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連載

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」 vol.11

男子生徒の家を訪ねるという武士に、英国紳士はある思いで同行することに。榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#3-2

榎田ユウリ「武士とジェントルマン」

※この記事は、期間限定公開です。

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2.SORA is under the SKY

「本当に行くのですか?」
「はい」
 隼人の返答はいつも短い。
 端的でよいと言えばよいのだが、正直なところ情報不足でもある。なにをするために行くのか、それは有効なのか、むしろ悪い結果が導かれたりはしないのか……私のそういった懸念はちっとも解決されない。
 隼人が行こうとしているのは、森田宙の自宅だ。
 昨日の夜、田中先生が電話をくれた。先生は宙の母親に連絡を取り、学校で面談をしたそうだ。母親は忙しい中、すぐに駆けつけた。そして、宙の身体に痣があると聞いて驚き、ずいぶん自分を責めていたそうだ。
 ──私が最初に気がつくべきでした。
 厳しい表情でそう話していたという。
 ──このところ仕事が忙しく、ほかにもいろいろと……でもそんなことは言い訳になりません。母親が子供の痣に気がつかないなんて……。私は宙を、なるべく自分のことは自分でできるようにと、育てました。実際、大人しいけれどしっかりした子になってくれて……そんな息子に甘えていたんだと思います。
 田中先生は母親を慰めながら、心当たりはないか聞いた。
 ──お恥ずかしいことですが、わかりません。学校のお友達とは仲良くやっていると思っていました。輝ちゃんや、ほかのみんなとも……。
 最近行き始めた塾も、本人が行くのを嫌がってる様子はないという。母親が仕事で遅くなる日も多く、宙は子供用の携帯を持たされており、メッセージのやり取りはまめに行っているとのことだ。
「ソラくんのお母さんは言ってたそうですね、しばらくは残業を控え、なるべく息子と一緒にいるようにすると」
「はい」
「タナカ先生も、引き続きソラくんを注意深く見守り、現時点では児童相談所への報告はしないでおくと」
「はい」
「ハヤトは、その判断に問題があると考えているわけですか?」
 私の問いに隼人は「左様なことはござりませぬ」と返す。
「田中先生の判断に異を唱えるつもりはなく……ただ、それがしは自分の目で確認しておきたいだけです」
「なにを確認すると?」
「それは……宙が……いや、宙の、暮らす環境……」
 言葉は続かない。どうやら自分の中でも、考えがまとまっていないらしい。
「しばらくしたら、タナカ先生が家庭訪問する予定だと話してましたよね」
「いかにも」
「それを待てないということですか? ハヤトが心配する気持ちはわかりますが……突然訪問されたら、ソラくんのお母さんはびっくりするのでは。予告なしに行けば、まるで疑っているかのように思われるかもしれません」
「ならば、きちんとご理解いただけるよう、説明いたしまする」
「どんなふうに?」
「それは」
 隼人は私に説明を試みようとしたらしいが、やはり言葉は続かなかった。視線が彷徨さまよい、彼の中の戸惑いが透けて見える。宙の痣が竹刀の痕と考えられることから、隼人が強い責任を感じているのはわかる。彼としては、いてもたってもいられないのだろう。一刻も早く原因を突き止め、解決したい、その気持ちも理解できる。しかし……。
「……私も同行していいですか?」
 思いきって、言ってみた。
「アンソニー殿?」
「ソラくんの家族が嫌がったならば、私だけ帰ります。ですが、もし許してもらえたら……ハヤトの通訳として、一緒にいたいのです」
 隼人は「通訳?」と語尾を上げた。
