生きる武家に居候している。
 他者には誠実、そして自分には厳しい隼人と知り合い、なるほど武士とはこういうものかと思ったのもつかの間、頼孝はまるで正反対のタイプだった。隼人がいつも折り目正しく張り詰めているのに対し、頼孝は自由かつたつでリラックスしている。
「ふぁ……あっ、猫ちゃん発見……にゃ~、にゃ~お~、おいでにゃ~」
 頼孝はさかんに猫を呼ぶが、すす色のそれはこちらをひとにらみしたきり、サッと物陰に隠れてしまった。私も何度か見かけているのだが、寄ってきたことはない。
「ああ……行っちゃった……」
「ハヤトにしか慣れていないようです」
「あいつ、動物には好かれるんすよねー」
「動物?」
 その『には』は限定を意味するのではなかったか。私の指摘に頼孝が「いや、えーと、つまり」と苦笑いを見せる。
「人間相手だとねえ……嫌われてるわけじゃないけど、まあ、浮くっすよ、あの性格だもん。四角四面すぎる。四角四面てわかります? 英語でもsquareって言うよね」
「言いますね。真面目すぎる、みたいな」
「そうそう。inflexibleなんすよね。融通がきかない。だから煙たがられる」
「ご近所のみなさんには好かれていますよ」
「確かに」
 ウンウンとうなずき、金髪のポニーテールが揺れる。
「このへん、お年寄り多いっすもんね。あいつ、老人と子供にはモテんだよなー。剣道教室の子も、みんな隼人のこと大好きっすもん。俺の言うことなんか聞きゃしねーの。あはは」
 笑い飛ばす頼孝は、れいな手つきでカップ&ソーサーを持つ。彼を見ていて思うのだが、口調はともかく、動作はとても洗練されている。隼人のように体軸の強い武術家的な動きではなく、育ちの良さが感じられるにゆうで優雅な雰囲気だ。
「……ソラくんの件は、ご存じですよね?」
 本当は最初に話したかったことを、私はやっと口にした。デリケートな問題だけに部外者である私が口を挟んでいいものかと迷ったが、やはり無視することは難しい。
「聞きましたよー」
 頼孝はいつもと同じ調子で答えた。
「実のとこ、今日もその件が気になって寄ってみたわけで」
「やはりそうでしたか。ハヤトがいなくて残念です」
「交番応援は、急に入るからしょうがないっすよ」
 現代武士たちは、地域の交番に協力している。地元で事件が発生した折、交番がなるべく無人にならないよう、留守番役を務めるのだ。今日は管轄内で交通事故と空き巣事件がほぼ同時に発生し、警察官がその現場に駆り出されたので、隼人に応援要請が入ったわけである。
そらのことで、あきらがここに来たんすよね? アンソニーもいたんでしょ?」
「はい。ソラくんをとても心配していました」
「あのふたりは仲がいいからなあ。お互い、子供の頃から家を行き来してるし……。今まで俺が聞いてきた限り、宙んちは暴力がありそうな感じはないんですけどね。共働きで、父親は会社員、母親はフリーの編集者なんです。確か去年まではPTAの役員もやってたはず。剣道教室にも二、三回来たことあるけど、頭の回転が速そうで、仕事もできそうなお母さんでした。もちろん、子供を虐待するようには見えなかったけど……」
 わずかに頼孝の眉が寄る。そう見えないからといって、虐待していないとは限らない──言葉にはしなかったが、そんなニュアンスが伝わってきた。
「父親の方は?」
「名古屋に単身赴任中で、時々帰ってくるみたいなこと聞いたなあ。つまり、平日は母子ふたり暮らしっすね。……輝は、なんで家の人がやったんだと思ったんでしょう?」
「ソラくんが、暴力を振るった相手をかばっているから、だそうです」
「そっか。親友の輝にも言わないってことは、そういうことになるのか……」
「ソラくんはこのあと、どうなるのでしょうか」
「今は、学校がいろいろ調べてるところだと思います」
 頼孝が袴のひざを軽く払って言った。桜の花びらがついていたのだ。
「必要があれば、児童相談所に連絡がいくはずです。児相の職員が家庭訪問をしたり、子供が危険だと判断されれば、一時的に保護される場合もあるそうすけど……現場もね、マンパワーが足りてないらしくて」
