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連載

湊かなえ『ブロードキャスト』 vol.1

湊かなえ初の試み!『ブロードキャスト』を期間限定で全文無料公開!#1

湊かなえ『ブロードキャスト』

新型コロナウイルスの影響で、長い期間外出を控えて過ごす多くの方に向けて、湊かなえ著『ブロードキャスト』を期間限定で全文無料公開! 高校放送部を舞台に熱き人間ドラマを描いた著者初の青春小説で、素敵な読書体験をお過ごしください。毎日朝と夕方の2回、10日間かけて公開していきます!

 ◆ ◆ ◆

序 章

 中学三年生、最後の全国大会へと繋がる駅伝の県大会で、一位のチームに一八秒差で負けたことが、その時点での僕の、人生において一番悔しい経験となった。
 三区を走った僕は、一位でタスキを受け取り、その順位をキープしたまま、四区の選手に繋いだ。タスキを渡したと同時に、役割を果たせた達成感が込み上げてきたのに、最終走者が二位でゴールした瞬間から、もしも、もしも、の後悔が始まった。
 コースは三キロメートル×六区間。一人があと三秒ずつタイムを縮めていれば、とまず悔やんだ。無謀な「もしも」ではない。全員が自己ベストを更新した地区大会の記録を出せていたら、一八秒の差を縮めるどころか、一分以上の差をつけて優勝できていた。
 僕のタイムは、自己ベストを五秒下回っていた。だけどそれは、自己ベストに次ぐ好記録で、自分としては、走り慣れないコースでなかなかいいタイムを出せたと、満足さえしていたのだ。
 多分、他のメンバーも僕と同じようなものだったはずだ。誰かが特別、不調だったわけではない。言いかえれば、皆がそれぞれあと三秒速く走るということは、決して不可能ではなかった、ということだ。僕を含め、走ったあとに、倒れ込み、自力で起き上れなかったヤツもいない。
 そういうことを、自分の頭の中では、何周も思いめぐらせているのに、顧問やチームのメンバー以外のヤツから言われると、はらわたが煮えくり返るような気分になる。
 帰りのバスの中で、座席から後頭部だけ見えているおっさんが、同様のことを言っているのを聞いたとき、ギュッと胸の中心を掴まれたように息苦しくなり、嫌な味のつばが込み上げてきた。
 応援に来ただけのおっさんがわかったような口を利くな。秒単位の差など、誤差の範囲のようなもので、ゴール手前で死ぬ気でダッシュすれば巻き返せたかもしれないのではないか。などという台詞は、自分が走ったあとの口で言ってみろ。
 そう誰かが言ってくれるといいのに、と周りを見ると、通路を挟んでおっさんの隣に座っていた、山岸良太と目が合った。
 酷いよな、というように、おっさんの方に顎をしゃくってみせると、良太は僕に、ゴメン、というふうに片手を上げて、おっさんの方を向いた。
「父さん、やめてよ」
 良太のお父さん? 息子に注意されたおっさんは、バツが悪そうに咳払いすると、腕を伸ばしてわざとらしく欠伸をしてから、静かになった。寝たふりをしたのだろう。
 良太はもう一度、ゴメン、というふうに僕の方を見たけれど、僕は首を小さく横に二、三回振るしかなかった。
 良太のお父さんなら、先の言葉を口にする権利がある。今日の結果を悔しがる権利が、充分にあるからだ。
 そこで、別の「もしも」が浮かぶ。
 首を伸ばして、最前列の席に座っている陸上部顧問の村岡先生に目を遣った。だけど、帽子をかぶった後頭部だけでは、どんな表情なのか想像することができなかった。
 先生の頭の中に「もしも」はないのだろうか。後悔していないのだろうか。
 もしも、山岸良太を出していたら、と。