「それがし……英語を使うつもりはござらぬが……」
「もちろん日本語で話すでしょうね」
「ならば通訳とは?」
「きみはしばしば、言葉が少なすぎるのです」
 隼人が気分を害する可能性もあったが、ここはどうしても説明する必要がある。この家に来て以来、それはずっと感じていたことだった。
「もちろん、それが悪いわけではありません。よく考えて発言し、言葉を無駄にしないという考えからなのでしょう。あるいは、武士はお喋りではいけないというルールがあるのか……ヨリを見ているとそうは感じないのですが……とにかく、たくさん喋ればいいものではない。けれど、ハヤトはちょっと少なすぎます。そもそも、自分の考えていることを説明するのが、得意ではないのでは?」
「……いかにも」
 ほら、こんな時の返答すら最低限だ。ほかに言いたいこともあるだろうに。
「ですから、私が通訳というか……補足するのです。ハヤトが言いたいけれど言えない部分をつけ足し、聞きたいけれど聞けないところを聞きます」
 珍しく隼人の顔にわかりやすい表情が浮かんだ。明らかにげんな顔をしている。
「異なことを……アンソニー殿は、それがしの考えが読めるというのですか」
「まさか。人の考えていることはわかりません」
「では、どのようになさると」
「ハヤトが心の奥でなにを考えているかは、さっぱりわかりません。それでも、ある決まった状況で、目的がわかっているのなら、きみの言いたいことは予測が可能です。今回ならば、ソラくんが誰かに暴力を振るわれているらしい、という状況。きみはソラくんを心配していて、なんとかその暴力から助けたい、というのが目的。違いますか?」
「……ご明察です」
「ありがとう。ちなみに私は、人になにかを説明したり、理解させたりすることに、それなりのスキルを持っています。一応大学講師ですので。無論、たかだか居候の私が、こんな提案をするのは図々しいのでしょう。余計なお世話、というやつかもしれません。なんでこんなことを言い出したのか、自分でも少し驚いています。いや、少しではないかな。だいぶ……とても……チョー? とにかくAny way私っぽくないit's very unlike me
 思わず、母国語も出るというものだ。
 英国にいる頃の私ならば、こんな提案はありえなかった。無口で説明や説得が苦手なタイプは、英国人にだってたくさんいる。そういう知人を積極的にサポートしようと思ったことはないし、むしろそれはおせっかい、あるいはおこがましい行為だと思っていた。今も思っている。思っているのに、やろうとしている。
「ですが……私も、その、心配なのです」
 焦り、臆する自分を強引に無視した。
「ソラくんのことが」
 つぶらな瞳の少年。宙は私に教えてくれた。武道において、力以上に大切なのは礼だと。
「左様にござりましたか」
 隼人がまとっていた怪訝な空気はもう消えていた。
「宙を気に掛けていただき、感謝いたしまする。しからば、ご同行くだされ。あの日、アンソニー殿も体育館にいらしたのですから、まったく無関係でもないかと」
 私は頷いた。隼人の対話スキルも気掛かり、という理由もあるわけだが、そこはわざわざ言葉にしなくていいだろう。
 かくして、隼人と私は宙の家へ向かうことになったのだ。

 武士は忍耐強い。
 現在、私はそれを実感しているところである。
 森田宙の一家が住まうのは、比較的最近建築されたと思われる集合住宅だった。一階の共用エントランスにはオートロックの操作盤が設置されている。部屋番号を入力し、相手の応答を待って、自動ドアのロックを解除してもらうわけだ。
 隼人は森田家の部屋番号を入力したのだが返答はなかった。
 しばらく待って二回目を押す。やはり返答はない。平日なので宙は学校に行っているだろうし……そういえば、母親も働いていたはずだ。ここに来るまで思い出さなかった私もだいぶかつだが、三回目の入力をしている隼人も、それを考えなかったのだろうか。
「あのー」