「そうですか……」
「ほんと、ヤなもんすよね……子供がたれるってのは」
 それきり、頼孝は黙ってしまう。私も次の言葉が浮かばなかった。
 風に乗ってまた桜が舞い込む。
 人は不思議だ。咲く花に心をおどらせるのも、散る花に哀れみを感じるのも、弱い者を残酷に扱えるのも……すべて人のなせる業だ。
 私を含めほとんどの人たちは、身近なか弱い者を守ろうとする。時には命をかけてそうする。だが同時に、身近ではない弱い者、窮している者、遠い外国で路頭に迷う子供たち──そういった存在は無視できる。ほんの束の間、わいそうと思い、同情し、けれどすぐ忘れる。良い悪いの問題とは別に、そうできているらしい。心を寄せ、慈しむ範囲はある程度限定されるのだ。サルが自分の群れだけを守ろうとするようなものだろうか。しょせん、我々は多少賢いサルにすぎないということか。
 私だって、遠い国の子供は守れない。せいぜいボランティア団体に寄付することで、善人ぶることができる程度だ。
 今回の件にしても、たまたま来日し、たまたま伊能家に住み、たまたま宙という子供に出会い、たまたま彼がつらい状況にあると知っただけの、つまるところ他人である。ほとんど無関係と言えるだろう。
 それでも気になってしまう。
 だってもうここは、遠い国ではないのだから。
「……あいつも」
 ぽつり、と頼孝が言う。
 けれど言葉はすぐ止まってしまい、私は隣に座っている彼を見た。頼孝は笑ったまま困っているような顔をして「隼人もね」と続ける。
「昔はあざ作ってました。顔には滅多になかったけど、腕とか脚はちょいちょいあった。じいちゃん、厳しかったからなあ。……そうそう、一度、アバラにヒビ入ってたこともあって。ここ、っすね。それこそ、稽古の時に竹刀でやられたみたいで」
 私は驚き、目をみはる。
「それは、問題にならなかったのですか?」
「うーん……当時、学校での体罰はかなり減ってましたけど、家庭での体罰は『しつけ』ってことで、今みたいに通報されたりっていうのはあんまりなかったような……それに、武家はちょっと別扱いってカンジがあって」
 武家の子なら厳しく躾けられて当たり前、多少の体罰もあるだろう──そんな風潮があったのだという。
「侍の子なら、痛くても、辛くても、我慢しろと。そうすれば強くなれる、と。意味不明な精神論すよね。けど、『武士と忍耐』って、なんかセットになってる感覚で。極端に言えば、精神を鍛えるためにあえて暴力を振るう、みたいな」
「……暴力とは、身体への脅迫です」
 馬鹿げてるThat's ridiculous!、と口走りそうな自分を抑えて、私は言った。
「脅迫で人は強くなれるものでしょうか? 心がゆがんでいくだけだと思いますが」
「ん。俺もそう思いますよ」
 すんなりと頼孝は同意する。
「だから今、なんであの頃、言わなかったのかなって後悔してます。それは躾でも鍛錬でもなく、暴力だから逃げろって……言えばよかった。隼人に。けど、俺は隼人の痣を見るたびに『やべえな』って笑うだけで。隼人はいつも『たいしたことない』って答えて……例の、なんにも感じてないみたいな顔で」
 なんにも感じてないみたいな顔。
 隼人はほとんど笑わない。嘆いたり、怒りをあらわにしたりもしない。感情表現が控えめなのは日本人の特徴であろうし、英国人もその傾向がある。無論、感情のコントロールはある程度必要だ。けれど、隼人の場合は行きすぎの感がある。彼の中に芽生える様々な感情……人として当然あるはずの心の波を、どう抑えているのか。
「俺らが知り合ったのは高校生の頃で。隼人は瘦せてたけど、ちょっと見ただけで『あ、こいつ強いな』ってわかる筋肉がついてました。実際、剣道めちゃうまかったし。で、あいつのじいちゃんはもう七十過ぎてて、だから油断したのかも、俺」
「油断?」
「どう考えても隼人のほうが強いんだから、体罰がほんとにイヤだったらなんとかすんだろ、って」
 なるほど、高校生と七十過ぎの高齢者ならば、そう考えるのも道理だ。しかし……。
「でも、そうじゃなかった」
 私が感じた懸念を、頼孝も理解しているようだった。