 良太は一年生のときから、陸上部で、長距離部門のエースだった。
 僕と良太は、小学校は別だったけれど、市の陸上大会で何度か一緒になることがあった。三〇〇メートルのトラックを五周する一五〇〇メートル走で、二位の選手に、周回差をつけて優勝するヤツ。
 ハンディビデオを片手に、いつも大会を見に来ていた僕の母さんは、良太のことを「カモシカくん」と呼び、彼が出る種目も、毎回録画していた。息子だけでいいだろ、とあきれながらも、再生動画に引き込まれるのは、僕の方だった。
 良太の走る姿を見ていると、なぜか「サバンナの風」という言葉が浮かんでくる。アフリカに行ったこともないし、どんな風が吹くのかも知らない。ただ、こんなふうに走ることができたら気持ちいいだろうな、と僕は良太のフォームを頭の中に焼き付けていった。
 一〇〇メートル走で調子がよければ三位の賞状をもらえる程度の僕など、良太の視界の端にも入っていないはずだと思っていた。
 市立三崎中学に入学し、先に声をかけてきたのは、良太の方だった。
 ――町田圭祐くんだよね。陸上やってた。放課後、一緒に部活見学行こうよ。
 驚いた僕は、「ああ」だか、「うん」だか、歯切れの悪い返事をしただけだ。
 いや、僕の足の速さだったら、陸上部でそれほど活躍できそうにないから、テニス部かバスケ部に入ろうと思ってるんだけど……、などと脳と口が直結していないタイプの僕は、突然の出来事に対して、思ったことを口にできたためしがない。
 そのうえ、憧れている相手から声をかけられたのだから、しばらく考えたあとでだって、否定の言葉など返せるはずがない。
 そう、僕は良太に憧れていたんだ。
 だから、誘われるまま陸上部の見学に行き、その日のうちに入部を決めた。普段、学校での出来事を母さんに報告することは、あまりなかったけれど、このことだけは、夕飯時に自分から話した。
 ――そういう出会いは大切にしなきゃね。
 母さんは、まるで僕が芸能人と知り合いになったかのように喜んだ。
 ――でもさ、陸上部って、他の部活に比べて保護者会が多かったり、試合の送迎なんかもしなきゃならないらしいよ。
 我が家は母子家庭だ。父さんは僕が小学校に上がる前に病死した。それ以来、看護師をしながら一人で僕を育ててくれている母さんに、部活のことで負担はかけたくなかった。
 ――大丈夫、そういうところに顔出して、知り合いをたくさん作っておいた方が、受験のときとかに、いろいろ教えてもらえて助かるでしょう。
 それまで、母さんの口から、ママ友やランチ会の話題が出たことはなかった。
 ――じゃあ、入部届を出すよ。まあ、うちの学校が強いのは、駅伝とかの長距離部門らしいから、僕が遠征に行くことはほとんどないだろうし、車は大丈夫なんじゃないかな。
 僕は短距離をするつもりでいたのだ。
 得意、不得意、というのは自分で判断するものではないのだと、僕はこのあとで知る。
 陸上部に入った最初の半月は、専門種目を定めるため、男子一二名、女子一〇名の新入部員は、短距離、長距離、跳躍、投擲、すべての種目の測定を行った。
 新入部員の中には、自分はこの種目がやりたい、と顧問に自己申告するヤツもいたけれど、僕はしなかった。一〇〇メートル走のタイムが新入生の男子の中では一番よかったため、短距離部門に選ばれることを、信じて疑わなかったのだ。
 だから、顧問の村岡先生が「長距離部門……」と、まず、三〇〇〇メートル走の測定で圧倒的に一位だった良太の名前を挙げ、次に二位だったヤツの名前を、そして、三番目に僕の名前を挙げたときには、同姓同名のヤツでもいただろうか、と左右に首を振り、確認してしまった。
 しかし、町田圭祐は僕一人だけだった。
 長距離部門に選ばれた男子は四人。村岡先生が他の部門を発表しているあいだも、何かの間違いではないかと考え続けていた。僕は三〇〇〇メートルの測定で四位だった。三位だったヤツは、一〇〇メートルのタイムが僕より遅い二位だったのに、短距離部門で名前を呼ばれた。
 そもそも僕は長距離走が苦手だと自分で思っていた。小学校のマラソン大会でも、前半は上位につけていても、後半になると、ガクッと順位を落としていたものだ。
 スタミナ不足、と母さんに言われたことがある。これは、看護師として何か根拠をもって言ったのではなく、単に、牛乳嫌いの僕に、毎日飲ませるための口実にしていただけのはずだ。けれど、確かに、小学校の陸上教室で、僕は誰よりも先にへばっていた。
 測定は二年生の先輩がしてくれていた。記録票に記入ミスがあったのではないか。その結論に達し、部活終了後、村岡先生を追いかけた。自分から教師に話しかけたのは、このときが初めてだったのではないか。
 ――先生、僕、短距離の記録の方がよかったですよね。
 おそるおそる、そう訊ねた。
 ――確かに、今回の記録は短距離の方がよかったけど、町田の走り方は長距離ランナー向きなんだよな。