 遠慮がちな声に振り向くと、宅配便の業者が荷物を積んだカートのそばに立っている。隼人が「御無礼」とすぐに操作盤の前から退いた。宅配業者は会釈をしつつも隼人を見て(わあ、武士だ)という顔をし、その後私のほうもチラリと見て(なぜ外国人と?)という顔になる。それから何軒かの部屋番号を次々に押し、荷物を届けに行く旨を伝える。ひととおりの連絡を終えると、宅配業者は「ありがとうございました」と頭を下げて先に居住区域に入っていく。
「ハヤト、今なら入れます」
「なりませぬ。それではこの警備システムが意味をなさぬゆえ」
 隼人の言うことはもっともだが、私たちはべつに怪しい者ではなく……などと思っている間に扉は閉まってしまう。
 四回目。応答はなし。
 五回目のあと、私が「留守なのでは?」と言うと、隼人は「そうかもしれません」と頷いた。しかしすぐに「今一度」と、いらつく様子もなく、淡々と、同じテンポで数字を押す。忍耐強いを通り越し、そろそろ諦めが悪いになりつつあった。無理を言ってついてきたのだし、気の済むまでつきあおうと私は黙って待つ。住人らしい母子連れが出てきて、怪訝な顔をされたが、気がつかないふりをした。
 もう何回目なのかわからなくなった時である。
 絶対留守だ、という私の確信を裏切るように『うるさい!』と苛烈な応答があった。怒号と言っていいだろう。私は驚き、反射的に一歩退いてしまったほどである。
『うるさいうるさい! 昼寝もできないだろうが!』
 少しれた、男性の声だ。
「幾度にもわたる呼び出し、ひらにご容赦」
 隼人が答え、カメラのレンズに向かって一礼した。私も慌ててするが、撮影範囲の外にいたかもしれない。
『まったくだ! しつこいんだよ! うるさいったらない! なんのセールスかしらんが、開けるつもりは…………うん?』
 そこまで怒らなくても……という激しい声のトーンが、最後にやや落ちる。
『そのかつこう……あんた、侍か?』
「いかにも」
『本物か? こすぷれい、とかいうやつじゃないだろうな』
「それがし、宙に剣道を指南している者にて、伊能いのう長左衛門ちようざえもんはやひとと申しまする」
『おお、宙の師匠か!』
 声の調子はすっかり変わり、自動ドアが低くうなって開いた。どうやら我々は受け入れられたらしい。エレベータを経由し、目的の部屋へと向かう。部屋のベルを鳴らすより早く扉が開き、高齢の男性が顔を見せる。
「なるほど、侍!」
 もちろん、隼人を見ての言葉だ。笑顔には歓迎の意があふれていた。だが次に私を見てやや警戒するように眉を寄せる。
「こちら、アンソニー・ハワード殿でござりまする。大学の先生として来日され、それがしの家に滞在しておられます」
 隼人が紹介してくれたので「はじめまして」と挨拶をした。私が日本語を喋れることに安心したのか、表情が少し和らぐ。骨っぽく瘦せた老人だが、血色はよく、声もしっかりしていた。厚みのある、キルティングに似た生地の上着を着ている。
そつながら、本日は宙についてお伺いしたきことあり……」
「まあまあ、ふたりとも、入りなさい。宙もしばらくしたら帰ってくるだろう」
「されば、お邪魔いたしまする」
 私たちは好意的に部屋に通された。最初の反応から考えれば、奇跡のような展開だ。この老人は宙の祖父……あるいは曾祖父とも考えられる。父親は単身赴任中で、母親とふたり暮らしだと聞いていたのだが、最近状況が変わったのかもしれない。
「いやあ、本当に、ちゃんと侍なのだなあ」
 リビングルームに通され、隼人はしげしげと観察されていた。老人の声はとても大きく、恐らく耳が遠いからなのだろう。
「うん、よいものだなあ。花は桜木、人は武士!」
 どこかで聞いた気のするフレーズだ。
さかやきらないのかね」
「剃ってもよいのですが、存外手入れが大変なのです」
「そうかそうか、まめにカミソリを当てなきゃいかんもんなあ。うん、やはり侍はいい。まず姿勢がいい。姿勢がまっすぐならば、心根もまっすぐというものだ。宙にもいつもそう言い聞かせている。ああ、いまお茶を。おい、おい、母さん」
