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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.50

【連載第50回】東田直樹の絆創膏日記「ひょうひょうと生きる」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす26歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第49回】東田直樹の絆創膏日記「記憶の点を跳び回る」

 前後に小さく体を揺らす。僕は、じっとしているのが苦手なのだ。
 体を動かさない状態でいると、次第に自分の周りが揺らぐ感覚に襲われる。そして、少しずつ後ろに後退していくような錯覚に陥るのである。その感覚に抵抗するかのように体を揺らし続けると、この違和感は消える。
 動かないという受け身の状態から、自分が主体的に行動するという能動的な状態に変わるからだろうか。
「僕はここにいる、僕はここにいる、僕はここにいる」
 後ずさる体を元の位置に戻すために、一定のリズムで体を揺らす。
 体が揺れている間は脳も揺れる。前に後ろに、音楽を聴きながら拍子を取っているみたいに。
 動いている方が、僕の脳はリラックスするのだ。
 体と頭を同時に揺らすことで、じっとしていても、前に前に進んでいるような気分になれる。
「ここに僕がいる、ここに僕がいる、ここに僕がいる」
 それは、まぎれもない事実。
 瞼を閉じ、人差し指で両耳を塞ぎ気持ちを落ち着かせる。
 自分自身に言い聞かせなければ、僕はこの世界になじむことが出来ない。
 居場所を確保するために、この体は揺れ続けるのだ。

 僕は自閉症という障害を抱えているが、少しは、よくなって来たと期待に胸をふくらませる時と、小さい頃から全然変わっていないと自分に失望し、悲嘆にくれる時がある。そんなふたつの時期を行ったり来たりしている。
 期待も失望も心の変化である。
 期待している時、心は浮き立ち、わくわくする。成功した状況ばかりが頭に浮かんで来る。失望すると、崖から突き落とされたような気分になる。
「がっかり」から「絶望」まで、失望の気持ちの幅は広い。どちらにせよ、人は永遠に期待し続けることも、失望し続けることもないように思う。期待しては失望し、失望しては期待する。その繰り返しではないだろうか。
 誰だって、失望なんてしたくない。けれど、自分の期待通りに物事が進み続けることなど有り得ない。
 大きな期待が小さな失望に変わったのだとしたら、それは期待という感情だったのではなく、予測という想像だったのだと思うし、小さな期待が大きな失望に変わったのだとしたら、自分の本心に気づかなかっただけだろう。
 期待と失望は、合わせ鏡のようなものである。
 期待が大きければ大きいほど、失望も大きくなるし、期待が小さければ小さいほど、失望も小さくてすむ。
 期待してもしなくても、嬉しさそのものに変わりはないのではないか。
 起きた事実は過大評価せず、そのまま喜べばいいのだ。
 失望を恐れず期待し過ぎないことが、物事を冷静に考察するために必要なことなのであろう。

 ハロウィーンの季節が来た。
「Trick or treat?(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」
 これは、子供達が仮装をして各家庭を回り言う言葉である。
 いたずらをすると、普段は大人から叱られるのに、ハロウィーンの時だけは、子どもに偉ぶる主導権が与えられる。この日ばかりは、「いたずら」という言葉を聞いても、大人は怒ってはいけないのだ。
「Trick or treat?」と子どもに言われたら、降参してお菓子を渡す。
 お菓子をもらった子どもは、有頂天になるに違いない。
 大人を困らせて、お菓子を手に入れたからだろうか。いや、大人を懲らしめているような気分になれるのが楽しいのだろう。
 お菓子をくれないならいたずらするなんて、そんな都合のいいことなどあるわけがないのに、有り得ない子どもの夢が実現する日が、ハロウィーンなのである。
「Trick or treat?」に込められた子どもの気持ちは、こんな感じではないのか。
「いつも僕たちのことを叱るけど、大人だって悪いところがあるよ。それが何かは、うまく言えない……」
 子どもの問いかけに、「I’m scared(わあ、恐い)!」そう大人は答えるが、この言葉が子どもには、「ごめんね」に聞こえる。
 子どもはやさしい。お菓子をもらったら、いたずらしない。そして、ハロウィーンの翌日からは、また素直に大人に叱られるのだ。
 大人という、子どもとは別の人間になる日まで。

 緑の葉っぱが茶色になると、それだけで悲しくなる。葉っぱが散ればなおさらだ。
 落葉しない木がある一方、葉っぱが一枚も残らない木がある。
 どんなに太い幹や立派な枝ぶりでも、落葉した木が、人の目を引くことは、あまりない。葉っぱが生い茂ると、鳥や虫が近づく。多くの人は、葉っぱの緑色に関心を寄せているのだと思う。
 葉っぱが散っても、木は死んだわけではない、ひと時の休眠状態であろう。
 晴れの日も雨の日も、同じ場所で、じっと立ち続ける木、まさに「ひょうひょうと生きる」という言葉がぴったりである。
 木は、誰かのために生きているのではない、自分自身のために生きているのだ。
 葉っぱを手放したあと、木が寂しそうに見えると考えるのは、人間だけである。何にでも、すぐに感情移入し、自分だったらと想像する。それは、人間に対しては必要な感情に違いない。
 木にも命があるのは確かだ。その命を大切にしたい人間の気持ちにも嘘はない。なのに、人間が葉っぱのない木を憐れむ様子は、何だか哀しく見える。
 木と心を通わせることが出来ているとは言い難いからだろう。葉っぱが散るのは、木のあるべき姿だからだ。
「そうは言っても……」と理屈づける人間。
 人間はいつも、自分のために釈明したがる。


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