 村岡先生は一歩下がると、僕の頭の先からつま先までをサッと眺めて、そう言った。記録ミスではなかったようだ。だけど、とすぐに思った。
 僕が長距離向きに見えたのは、三〇〇〇メートル走をする際、僕の走り方が良太を真似たものになっていたからではないか。故意にではない。母さんが撮った良太のビデオを見ながら、こんなふうに走りたい、と頭に焼き付けた姿は、本人の背中を追ううちに、自然と自分の姿と重なり、再現できてしまったのではないだろうか。
 しかし、そんな説明をする前に、村岡先生はこう続けた。
 ――町田がどうしても短距離をやりたいっていうなら、そっちでもいいけど。山岸良太も入部して、うちの部で全国を目指せる団体種目は長距離、駅伝だけだと思うし、おまえなら、その中心メンバーになれると……、俺は信じてる。
 全国なんて大袈裟だな、と白けた気分になった。普通の公立中学なのに、と。
 熱血教師は小学生のころから苦手だった。がんばってお母さんを喜ばせてあげようね、などと、ひとり親だからというだけで、他のヤツらよりもがんばることを強要され続けてきたのだから。
 だけど、心の片隅で、全国大会に出られたら、母さん、ものすごく喜んでくれるだろうな、とも思った。それがひとり親だからということに由来するのか、僕にはわからない。
 結局のところ、「じゃあ」とか、「はい」といった曖昧な返事をして、僕は陸上部の長距離部門の選手となった。
 皆に遅れて自転車置き場に行くと、良太が一人で待っていてくれた。
 ――短距離に変えてもらったの?
 良太には、僕が先生のところに行った理由がわかっていたようだ。僕は首を横に振った。
 ――よかった。村岡先生に選ばれたんだから、間違いないはずなのに、もったいないよって、説得しようと思ってたんだ。
 良太が言うには、村岡先生は三崎中学の陸上部OBで、大学生のときにはあの正月駅伝にも出場したことがある、長距離ランナーだったらしい。体育ではなく、社会科の先生が、そんなにすごい人だったとは思いもしなかった。
 赴任したての昨年の駅伝大会では、それまで地区予選を突破するのもやっとだったチームを、県で一〇位にまで押し上げたという。
 ――全国、行きたいよな。
 良太のそのひと言は、僕の中の全国というイメージを、遠くにふわふわと浮いているものから、しっかりと形を成し、手を伸ばせば届きそうなところにあるものへと変えた。
 中学生活、どこを切り取っても、走らなかった日は一日たりともない。
 そして、僕たちは三年生になり、後輩部員にも恵まれ、全国がいよいよ夢で終わらないところにまで漕ぎつけた矢先に……。
 良太が両膝を故障した。
 夏休みの前半に手術が行われ、個人種目で全国大会の出場が期待されていた、予選大会への出場は、あきらめなければならなくなった。けれど、二学期から復帰できたため、中学最後の全国へ繋がる、秋の駅伝大会には間に合わせることができた。
 三〇〇〇メートルの記録も、自己ベストを出すことはまだできなかったけれど、部員の中で一番速いことに変わりはなかった。
 村岡先生は地区予選大会のメンバーから良太を外した。
 上位三チームが県大会に出場できるため、良太なしでも突破できることを見越して、良太の足に負担をかけさせまいとしたのだ。
 良太がいない。失って初めて気付く、という言葉があるように、良太の欠場はタスキの重さを二倍にも、三倍にも増した。これまでは、全力を出し切ったつもりでいても、良太がどうにかしてくれると頼る気持ちがあったのだ、ということに気付かされた。
 良太と、良太の代わりになったメンバー、二年生の田中とのタイム差を、自分が縮めなければならない。皆がこの思いで走ったのだろう。その結果が、全員が自己ベストを更新して区間賞を取るという、完全優勝だった。
 だから、村岡先生は決めたのだ。
 大会一週間前の練習後、村岡先生はグラウンドに部員全員を整列させた。男子の長距離部門だけでなく、地区大会で予選落ちした女子長距離部門も、三年生が夏の大会で一足先に引退した、男女の短距離部門も。
 部員全員の前で、駅伝メンバーの発表が始まった。
 一区から順に、名前を呼ばれたら「はい」と返事をして挙手をし、前に出て行く。県大会のコースでは、エース区間といわれる二区で、良太の名前が呼ばれるのを僕は待っていた。だけど、聞こえてきたのは、二年生のエースの名前だった。
 えっ、と口に出したヤツはいなかったけれど、明らかに空気が揺れるのを感じた。
 三区で自分の名前を呼ばれたときも、動揺はまだ続いていて、代返のような、間抜けな返事をしながら、僕は前に出て行った。
 先生は良太をアンカーにもっていくつもりか。もしくは、地区大会と同じ並び順になるよう、繰り上がりの田中が走った、五区に指名するつもりか。それは少しもったいないのではないか。