 キッチンに向かって彼は誰かを呼んだ。この場合の『母さん』は誰を示すのだろうか。彼自身の母親ではないだろうから、妻か、あるいは宙の母親か。このように日本人は家族を名前で呼ばない場合が多く、私はしばしば混乱する。
 キッチンはしんとして、返事はない。
「おっと、母さんはいないんだったか」
 彼は小さくつぶやいて、自ら立ち上がる。膝が悪いのか、立った瞬間少しよろけたが、すぐにシャンと持ち直した。シンクで小振りなティーポットを使い、私たちに日本茶を持ってきてくれる。
「姿勢がまっすぐならば、心根もまっすぐだ。うん」
 さっきと同じことを言い、さらに「剣の道もまっすぐに進まねば」と隼人を見る。
「自己紹介せんとな。森田よしのり、宙の祖父だ。孫は一生懸命やってますかな」
「宙は熱心に稽古しております」
 隼人の返事に、彼は満足そうに頷く。
「そうだろう。あの子はいい子でな。何事も真剣に取り組む。母親が甘やかすせいか、ちょっとばかり気の弱いところがあるが……まあ、それも時代なんだろう。だからな、俺がここに来てからは、稽古をつけてやっとるんだ」
ぜんが、稽古を」
「実はこのじい、有段者でな。ははは。昔取ったきねづかとはいえ、孫に教えるぐらいならばまだまだ。ちぃと膝が痛むが、そこは精神力よ」
なにとぞご無理をなされぬよう」
「なに、我慢は慣れておる。我々ぐらいの年代は、剣道か柔道のたしなみぐらいは皆あってな。しかも荒っぽい稽古をつけられたもんだ。それを乗り越えて、剣も心も強くなったわけよ。……とはいえ、孫はわいくてな。そう厳しくは教えられん。ははは」
 彼はご機嫌な様子で笑い、隼人は無言で頷く。
「宙はな、待望の初孫だったんだ。うちはねえ、上の息子が早くに死んでしまってな……下のが、つまり宙の父親だが、これがなかなか結婚しなくて。やっと見つけてきた嫁さんは結構いいとしだったから、ここだけの話、孫を持つのは諦めかけとったんだよ。宙が生まれた時は嬉しくてなあ。家内と一緒に飛び跳ねたもんだ。なあ、母さん?」
 彼はまた誰もいない方向に向かって声を掛けた。そしてすぐに「あ、いないんだ。つい忘れちまう」と照れ笑いを見せる。
「いつからこちらにお住まいなんですか」
 私はそう質問してみた。
「うん、ついこの間でね。地元を離れるのは嫌だったんだが……知り合いもみんな向こうだしな。だが、ぜひ来てくれって言われてな。宙に剣道を教えてやってくれと」
「奥様もご一緒に?」
「いや、実は家内は去年死んだんだよ。……おととしだったかな? なのに、いまだにいるような気になる時がある。とにかく先に逝っちまって。俺はなんでもひとりでできるから不便はないんだが、寂しくないと言ったらうそになるかねえ。だから孫につられてここに来たわけだ」
「そうですか。ソラくんとは毎日剣道のレッスンを?」
「だいたいな。俺ももう八十を越してるからな、なかなか骨だよ」
「……ホネ?」
「おっと、わからないか。骨だ、ってのは疲れる、って意味でね。骨が折れる、なんて言い方もある。ほんとに骨折するわけじゃなくて、するくらい大変だってことだね」
 なるほどbackbreakingのような言い回しだろう。
「しかしあんた、日本語上手だねえ」
「ありがとうございます」
「アメリカの人かい?」
「英国です。……私もこのあいだ、剣道教室を見学し、ソラくんに会ったのです。とても礼儀正しいお子さんですね」
「礼儀、うん、礼儀は大切だといつも教えている」
 彼は腕組みをし、ウンウンと深く頷いた。隼人は彼から視線を外し、菓子の散らかったダイニングテーブルを見つめていた。そこに立てかけた古い竹刀がある。サイズからして、宙のものではなさそうだ。
「私はその後会ってないのですが……ソラくんは元気にしていますか?」
「元気だとも」
 ためらいなく、即答だった。そんなはずはないのだが……この祖父は、孫になにが起きたかを知らないのだろうか。あるいは、宙が無理をして元気に振る舞っているのか……。