「その時に始まったことじゃない。ずっと以前から……隼人が子供の頃から、たぶんそんな感じだったはずです。そりゃ手加減はしてただろうけど、かなり厳しく鍛えられてたんじゃないかな。や痣も珍しくなくて、だから隼人はもうしてた。疑問を感じなくなってた。武士の子なら我慢すべきだって。そういうもんだって」
 私は思い出す。
 ここに輝が訪ねてきて、涙を流した時のことだ。隼人は言っていた。輝が泣くと、自分も悲しくなってしまうのだと。口先だけではなかった。眉を歪ませ、本当に困った顔で言っていたのだ。
 ──武士のくせに情けないと思うのだが、どうしてもそうなる。
 その時は聞き流したこの言葉も、よく考えれば奇妙だ。私から見れば、これは隼人の持つ優れた共感力、すなわち美点なのだが、隼人自身はそれを『情けない』と否定した。
「武士とは、そこまで感情を殺さなければならないのですか?」
「いやあ、そんなことも……」
「というか」
 私は身体をひねって頼孝に向き、やや前のめりに「そもそも武士とは?」と詰め寄るように聞いた。隼人に出会って以来、ずっと抱えていた素朴な疑問である。
「武士、あるいは武士道、それはなんなのですか? ハヤトに聞いてもエイコに聞いてもちっともはっきりした答をもらえないのです。正直、ずっとモフモフしているんですよ、私は! いったい武士というのは……」
「モヤモヤ、っすね」
「え?」
「モフモフはこう、犬猫とか、アルパカとか……ファーが気持ちいい感じの擬態語です。心の中が定まらず、スッキリしないなら、モヤモヤ」
「……それです。モヤモヤ」
 いくらか恥ずかしい気持ちをやり過ごし、私は「ずっとモヤモヤしているのです」と言い直した。日本の擬態語は豊富すぎて時に混乱する。
「武士とはなにか……うーん、定義が難しいんですよねー」
「定義されていないものについて考えるのは、もっと難しいのです」
「ごもっとも……。でも実際、武士つっても時代によって結構違うからなー。平安、鎌倉、戦国時代に江戸時代……どの頃の武士についての定義なのか、という」
「……そんなに違うのですか?」
「違うんすよ~。わかりやすいところで言えば、日本中で武士が領地争いをしてた戦国時代と、とくがわ幕府が天下を統一しちゃった江戸時代ではだーいぶ違いますね。主従master and vassalの関係にしても、戦国時代は強い殿様に仕えたほうが絶対お得でしょ。だから主を替えることも、裏切ったり寝返ったりもべつに珍しくはなかった。裏切りそうなヤツを嗅ぎ分けるのも、戦国武将には大切なスキルだったと思うんすよ。けど、徳川の時代がきます。二百六十年以上続いた、いわば長期安定政権っすよね。幕府に忠誠を誓わせるための、新しいルールもいろいろできました。礼節を重んじ、幕府に献身しろと。例えて言えば、会社を裏切る社員は許さないって感じっすね。そんなことしたらクビです。……あ、日本では強制的に会社を辞めさせられることをクビっていうんすけど、もしかしたらそれって『打ち首』からきてるのかなー。ひゃー、マジおっかない~」
「つまり、裏切り者は殺すと?」
「あり得ます。当時はしよはつってルールがあって、大名は一年おきに江戸に転勤だぞ、奥さんと長男は江戸に置いとけよ、勝手に城を造るな、服装ルールマジ守れ、とか……めっちゃ厳しいわけです。で、これ、罰則規定がないんすよ。このルール違反には、この罰ね、って決まってない。要するに幕府側が気分次第で……っていうか、自分らに都合のいいように決められるわけです。軽ければ謹慎とか……家に閉じこめておく、って罰ですね」
「重ければハラキリ……?」
「そうそう、切腹。でも、あれって最悪じゃないんすよ。自分の意思で死ねるからまだマシってことすね。打ち首のほうが重い罰です」
「……え? 自分で自分の腹を切るほうが、ずっと嫌じゃないですか?」
「俺は嫌です。間違いなくそっちのが嫌です」
 頼孝はすぐ頷いた。私も絶対に無理である。
「でも当時の武士は違ったってことなんじゃないのかなあ……。その気持ち、ちょっと理解できないけど。いくらかいしやくがいるとはいえ……」