 部員たちと対面するような恰好で立った僕は、チラチラと良太の方に目を遣った。いつもと変わらない、風を切るような走り方と同様の、何を考えているのかいまいち把握できない、ひょうひょうとした表情で、良太は先生の方を見ていた。
 五区で田中の名前が呼ばれた瞬間、今度は、「えっ」という声が至るところから上がった。田中本人でさえ「えっはい」と、とまどったような返事をし、悪いことで呼び出しをくらったように、頭を下げたまま前に出てきた。
 六区のアンカーの名前が呼ばれ、前に並んだのは、地区大会とまったく同じメンバー、走り順となった。
 良太の名前は補欠一で呼ばれた。良太はメンバーに選ばれたときと同じように返事をして、前に出てきた。つい、視線が膝へ行ってしまう。
 ケガがまだ完治していなかったのか。悪化してしまったのか。でも、良太は毎日皆と同じ練習メニューをこなしている。昨日、最終予選のように行われた三〇〇〇メートル走も、良太が一位だった。
 僕は村岡先生の言葉を待った。
 どうしてこのメンバーを選んだのか。先生はそれを伝えるために、部員全員を集合させたはずなのだから。
 ――県大会出場メンバーは以上の通りだ。今年は、各地区大会で強豪校が軒並み予選落ちするという、波乱の事態が起きた。
 これは僕も知っていた。優勝候補の学校の第一走者が脱水症状を起こして倒れ、タスキを繋ぐことができなかった。こういった、メンバーの誰かが走行中にトラブルを起こし、棄権するという事態が、強豪校に続けて生じたのだ。
 他人の、他校の、不幸を喜んではいけないけれど、運は僕たち三崎中の味方をしてくれていると感じた。おまけに、三崎中は今年、奇跡のチームと呼ばれるくらい、選手に恵まれている。多分今年限りだ。今の一年生に期待できる選手はいない。
 全国大会に出場できる、最初で最後のチャンスだと、皆が思っているはずだ。
 なのに、良太が選ばれていない。
 ――良太を控え選手にしたのは、県大会のコースが、どの区間も、激しいアップダウンの続く、膝に負担がかかるコースだからだ。
 確かに、どの県もこんな山奥のコースを走っているんだろうか、と去年走った際に思った。強豪校が山間部の地域に多いことにも納得できた。
 県大会で足を壊して、全国大会で走れないのでは、他のメンバーを全国に行かせるために、犠牲になるようなものだ。
 ――全員が地区大会通りのタイムを出せば、優勝は夢じゃない。いや、良太を全国大会で走らせたい、という気持ちをもって臨めば、県大会でも、全員が自己ベストを更新できると俺は信じている。
 目だけを動かして左右を見ると、皆、先生をじっとみつめながら力強く頷いていた。
 ――選手の思いだけじゃない。控え選手、それにも選ばれなかった長距離部門のメンバー、種目は違えど、共に切磋琢磨してきた陸上部員全員、そして、支えてくれた保護者の方々。すべての思いがこめられたタスキを繋ぐのが、駅伝なんだ。
 村岡先生の言いたいことは理解できた。だけど、最後まで、僕は頷くことができなかった。できない理由もわからなかった。
 しかし、メンバー発表時のどよめきやとまどいが漂った空気は、先生が話し終えたころには、すっかり晴れているように感じた。
 解散後も、良太はもちろん、他の三年生の部員も、駅伝メンバーについて不服を唱えることはなかった。僕にしても、良太が納得してるならまあいっか、くらいにまで気持ちは落ち着いていた。
 帰り道が逆方向なら、良太はあの話を別のところで僕にしただろうか。互いに、スマホは持っていない。
 ――俺のため、じゃない。
 自転車に乗った背中越しに、良太の吐き出すような声が聞こえた。
 ――えっ?
 振り向くと、声の調子とは裏腹に、良太の顔はいつも通りのひょうひょうとした表情だった。だけど、僕は良太の顔は膝に立っていられないほどの激痛が走ったときも、これと同じだったことを思い出し、自転車を停めた。良太も自転車を停め、僕の方をまっすぐ向いた。
 ――昼休みに、村岡先生に呼び出されたんだ。今日、メンバー発表をするって。
 ――やっぱり、先に良太に伝えてたんだ。
 ――だけど、さっき、みんなの前で話したことだけじゃない。もちろん、膝のことも言われたけど、むしろ、そこでやめておいてほしかったよ。まあ、俺が、全国で走れなくなってもいいから県に出たい、って言ったのがまずかったんだろうけど。
 ――良太が走りたいって言ってんのに、外さなきゃなんない理由なんてあんの?
 まったく思いつかなかった。良太は口を開いて、続きを話そうとしたけれど、あっ、と何か思い出したふうに、顔をしかめた。
 ――何? 僕に関係すること?
 ――そうじゃないけど……。気を悪くしたらゴメン。田中のお父さんが、癌か何かの病気なんだってさ。今年いっぱいもつかどうかの。
 良太が言い淀んだ理由がわかった。