「子供は元気なのが一番だ。宙もなあ、もう少しわんぱくなぐらいでいいんだが。母親が甘やかすから、大人しすぎるところがある。まあ、優しくもあるが」
「優しいことは素晴らしい長所です。ハヤトもそう思うでしょう?」
 私の言葉にひとつ頷き、隼人は「……宙との稽古はいかような?」と質問した。
「うむ。基本がなにより大事と考えている」
 老人はそう答えた。ほほが少し赤らんでいるのは、暑いからかもしれない。
「素振りをよくさせるよ。あの子は軸がまだ弱くてグラつくことが多いから、そこを鍛えんといかん。最近の子は昔のように外で走り回って遊ばんからなあ。あの子はもう少しわんぱくになってくれるといいんだが。私が子供の時分は、それこそずっと走り回ってたもんだ。あれがいけないんだ。ゲームな。ゲームとスマホ、か。あれが日本人をどんどんダメにしてる」
 しばらく彼は、今の日本がいかにだめか、昔はどれほどましだったか、孫のこと、息子のこと、剣道のこと──それらを熱心に語った。話の内容はしばしば前後し、繰り返しも多い。けれど生き生きと嬉しそうでもあり、とても口など挟めない勢いだった。
「それでな、息子は剣道をやめると言い出して…………おっと、お茶がすっかり冷めてるな。おい、母さん……」
「いえ──いいえ、もう」
 隼人はいとまを言い出そうとしていたようだが、途中で言葉が詰まった。彼に代わり、私は意識的に明るい調子で「ああ、そろそろ行かないと」と笑みを作る。
「残念ですが、このあと用事があるのです」
「そうなのかい?」
 隼人が黙って頷く。
「残念だな。またぜひ来てくれ。母さん、お客が帰るそうだぞ、おい……」
 奥の部屋に、誰かを呼びに行こうとする。私は慌てて「大丈夫ですから、もう、行きますので」とそれを止めた。隼人は無言のまま、丁寧に頭を下げる。
 また来てくれ、きっとまた──老人は繰り返し私たちに言った。
 マンションを出た私たちは、しばらく無言で歩いていた。
 恐らく、隼人は私と同じことを考えているはずだ。けれど、それは口に出していいものだろうか。私は迷う。他人が口を出すには、あまりにデリケートな問題だったからだ。
 日が落ちようとしている。
 空はオレンジの光に満ちて美しく、けれど私の心は重かった。その光の中を走りながら近づく小さな姿が見える。逆光で最初はわからなかったのだが、走っているのは宙だった。先に私たちを見つけたのだろう。息を弾ませ、隼人の前で止まる。その瞳はまっすぐに隼人を見上げていた。
「うちに、行ったんですか?」
 宙の質問に、隼人は頷いた。
「じゃあ……おじいちゃんに会いましたよね……」
 隼人はまた頷き、宙はうつむく。その反応は、残念なことに私の懸念を裏付けていた。
 隼人がゆっくりかがみ込み、目の高さを宙と合わせる。
 けれど宙は下を向いたままだ。隼人は声をかけなかった。恐らく、宙のほうから話したくなるのを待っているのだと思う。私も立ったまま待った。犬の散歩をしている人がチラリと我々を見る。俯いたきりの子供と、屈んでいる武士、手持ち無沙汰の外国人という取り合わせなので、気になるのも無理はない。
 相変わらず、隼人は黙している。忍耐強く。
 それは武士の美点かもしれないが、今の状況ではどうだろうか。宙はまだ子供で、自分の思いを言葉にする能力が高くない。大人でもそれを得意としないタイプの人間は珍しくなく、まず間違いなく隼人もそのたぐいであり……そうするとふたりでずっと黙り続けていることになってしまう。
 子供に、語りたくないことを語らせるのは忍びない。けれど、この子の心身に危機が迫っている可能性があるのだとしたら、そうも言っていられない。宙が現状を自ら訴える時を待っていたら、手遅れになるかもしれないのだ。
「ソラくん」
 だから私が口を開いた。宙はおずおずと私を見る。
「夕焼け、綺麗ですね」
「……うん」
 宙が空を見る。オレンジ色はさっきよりだいぶ赤みを増していた。
「きみが今見ているのはSORA。そしてきみの名前もSORA。私は漢字について調べてみたのですが、きみの『宙』はこの『空』よりさらに大きい……宇宙、という意味なのですね。とてもいい名前です」