「カイシャク?」
「あー、ハラキリサポーターっつーか。切腹する人の後ろで待ってるんすよ。おなか切っただけって、すぐ死ぬわけじゃないんで……長く苦しまないように、後ろから首を切ってくれます」
 私は混乱した。説明を聞けば聞くほど、切腹というのは理解の難しいシステムになっている。複雑な顔をしたであろう私に、頼孝が「や、俺も説明しててなんかすごいビミョーな気持ちになりますけどね?」とつけ足す。日本語の「微妙」はそもそも、『言葉にしがたい味わいや美しさ、おもむき深さ』という意味のはずだったが、頼孝はネガティブな意味で使ったのだと思う。
「ハラキリはなんかこう……やだよね……どう考えても無理ゲーっす。だから、江戸の中期にはかなり形式的になってて、刀の代わりにせんになったとか」
「扇子? この、あおぐ扇子ですか?」
 身振りを交えて聞くと「そうそう」と頷く。もちろん、扇子で腹が切れるはずもない。頼孝いわく、切腹する者がその扇子を手にしたのを合図に、介錯人がすぐさま首を落とす、という流れだったらしい。おうぎばら、あるいは扇子腹と呼ぶそうだ。
「形式だけの切腹ってことです。そりゃそうですよねー、いくら武士だって、自分の腹切る勇気なんかそうそうないっすよ。わかりみ深すぎる。……あれ、そもそもなんの話でしたっけ……」
「武士の定義です」
「それそれ」
 頼孝は「かくも武士の定義は難しいわけですが」と腕組みをして、少しあごを上に向けた。
「でもたぶん、隼人の中にあるイメージは江戸時代の武士なんじゃないかな、と。本人からそう聞いたわけじゃないすけど……。隼人のじいちゃんは『がくれ』を愛読してたし。江戸中期に書かれた本で、簡単に言えば武士のマナーと心構えの本、かな?」
「ちょっと待ってください。記録します」
 私は立ち上がり、一度自分の部屋に行ってノートを取ってきた。再び濡れ縁に戻り、ページを開いてペンとともに頼孝に渡す。
「ハガクレ、を漢字で書いてくれますか。さきほどのオウギバラも」
「はいはい。えーと、扇腹……。葉隠は、こう。書いた人はやまもとつねとも……いや、口述だから実際書いた人は別だけど、そっちはわかんないんですんません。わー、アンソニー、すっげ勉強してますね……」
「武士の心得とは、どんなことが書いてあるのでしょうか」
「すんません、実は読んだことなくて」
 頼孝はヘラッと笑った。口では謝ったが、少しも悪いと思っていない顔だ。
「でもすごく有名な一節があって、さすがにそれは知ってます。武士じゃなくても、日本人なら結構知ってるんじゃないかな。武士道とは死ぬことと見つけたり、ってやつです」「死? 武士の道とは、死ぬことだと発見した……と?」
 ずいぶん物騒な意見に思えるが、頼孝は「うん。そんな感じ」と軽やかに肯定する。
「あ、いや、ちょっと違うのかも? ほら、なにしろ俺読んでないんで、文脈わかんなくて。けど、その一文だけなら、そういう意味になるっすね。そんで、ほとんどの日本人もそう解釈してると思います。武士道とは、すなわち死」
「それは、死を身近なものとすることで、死への恐れをなくすということですか?」
「あっ、それいいっすね! その説明いいわ! 今後使わせてもらいます!」
「いえ、私は質問しているのですが……」
「あははー、ですよねー。でも何度も言いますけど、俺読んでなくて。読んでない日本人を代表して言わせてもらうと、アンソニーの今の説明はしっくりきますね。名誉を失うよりは死を選ぶ、みたいなノリが武士にはあるので。あ、昔の武士ね。俺はぜんぜんナッシング」
 それは信仰を失うより死を選ぶ、殉教のような心境なのだろうか。いや宗教と並列して考えるのは違う気もする。
「隼人が子供の頃からじいちゃんに言われてたのは、『義、礼、忍』だったそうっす。ジャスティス、マナー、ペイシェンスっすね。それを大事にしろと。まあ、フツーに真っ当でしょ? コリン・ファースも言ってたもんね、マナーが紳士を作るって。武士にもマナーが必須なんすね。ただ、じいちゃんの場合、その教育方法が極端だったのかなって。子供なんていろいろ間違えるし、わがままも言うし、たまには剣道だってサボりたいわけですよ。だけど隼人は許されなかった。サボったら庭で何時間も正座させられたり……」