 ――田中がお父さんを喜ばせたいから、県大会も走らせてほしいって、村岡先生に頼んだってこと?
 僕が訊ねると、良太は首を横に振った。
 ――多分、田中や田中の家族が頼んだんじゃないと思う。
 確かに、メンバー発表で名前を呼ばれたとき、田中は心底驚き、とまどっているように見えた。
 ――先生は田中の担任だから、お父さんの病気のことを知って、見舞いにでも行ったんじゃないかな。そこで、いつもの調子で熱くなって、息子さんもがんばって全国大会を目指すので、お父さんも負けないでください、みたいなことを言っちゃったんじゃないかと思う。
 良太の想像を、僕も鮮明に思い浮かべることができた。もしかすると、見舞いにも行かず、余命わずかという情報だけで、先生が勝手に暴走しているんじゃないかとも考えた。
 ――まあ、田中は地区大会、本当にがんばったからな。自己ベスト、四〇秒更新だっけ? 正直、あんなに速く走れるとは思わなかった。まだまだ伸びそうな気もするよ。
 良太は田中を憎らしく思ってはいないようだ。
 ――だからって、良太を外すことないじゃん。
 ――じゃあ、誰を外すの?
 僕はすぐに答えることができなかった。学年順でいえば、もう一人の二年生メンバーだけど、彼は良太に次ぐエースだ。三年生メンバーを誰か外す? 田中の記録が上がったとはいえ、僕を含め、田中より遅いヤツはいない。
 ――先生がメンバー全員に田中のお父さんのこと話して、頼む、誰か一人外れてくれ、って頭下げて、引き受けるヤツなんている?
 僕は無理だ。
 ――逆に、そんなことしたら、田中自身が辞退するだろうし。俺の膝を心配するふりをするのが、一番まるくおさまるんだよ。
 体の中心が震え、徐々に全身に広がっていった。そんなのおかしいよ、という叫びが喉元まで込み上げている。それをゆっくり飲み込んで、良太に訊ねた。
 ――あきらめていいの?
 他人である良太のことで、歯を食いしばっていないと震えが止まらないほどの腹立たしさが、全身を覆っているのに、良太本人は、まるで他人事のように、淡々と話している。
 僕は、良太が答える前に、言葉を重ねた。怒りを、体内から放出するように。
 ――このことを三年全員に話して、村岡先生に抗議しに行こうよ。どうせ、先生は一時的な感情に流されているだけなんだから。僕らがこの三年間、どれだけ練習を重ねてきたかは、先生が一番よく知ってるはずだ。全員で訴えれば、先生も間違ってたことに気付くはずだよ。
 ――ありがとう。
 良太は少し照れたように笑った。シュッと消火剤をかけられたような気分になる。
 ――いや、そうじゃなくて……。
 僕に怒りを再燃させるエネルギーは残っていなかった。もやもやとした思いがくすぶっているだけだ。
 ――俺だって悔しかったけど、理由がバカバカしすぎて、逆に、もういいやって思ったんだ。でも、やっぱり、誰かに聞いてほしくて。圭祐が怒ってくれたおかげで、もう本当に、どうでもよくなったよ。
 ――そう……、なんだ。
 言われてみれば、自転車を停めたときよりも、良太の顔は晴れやかに見えた。
 ――それに、決意もできた。
 僕は一瞬、良太が陸上をやめると言い出すのではないかと、ドキリとした。どうか違いますようにと、おそるおそる訊ねた。
 ――何の?
 ――推薦。青海学院から来ているんだ。
 私立青海学院高等学校は、県内有数のスポーツ強豪校だ。特に駅伝では、ここ二年は出場を逃しているけれど、全国大会の常連校として知られている。
 ――すごいじゃん。まあ、良太なら当然か。
 ――そんなことない。この夏の大会に出場できなかったから、三〇〇〇メートルの記録も、去年の県大会のタイムのままだし。
 四位入賞した好記録だ。
 ――やめとこうかなって、迷ってたんだ。
 ――ええっ、どうして? もったいない。
 もしも、自分に来たら、夢のような話なのに。
 ――県内のライバルたちはみんな、二年生のときより、うんと伸びている。だけど俺は、今の記録が人生のベストタイムになるかもしれない。
 そんなことを言われると、視線は良太の膝に行ってしまう。ジャージの長ズボンの上からでは、何もわからないけれど。無責任に励ますこともできない。
 ――だから、今回の駅伝には、願掛けのような思いもあったんだ。去年のタイムを一秒でも上回ることができたら、まだ終わりじゃない。青海学院に行こうって。
 ――それじゃあ、なおさら……。
 村岡先生に対する怒りがまた込み上げてきた。練習している姿だけではない。先生は良太がケガと戦い、克服する姿だって、間近で見ていたはずじゃないか、と。
 ――いや。自分が勝負をかけるのはこんなところでじゃない、って思うことができた。私立の強豪校なら、絶対に家庭の事情なんかで選ばないはずだから。実力でレギュラーを勝ち取って、全国で走ってやるんだ。
 良太の視線は僕の方を向いているけれど、僕を通り越し、もっと先を見ているように感じた。