「……ありがとう、アンソニーさん」
「誰がつけてくれたのですか?」
「お父さんとお母さんが……でも最初はふつうの『空』にするはずで……でも、おじいちゃんが、もっとおっきいのがいいって……だから……」
「そうでしたか」
 宙の影が長い。私の影も長い。
「……おじいさんに、撲たれたんですね?」
 できる限り静かな声で、私は聞いた。
 宙は強い子だった。私から目をらすことなく頷いて、その瞳に涙の膜を作りながら「でもね」と上擦る声を出す。
「病気なんだ。おじいちゃんは、歳を取って……だからそういう病気になっちゃった。ふだんは、平気なんだ。いつもの優しいおじいちゃんだよ。でも、たまに……本当に、すごくたまに」
 感情が暴走し、とくに怒りのコントロールが難しくなるのだろう。
「剣道を教えてもらってる時は、撲ったりしないよ。おじいちゃんも剣士だったんだ。だからそんなこと絶対にしない。でも、このあいだ、学校から帰ったら……」
 きっかけは、宙にもわからないそうだ。
 祖父はとても興奮していて、怒鳴って竹刀をふりまわし、部屋の中をめちゃめちゃにしていたという。祖母の遺影を覆うガラスフレームが割れ、裸足はだしの祖父が踏みそうになっていた。宙は驚きながらも、必死に止めようとした。その時に、竹刀が身体に当たったのだ。
「わざとじゃないんだ」
 涙声で説明しながら、宙は祖父をかばった。
 聞いているこちらの胸が痛くなる。竹刀を当ててしまった祖父のほうも動揺したらしく、そのままどこかへ行ってしまい、戻ってきた時にはもう普通だった──宙はそう教えてくれた。
「その一度だけなんだ、ほんとなんだ……だから……ぼくが言わなければ……なにもなかったことになるから……」
 涙が柔らかな頰を伝う。
 インターフォンに出た時、宙の祖父は激高していた。
 初夏を思わせるほど暖かい日だというのに、厚着をしていた。
 髪やひげの手入れはされておらず、部屋の中に散らばっていた脱ぎっぱなしの服は、女性のものでも、子供のものでもなかった。死んでしまった妻を何度も呼び──出してくれた茶はほとんど味がなかった。水道の水をティーポットに入れているところを、私は見た。
「そう。病気のせいです」
 亡くなった祖母を思い出しながら、宙に言った。晩年、祖母の認知症は進み、一番のお気に入りだった孫の私が見舞うたび「はじめましてHow do you do?」と言ったものだ。
「病気なのだから、お医者さんに話さなくては」
「……でも、治らない病気なんでしょ」
「完全に治す薬はありませんが、助けになってくれるはずです」
「おじいちゃん、病院には絶対行かないって。お母さん、それですごく困ってて……毎日ため息ばっかりになっちゃって……お父さんはいないし……」
「困りましたね。とても難しい問題だ。だからこそ、誰かに相談しないと」
「相談……」
 宙の声が不安げに揺れる。いまだ屈んでいる隼人を見る。隼人は眉根を寄せた怖い顔で頷いた。それから両腕を宙に向かって広げる。宙はちょっと戸惑い、だがおずおずと隼人により近づいた。
 がばり、と隼人が宙を抱きしめる。
 わ、と小さな驚きの声がした。隼人は怒ったような顔のまま膝を地につけ、ほかにできることなどなにもないかのように、腕に力を込める。宙はいきなりのことに戸惑っていたようだが、やがて気恥ずかしそうに、それでも隼人の背中に腕を回した。怒りのせいか、あるいは悲しみか、隼人の身体がひどくこわばっているのが私にもわかる。
 すると、小さなふたつの手が、その背中をさすった。
「だいじょうぶ、だから」
 言ったのは、隼人ではなく宙のほうだった。

#3-3へつづく
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「カドブンノベル」2020年1月号


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