「それは虐待です」
「同感す。でも、じいちゃんも縁側で……たぶんまさしくこのへんで、正座したままずっと隼人のこと見てたらしいんすよ。厳しかったけど、愛情がなかったわけじゃない。いや、たぶんすごくあったはず。俺も何度か会ってますけど、絵に描いたような頑固ジジイでね。けど、剣道の大会で隼人が勝つと、そりゃもう大喜びで……。隼人がインフルエンザで寝込んだ時は、徹夜で看病して、結局自分にインフルがうつって入院したりね。隼人を本当に大事にしてた。隼人もそれはわかってて……だからじいちゃんに逆らえなかったんじゃないかな」
「ほかのご家族は、なにも言わなかったのでしょうか」
「んー……ばあちゃんはじいちゃんに従う、って感じでしたね。隼人の父親は、若いうちに亡くなったみたいです。その後、母親もいなくなったらしくて……両親のことは、俺もあんまり聞いてません。聞かれたくなさそうだったから」
 ならば、子供だった隼人を守ってくれる大人は誰もいなかったことになる。
 私は重苦しい気分になった。確かに、隼人の祖父は隼人を愛していたのだろう。隼人もまた、祖父を愛していたのだと思う。だからといって、子供が庭で何時間も正座させられたり、痣ができるような体罰があっていいはずはない。愛があるぶん厄介とすら言える。子供はますますそこから逃げられなくなるからだ。
「……おじいさんは、しばらく前に亡くなったんですよね?」
「そう。二年前かな。その何年か前からもう寝込んでて……隼人は献身的に面倒をみてました。この家、ひとつだけ洋室があるでしょ?」
「ええ」
「そこ、じいちゃんの部屋だったんすよ。ベッドじゃないと介護が大変だから、和室だったのを改装したんです」
 今は使われていない一室にそんな経緯があったとは、まったく知らなかった。隼人の祖母は、祖父よりさらに数年前に病気で亡くなっているそうだ。
「じいちゃんが病気になってから、俺が会ったのは二、三回ですかね。頑固ぶりは健在で、金髪頭を散々叱られました。のぶなが公がお嘆きになる、とかね。そういうこと本気で言う人で……」
 小さく笑った頼孝が、「根はすごく優しかった」と続けた。
 頑固で、昔気質かたぎで、孫が武士になることにこだわり、厳しい教育をした……そんな祖父が亡くなってしまった時、隼人はどれほどの孤独に襲われただろう。祖母も父もなく、母とも連絡を断ち、この広い家でたったひとり──。
「なんだかんだでじいちゃん子だったんすよ、あいつ。だから今でも、じいちゃんの理想の武士であろうとしてるんじゃないかな。じいちゃんの教育法には問題があったと思うけど……結果だけ見たら、成功と言えるのかなあ? あいつ、時代錯誤なほどのザ・武士になりましたもん。武士仲間の中には、隼人のこと笑うようなヤツもいますけど……俺は隼人のこと、好きなんで」
 はっきりとした最後の言葉に、私の重い気持ちがいくらか回復する。隼人はよい友人を持っているし、慕ってくれる子供たちもたくさんいるのだ。
「ええ。彼はとてもよい人間です」
 そして、私もまた、隼人のことが好きだ。
「そっすよね」
「そっす」
「んー、アンソニーは普通にしやべったほうがいいっすよ」
 にこやかに指摘されてしまい、「はい」と答えるしかなかった。ちょっとスラングも使ってみたかったのに……。
 紅茶のおかわりを勧めた私だが、頼孝は夕方から所用があるとのことで帰っていった。ほとんどすれ違いで隼人が戻ってきて、頼孝のことを告げると、
「それがしに代わってお相手いただき、ご苦労をおかけいたした」
 と丁寧に礼を言われた。
 電話があったのはその晩のことだ。
 もり宙の担任、なか先生からだった。

#3-2へつづく
◎第 3 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!


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