(つづく)


書影

湊かなえ『ブロードキャスト』


あらすじ

コンテストの順位より、大事なものがあるんじゃないか。
町田圭祐は中学時代、陸上部に所属し、駅伝で全国大会を目指していたが、3年生の最後の大会、わずかの差で出場を逃してしまう。その後、陸上の名門校、青海学院高校に入学した圭祐だったが、ある理由から陸上部に入ることを諦め、同じ中学出身の正也から誘われてなんとなく放送部に入部することに。陸上への未練を感じつつも、正也や同級生の咲楽、先輩女子たちの熱意に触れながら、その面白さに目覚めていく。目標はラジオドラマ部門で全国高校放送コンテストに出場することだったが、制作の方向性を巡って部内で対立が勃発してしまう。果たして圭祐は、新たな「夢」を見つけられるか――。

著者 湊 かなえ(みなと・かなえ)

1973年広島県生まれ。2007年「聖職者」で小説推理新人賞を受賞。翌年、同作を収録した『告白』でデビュー。本著は、「2009年本屋大賞」を受賞。映画化を経て累計300万部のベストセラーに。12年「望郷、海の星」(『望郷』収録)で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。16年『ユートピア』で山本周五郎賞受賞。18年『贖罪』がエドガー賞ベスト・ペーパーバック・オリジナル部門にノミネートされた。その他の著書に、『少女』『物語のおわり』『絶唱』『リバース』『ポイズンドーター・ホーリーマザー』『未来』『落日』などがある。

書誌情報

発売日:2018年8月23日(木)
定価:本体1500円+税
体裁:四六判並製
頁数:312頁
装丁:片岡忠彦
装画:へびつかい
発行:株式会社KADOKAWA
初出:学芸通信社の配信により神戸新聞、高知新聞、熊本日日新聞、秋田魁新報、北國新聞、中国新聞、信濃毎日新聞の各紙に2017年1月~2018年3月の期間、順次掲載
https://www.kadokawa.co.jp/product/321612000239/

続編連載中!


ドキュメント

【新連載試し読み】青春小説『ブロードキャスト』、 待望の続編がスタート! 湊かなえ「ドキュメント」


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